第七話「屋上にて」――その二
「はあ、はあ、はあ、はあ…………」
人影がもはや三つしか見えない校舎の屋上。
亜紀雄は腰が砕けたように、地面にへたりこんでいる。
目の前には、紅色の着物をまとった日本人形。眠るように、くたりとコンクリートの上に倒れている。それはもはや人形であり、人形でしかなく、人形でしかないため、それ以上動くわけもなかった。
「…………はあ、はあ、はあ、はあ」
「亜紀雄様!」
聞き慣れた声で名前を呼ばれて、亜紀雄は驚いた――――何よりも誰よりも聞き慣れた声で呼ばれたこそ、亜紀雄は驚いたのだった。
首を回して振り返ると、砕けた腕で上体を起こしているスズラン。肩の力だけで体を滑らし、少しずつ亜紀雄の方に近づきながら、
「亜紀雄様! ご無事ですかっ?」
――そうか。エンが消えたから、テリトリーも消えて声が通るようになったんだ。聞こえるようになったんだ。届くようになったんだ。
亜紀雄は納得して、
「ああ……大丈夫」
少しずつ息を整えながら、静かに答える。
ふと、コツコツとこちらに近づいてくる足音に気付いて、亜紀雄は目線を上げた。目の前には、腕を組んで立ち尽くす東リーネ。口をへの字にした表情で、亜紀雄を見下ろしている。
「……な、何だ? 今度はお前が相手になるっていうのか?」
「いえ。その気はありまセン」
首を水平に振りながら小さな声でそう言うと、リーネは身をかがめ、亜紀雄の前に転がっている日本人形をすくうように手に取った。そして再度直立し、
「残念ながら私には精霊のような能力はありまセンし、このままでは私が直接スズランさんに攻撃しなくてはなりまセン。……教室でならともかく、敵としてスズランさんの攻撃半径に入るのは避けたいデスしね。私はそんな身の程知らずではありまセンよ」
「じゃあ――」
「……そうデスね、今回はこれで身を引きマス」
言いながら、リーネはフウッと深いため息をついた。
「保険の意味も込めて、精霊を二人も降ろしていたのに…………。負けるなんて、ホント想定外デシタ。特に、小林さんにユネアを倒されたのが誤算デシタね。そのせいで、エンはスズランさんを抑えながらアキオを相手にしなくてはならないという、何とも不利な状況に陥ってしまいマシタから……。ユネアはアキオに対して十分な能力を割けませんデシタし、しかもアキオは札を持っていたわけデスし、ね――まあ、それでも勝算はあったはずなんデスが――……アキオ、よくエンのエナジーポイントが分かりマシタね?」
「え? そ、それは――」
「ウフフ。……別に言われなくても分かりマスよ。数時間相対したスズランさんなら、エナジーポイントくらい読んでいたでショウし……。偶然にしては偶然過ぎる。マグレにしてはマグレ過ぎる。奇跡にしては奇跡過ぎる。恐らく――――〈そういうこと〉なのでショウ? ウフフン。とりあえずは、『おめでとうございます』と言っておきまショウか?」
肩を落とし、リーネは気の抜けたような、力のない笑顔を浮かべる。
亜紀雄はスクッと立ち上がりながら、
「……しかしお前は――――お前らは、スズランのことを諦めるわけじゃないんだろ? 納得したわけじゃないんだろ? そのうちまた襲ってくるつもりなんだろ? 精霊を降ろしては、何度も僕達に――」
「いえ……。正直言うと、思い通り、狙い通り、理想通りの精霊を降ろすには、私でも少し時間がかかるのデスよ。ユネアもエンも、結構苦労して降ろしたんデスから。運がよくても一週間――――あるいは数ヶ月の間、どうにならない可能性もありマス。デスからまあ、スズランさんに対抗できる戦力を得るまで、再戦を挑むまでには少し期間が開くことになる――――ということに〈しておいてくだサイ〉」
「……〈しておいてください〉?」
違和感のある表現に、亜紀雄は首をかしげて聞き返した。
しかしリーネは、意識を亜紀雄からずらすかのように視線を外し、屋上の入口の方に顔を向けて、
「――とりあえず私にも、色々考えなければならないことがあるのデスよ」
まるでドアの向こう、階下の踊り場を睨みつけるように、瞳に鋭利な輝きを浮かべた。
「…………リーネ?」
「ま、とにかく!」
リーネは急にやたら明るい声音に変え、気分を切り替えるように、
「今回は私の負けデス! それは認めマス! これで私は帰りマス! そういうわけで、明日からはまたクラスメイトとして、よろしくお願いしマス」
