エピローグ
リリリリリリー
スズメが何の気兼ねもなくチュンチュンと鳴けるくらいに晴れ渡った朝。亜紀雄の夢は電子音によって途切れた。
リリリリリリー
「……ん……む……」
耳障りな音に顔を歪めながら、布団の中でモゾモゾともがく亜紀雄。しばらく右に左に寝返りを打った挙句、亜紀雄は亀のように布団から腕を伸ばして、
リリリリ、リ…………
アラームを止めた。
そして再び腕を布団の中にしましこみ、「すうすう」と寝息をたて始める。
別段、亜紀雄は朝に弱いわけではない。毎朝目覚ましが鳴る前に目覚めるというほどではないが、しかし起こされればその時点で意識は大抵はっきりする。二度寝など、今まで数えるほどしかしたことがなかった。
だが、今日は違う。
朝だというのに、周囲は十分明るいというのに、それでも亜紀雄のまどろみは晴れない。睡魔は消えない。やたら眠い。それもそのはずである。
昨夜亜紀雄が眠りについたのは、明け方の四時。
家に帰ってきた時点ですでに深夜二時を回っており、その後腹ごしらえなり何なりを終えた頃には、さらに二時間が経っていたのだ。いつも十二時には床につく亜紀雄には、大晦日以来の夜更かしであった。
加えて、目覚ましが指し示す現在時刻は、六時。
いつもの起床時間の一時間前である。
それというのも、今朝は体育委員の仕事が急きょ増えたからである。昨夜はあんなことがあったというのに、他の事など考えてられないような目に遭ったというのに、寝る直前になって思い出したのだった。花塚まいみがわざわざ家を訪ねてきて、伝えてきたことを。無視してしまおうとも思ったが、これ以上村雲教諭の機嫌を損ねるとどうなるか分かったものではなかったので、仕方なく目覚ましの時間を早めたのであった。
だが、いざ朝になると起きる気にはなれない。
これほど強烈な睡魔に抗う術を、亜紀雄は知らなかった。
結局、目覚ましが鳴る前のような、目覚ましなんて最初からセットしていなかったのではないかとでも言うような、幸せそうな熟睡風景が続いている。スズメの鳴き声と寝息の二重奏だけが響いている。と、そこへ――
「主―っ。朝ですよーっ」
扉が開き、スズランの明朗な声。彼女も亜紀雄と同じ――あるいは、それよりも数十分睡眠時間を削っているくらいの――タイムスケジュールで朝を迎えたはずだが、しかしその顔には眠気も疲労も浮かんでいない。いつもの朝、もしくはいつも以上に晴れやかな朝の様相であった。
朝日に負けないくらいのまぶしい笑顔を浮かべたスズランは、亜紀雄のベッドの方へ近づいていって、
「さっ、主。起きてください」
背中を揺らしながら声をかける。
しかし亜紀雄は、布団の中で鬱陶しそうな顔をして、
「……う……うん……」
ごろんと体を回転させて、スズランに背中を向けた。
「主、遅れますよ?」
「…………むん……」
「朝食はもうできてるんですから、さあっ」
「……む……むん……」
うめき声しか返ってこない。
スズランは腰に手を当てて「もうっ」と息を吐き、再度亜紀雄の背中を揺すって、
「ほら、また先生に怒られてしまいますよ?」
「……む……む……」
「起きてくださいっ」
「……むーん……」
一言ごとに、耳に近づいてくるスズランの声。夢うつつの中、亜紀雄の脳裏に嫌な予感が駆け巡った瞬間――
――頬に、生暖かい感触。
「――うひっ」
亜紀雄は飛び起きた。
「な、ぬ、あ、スズラン、今、何し――」
「うふふ。ドラを取り上げられてしまいましたからね。次はどんな方法にしようかと考えていたのですが、やはり『押してだめなら引いてみろ』だろうと」
言いながら、胸を張るスズラン。
「……だ、だからって――」
「効果てき面のようですし、しばらくはこの手でいきましょうか、うふふ――――さ、パンももう焼けてますから、早く降りてくださいね」
やたら嬉しそうな顔で言いながら、スズランはドアへと進んで行く。
スズランが廊下へと足を踏み出そうとした間際、その背中を眠気眼でぼんやりと眺めていた亜紀雄は、思い出したように、
「……そうだ、スズラン。体はもう大丈夫なのか? 昨夜は応急処置しかしなかったけど」
「はい、何も問題ありません。すこぶる快調です。まあ、憑いてしまえば人形の亀裂などほとんど関係ありませんし。それに、昨夜主が手ずから処置してくださった肢体ですから」
「……やめろ、そういう誤解を招くような表現は」
「うふふふふ」
まるで本日が人生最良の日であることを確信したかのように、どこまでも楽しそうに笑いながら、スズランは部屋から出て行った。
亜紀雄はのっそりとベッドから這い出し、クローゼットを開きながら、
「……まあ、日常は日常だから幸せってことかナ」
呟くような、独り言。
校庭のライン引きを遂行し、
朝だというのに結構な疲労感を感じつつ、ぱらぱらと登校してきた生徒達に混じって、亜紀雄も自教室にたどり着いた。
まだ数人しかいない一年三組のクラスルーム。
カバンの中身を机の中に移し変え、ようやくこやく一息つけると、亜紀雄は椅子にどかりと腰を降ろした。
ふと教室の後方に目を向けると、机に片肘をついている小林雑音。大きな口を開けて、あくびをしている。
亜紀雄は、周りの人間がこちらを意識していないのを確認すると、本日の授業の確認をしているスズランにも感づかれないように、雑音の方へそっと近づいていって、
「……小林君」
「ん? ああ、お早う、鞘河君」
「お早う。…………あの、昨夜は本当にありがとう。もし君が居なかったら、どうなってたか――」
「はは、別にいいよ。言ったでしょ? あれは恩返しだって」
「あ、ああ。そうだったネ。…………でも、前から疑問だったんだけど、恩返しって一体僕は君に何を――」
「――小林君!」
突然の会話への乱入者。女子生徒の声である。
亜紀雄と雑音が同時にそちらへ顔を向けると、そこには肩を怒らせた東香々美が立っていた。カバンも置かず、頬を膨らませてこちらを睨んでいる。
雑音は狼狽しつつ、頭上にハテナという文字を浮かべながら、
「……東さん? どうしたの、朝っぱらからそんな怒って?」
「どうしたもこうしたもないわよ!」
香々美は依然言葉に怒気を含ませて、
「ちょっと、何なのよ! あのホワイトデーのお返しは! 開けてびっくりしたわよ!」
「ホワイトデーの? って、昨日渡したやつ? あれ、そんなまずかったか? ……でも、君がくれたのだって結局義理チョコだったんだから、そこまでハイレベルなのを期待されても――」
「何でモンブランケーキなの!」
気圧を変動させるかのような、香々美の怒鳴り声。
雑音は豆鉄砲を食らったような顔で、
「………は?」
「よりにもよって、栗嫌い歴十六年の私に、モンブランケーキを送りつけるとは! どんな嫌がらせよ! 折角チョコ上げたのに! 恩をあだで返されて砂まで引っ掛けられた気分だわよ!」
「だわよ、って――――というか、君は栗嫌いだったのか? いや、そんなの知らなかったんだ。悪かったよ。それは完全に不可抗力なんだ」
「まったく、リサーチが足りてないわ!」
目を逆ハの字にして、ぷいっとそっぽを向く香々美。ふと、片目を開けて雑音の方を見やり、
「…………小林君、反省してる?」
「へ?」
「反省してるかって聞いてるの」
「いや、まあ、嫌いなもん渡しちゃって、悪かったなー、とは思ってるよ」
「だったらその贖罪に、ここに連れてって!」
言うが早いか、香々美はばっと雑音の目の前にぺら紙を差し出してきた。
雑音はそこに書いてある文字を見つめ、
「……何、これ?」
「読めば分かるでしょ! ケーキバイキングよ、ケーキバイキング! 三十種類のケーキが食べ放題なのよ! 小林君、私をここに連れてって。もちろんおごりで!」
「な、何だそりゃー!」
叫ぶ雑音。
「ちょ、そりゃあ話が飛躍しすぎだろ! 聞いてないって! 何だよ、これ。参加費五千円じゃないか! しかもこれ、店の場所が結構遠いし! 片道だけで電車賃千円以上かかるぞ!」
「これぐらいしてもらわないと」
「割に合うかー! 義理チョコのお返しに、何で貯金を切り崩さなけりゃならないんだ! ふざけるな! こんなの、僕は断じてゴメンだぞ」
「……ふーん。私を連れて行く気はない、と」
「当たり前だ!」
「……なるほどー、そっかー、そうですかー……」
冷めた声で、思わせぶりなイントネーションで言う香々美。背中で手を組み、視線を下に向けて、
「……じゃあ、私、今後一切、あんたに数学の宿題見せないわよ?」
「な…………!」
「しかも、それだけじゃないわ。古文も世界史も、化学も見せてあげない。もちろん、夏休みも冬休みもね?」
「な、何と言う…………」
雑音は顔面蒼白で、がたりと床に崩れ落ちた。――――どうやら、氷の精霊すら瞬殺するこの男の弱点は、数学と古典と世界史と化学だったようである。
「……さあ、小林君。もう一度聞くわ。私を、このケーキバイキングに、連れて行ってくれる?」
「くっ…………」
雑音は肩をわななかせ、
「…………勝手にしろ」
「わーい、やたーっ! これ、絶対約束よ! 今週の土曜日ね! 待ち合わせ場所と時間は後で連絡するから!」