そう言って、後ろに手を振りながら、リーネはドアから出て行った。
――バタンッ
今夜、二人目の退場者。
あるいは、脱落者。
こうして屋上の人影は、残り二つになる。
星空の下。急に静かな空気が流れる屋上――――ふいに、
「亜紀雄様!」
スズランが声を上げた。
亜紀雄が振り返ると、スズランは依然砕かれた腕で上体を持ち上げたまま、悔いるような後悔するような表情を亜紀雄に向けて、
「……今回は、本当に申し訳ありませんでした。私のせいでこのようなことになってしまい。私の問題に亜紀雄様まで巻き込んで。亜紀雄様にまで迷惑をかけて。あまつさえ、亜紀雄様におケガまでさせてしまって…………。心底から悔いております。反省しております。もう二度と、このようなことは起こしませぬ。誓って、同じ間違いは犯しませぬ。断じて、二の舞は踏みませぬ。本当に申し訳ありませんでした。申し訳ありませんでした。申し訳ありませんでした。この償いは、私がこの身をかけて――」
「スズラン――」
スズランの謝罪を遮るように、亜紀雄はスズランの名前を呼んだ。そしてくるりとスズランから顔を背け、街の夜景を眺めるような立位で、
「――前から言おうと思ってたんだけどさ」
「……はい?」
「君の言葉には、一つ、矛盾があると思うんダ」
亜紀雄はスズランに背を向けたまま、遠くに語りかけるように言う。
スズランは首をひねり、風にそよぐ亜紀雄の後ろ髪に問いかけるように、
「わ、私の言葉に、矛盾……ですか? ええと、それは――」
「……あの委員会の時、君はこう言ってたよね? 『僕の最期を看取るまで、僕の側にいる』って。……文章は少し違うかもしれないけど、そんなことを言ってた。そんなニュアンスのことを言ってた。確かに言ってた。宣言するように言ってた。ちゃんと覚えてるよ。…………そして、今日。僕の部屋で、君は何て言った? 君は――――君は、『この身が滅ぼうとも――』って、言ったんだ」
「…………あっ……」
亜紀雄の言葉を認識し、亜紀雄が言おうとしていることを理解して、虚を着かれたような顔になるスズラン。
「……これは、どう考えても矛盾してるだろ? 前者は、僕が先にいなくなる。だけど後者は、君が先にいなくなる。……これは、どうしたって同時には起こりえないことだ。起こりえないこと、ありえないこと。もし…………もし君が本気で、僕が死ぬまで僕の側にいようとするなら、君は滅んだりしちゃいけないだろ? 消えちゃいけないだろ? いなくなっちゃいけないだろ? そんな風に自分を犠牲にしたりしたら、実現しない。約束が守れるわけがない」
風のような声で、諭すように亜紀雄は言葉を続ける。
「だからさ、君が自分の言葉に責任を持つなら――――〈あの宣言〉を守るって言うなら、君は君の事を勝手に諦めちゃだめだよ。勝手に傷ついちゃダメだよ。勝手に苦しんじゃダメだよ。僕の側から勝手にいなくなっちゃだめだよ。勝手に消えちゃダメだよ。勝手に離れちゃダメだよ。…………それにさ、君が一人で勝手に傷つくのも、苦しむのも、僕は嫌なんだ。僕はそんなの見ていたくない。僕の側にいるって言うならなおさらだ。僕はそんなのは嫌だ。そんなのは僕の望むものじゃない。そんなのは僕の理想じゃない。――――多分……多分だけど、僕の曾曾曾じいさんもそう思ったから、そう思ったからこそ、君を側に置いておいたんじゃないか? 君を戦いの前線には置かなかったんじゃないか? 君と一緒にいたんじゃないか?」
「…………隆久様、も?」
「そう。だからさ――君が約束を守るって言うなら――あの宣誓を遵守するって言うなら――僕が死ぬまで僕の側にいるって言うなら――僕の最期を看取るまで僕から離れないって言うなら――」
亜紀雄は、視線を落としながら振り返り、
「――傷つかないで、苦しまないで…………消えないで」
スズランに言い聞かせるように、語りかけるように、説き伏せるように、懇願するように、哀願するように、祈願するように、悲願するように、そう言う――――そう言った。
スズランは、毎朝亜紀緒に見せているような――あるいはそれ以上に――愛しむような、愛しむような、愛しむような、愛しむような、愛しむような、愛しむような、愛しむような、愛しむような微笑を浮かべて、
「畏まりました、我が――――――主」