そう言って、満面の笑みで手を頭上でぶんぶん振りながら、自分の席へと帰っていく香々美。
――とりあえず、今週末に決定されたこの二人のデートに心にもない祝福を贈りながら、額から冷や汗を垂らしつつ、亜紀雄は雑音の席からそっと離れた。
いつも通りの英語、数学、体育、地理の授業を乗り越え、やっと迎えた昼休み。
スズランお手製の弁当を数分で平らげ、「ごちそうさん」と言いながら弁当箱をカバンにしまいこんだ亜紀雄は、「おそまつ様です」と理想の奥さん的微笑を返してくるスズランに、
「ちょっと、行ってくる」
「どこへです?」
「ヤボ用。数分で戻るから」
それだけ言って、亜紀雄は教室から出て行った。
亜紀雄が向かったのは、体育館裏。
学校を取り囲む塀と体育館の壁にはさまれた、ジメジメした場所。日もほとんど差さない寂しい場所で、ここを通る生徒もまったくいないのである。
亜紀雄がそこにたどり着くと、すでに先客がいた。
これが自分のアイデンティとでも言うように、いつも通りのポニーテールを提げた女子生徒。手持ち無沙汰なように足で地面に絵を描いている、花塚まいみである。
まいみは、ようやく現れた亜紀雄に気付き、
「もうっ、遅いですよ!」
「ああ、ごめん」
頭をかきながら、謝る亜紀雄。
休み時間に廊下ですれ違った際、昼休みにここへ来るよう呼び出しておいたのであった。雑音の時は周囲にほとんど人がいなかったが、しかしあれは偶然そうなっただけでまいみとまた同じ状況になる可能性は極めて低いからである。
しかも、雑音はわざわざあんなところに現れたことから考えていくらかわけを知っていたのかもしれないが、このまいみがスズランに関する何やらかんやらを知っている可能性は低い。人がいる手前で、大声で理由やら原因やらを尋ねられたら敵わんということで、このような人気のない場所に呼び出したのだった。
「あ、で、その、話って言うのは――いや、何て言ったらいいのか、いまいちよくわからないんだけどさ――」
「まったく、告白なら早くしてください! 回りくどいですよ!」
「……へ?」
亜紀雄は目を点にした。
「…………告白?」
「もう、こんなありきたりな場所に呼び出されたら、それくらい分かりますよ! まったく。言いたいことがあるならさっさと言ってください!」
「……いや、あの……その……告白じゃ、ないんだけど……」
「……へ?」
今度はまいみが目を点にした。
「いや、告白とかじゃなくて、昨日のお礼をと思ってネ。その、君の言葉は胸に響いたというか、刺さったというか。…………実際、君がハッパをかけてくれなかったら、僕はあのまま諦めてただろうしね。助けられたんダ。だから、凄く感謝してる。本当――ありがとうございました」
言いながら、亜紀雄はぺこりと頭を下げる。
「そ、そそ、そうですか!」
まいみは慌てた顔になり、顔を明後日の方に向けて、
「べ、別に私はハッパをかけたとかそういうんじゃなく、ただあなたの心をなぞっただけですから、そんな感謝されるいわれはないんですが…………ま、まあ、一応受け取っておきましょう――――よ、用はそれだけですか? だ、だったら、私は次の授業の準備をしなきゃならないので、ささ、先に帰ります」
そう言って、そそくさと立ち去ろうとするまいみ。
まいみが裏道から出ようとしたところで、
「…………花塚さん」
亜紀雄は呼びかけた。
まいみはひょこんと振り返り、
「は、はい? 何です?」
「……もし――――もし、今、僕が本当に君に告白したとしたら、返事はどっちなんですか?」
亜紀雄は、考えもなしに、何となく、どうということもなく、聞いてみた。
しばらく亜紀雄の目をじとりと見ていたまいみは、顔を前に戻し、
「……そんなの、今答えてもしょうがないじゃないですか」
「……そりゃそうダ」
「じゃ、また」
そう言って、まいみは校舎へと帰っていった。
一人残された亜紀雄は、呟くように、
「…………花塚さん、別に、人の心が読めるってわけじゃないのかな?」
現代文、物理の授業を乗り越え、あっという間に、あるいはようやく訪れた下校時刻。
部活に所属している生徒はすでに部室やグラウンドや体育館に向かっており、帰宅部の人間ばかりが帰り間際の談笑を催している中、カバンを膝元に提げたスズランが、いつもの質問を亜紀雄にしようとして――
「さ、帰りましょうか、主。今夜の夕飯は一体何を――」
「アキオーッ。一緒に帰りまセンか?」
――スズランのセリフは、リーネの声に遮られた。
「駅前に新しい喫茶店ができたらしくて、そこのパフェが絶品らしいのデス。ちょっと寄っていきまセ――」
「――リーネさん?」
ひょっこりと亜紀雄とスズランの間に顔を出したリーネに、スズランはおどろおどろしい声音で、
「……あなた、昨日の今日で、よくもまあそんな風に主に話しかけることができますね?」
「昨夜言ったじゃないデスかー。『クラスメイトとしてよろしくお願いします』って」
「それにしたって、あなたは私の命を狙っている者なのですから。そうそう気を許してはおられませぬ」
「ウフフ。敵と言っても、それは当分先の話デスよ」
「……どうだか。我々を油断させるための口上じゃないんですか?」
「ホントデスよ。――――実際、今の私には、それよりももっと重要なコトがあるのデス」
そう言いながら、スズランにも気取られない程度の僅かな動作で、リーネは視線を教室の後方へ向けた。その瞳の先には、自分の席に座り、東香々美と談笑している――
リーネはふっとスズランの方に意識を戻して、
「それに、それだけではないのデス」
「それだけじゃない? あなたが主に話しかけてきて、私に突っかかってくる理由が、他に何かあるというのですか?」
「ええ、ありマスよ。おおありデス」
リーネは首を少し横に傾け、「ウフフン」と笑いながら、
「あなたは、私の恋敵なのデス」
けろっとした表情で、そう言った。
――ちなみに、現在の教室の状況を説明すると、亜紀雄の席が教室の中ほどにあるおかげで、当然のごとくこの会話も部屋の中心で行われている。しかも、現時点で部屋の中にいる生徒はほどよい人数で、周囲はそこまでうるさくもやかましくもなかった。おまけに今のリーネの声量はなかなかに大きくて、加えて言うなら他のクラスから遊びに来た生徒まで数人居合わせており――
――ようは、大多数の生徒に今のセリフを聞かれたのだった。
明日には学年中、そして一週間後くらいには学校中に知れわたっていることだろう。
今のリーネのセリフが、実はスズランが亜紀雄の恋人であることが前提で放たれていることも捨て置きがたい。
「ちょ、あ、あなた! な、何を言ってますか!」
「ウフフ。言葉の通りデスよ〜」
というスズランとリーネのわめき合いを聞きながら、亜紀雄はぐたりと机の上に覆いかぶさり、ハアとため息をついた。
『歩くマイナス極』――――『死の精霊』
双方共に、人にとって願い下げな字である。ネガティブでしかない響き。マイナスイメージな言葉。嫌われ、疎まれるに足る存在。嫌われ、疎まれる存在でしかない。
しかし、
そんな二人が一緒にいるなら、共に歩んでいくなら、どうにかなるかもしれない。どうにでもなるかもしれない。マイナスかけるマイナスがプラスになるように、結果はプラスになるかもしれない。明るいものになるかもしれない。幸せなものになるかもしれない。
――スズランと僕が共にいるならば、未来は輝いていく。
亜紀雄はそんなキレイ事で、キレイ事にも似た気休めで、キレイ事に似た戯言で納得しようと思っていたのだが――
「あっ、そうデス、アキオ。今日はウチに泊まっていきまセンか? そうしまショウ。何なら、私がアキオの背中を流してあげマ――」
「主! こんなのは放っておいて、さっさと帰りましょう! …………そうだ! 今日は特別に私が添い寝して、寝物語を読んで差し上げ――」
「もう、止めてくれーっ! 周囲の視線が痛いんダッ!」
『歩くマイナス極』鞘河亜紀雄は、どっちがプラスでどっちがマイナスなのか、どっちがポジティブでどっちがネガティブなのか、どっちが正で負なのか、もはや分からなくなりながら、見当もつかなくなりながら、それでも困りつつ、戸惑いつつ、笑いつつ、はしゃぎつつ、今日から明日へと、現在から未来へと――
――スズランと一緒に、歩いていく。
〈スズランとマイナス END〉
後書き
というわけで『スズランとマイナス』でした。
本作は、三人称表現で、過去のキャラを使いつつ、普通のお話を書こうとした物語です。結果的に普通のお話になったのかはよくわかりませんが。元々はもっと薄っぺらい話にするつもりだったのですが、思ったよりキャラクターが頑張ってくれました。結構気合が必要でした。
次は東リーネを主人公にした作品でも書いてみようとも思ったんですが、先のことはどうなるか分かりません。それよりもまず連載中小説を、と……。この作品で、式織の三人称表現に関しては、自分評価で一応及第点に届いたかなと思うので、そろそろまた一人称作品に立ち向かおうと思っています。
ともあれ、拙作にお付き合いいただきありがとうございました。また何かの折に再会できればと思います。
式織 檻