第六話「来訪者」――その二
午前零時を回り、もう終電も残っていないような時間。亜紀雄は高校にいた。
これには、別に根拠があったわけではない。ここにスズランがいるかもしれないという予見が立っていたわけではない。むしろ、先刻一時間ほど探し回っても見つからなかった場所だ。選択肢から外す方が普通である。
しかし亜紀雄は、なぜか「ここにスズランがいるのでは」と思った。
根拠などなく予見でもなく、ただ何となくそう思ったからというだけ。感じたというだけ。それだけの感覚をもとに、亜紀雄はここにやってきたのだった。
当然のごとく、校門は施錠されている。
学校の外周。亜紀雄はあまり人目につかない場所を選んで、塀を乗り越えた。身長の倍くらいはある石塀で、おまけに手をかけるところも申し訳程度しかなく、飛び越えるのはなかなかに難しかったが、手を擦りむきつつ膝を擦りむきつつ、亜紀雄はどうにか学校の敷地内に入り込んだ。
校舎に向かって駆けていく間、ふと顔を上げると、その屋上に人影が見えた。人影が動いたような気がした。
遠い上に暗くて、それは確証を持って言えることではないが、しかしそこに何かがいる。誰かがいる。誰かが動いている。
亜紀雄は眉をひそめた。
――誰だろう? 何をしてるんだろう? こんな時間に、あんな場所に、人がいるなんて、人が活動しているなんて――
――亜紀雄が疑いを抱くには十分すぎる根拠だった。
まずは建物内に入ろうと、亜紀雄は校舎の玄関口に向かった。が、やはりドアはすべて閉められていて、鍵がしっかりと掛かっている。ガラスを割るのは最終手段と思いつつ、周囲の窓を一つ一つ確かめていって、亜紀雄はようやく一つ、鍵を掛け忘れている窓を発見した。
ガラガラと窓を開き、亜紀雄は早速そこからゴソゴソと這うように建物の中に入る。
深夜の学校。灯りのない廊下。
怪談話が創生されるのも頷けるほど、不気味な雰囲気を漂わせていた。今にも火の玉が浮かんできそうな背景。その静寂の中、トタタッという靴下でタイルを踏む音を鳴らしながら、亜紀雄は廊下を進んでいく。
目指すは屋上。
上階を目指すなら、階段を登らなければならない。屋上へ向かおうと、亜紀雄は当然のごとく階段を登り始めた。
暗闇の中、つまずかないように一段ずつ登っていく。
登るごとに屋上に近づくごとに、一体屋上に何がいるのか、スズランはいるのか、あの人影は何をしていたのか、スズランは何をしているのか、スズランは無事なのか、その推測と推論と困惑と混乱を繰り返しながら、この後の展開への期待と緊張を抱え、一階、二階と通り過ぎ、そして二階と三階の間の踊り場に到達したところで――
――いきなり、冷風が吹き荒れた。
「うわっ?」
冷たい、というより痛いという感覚が肌を伝わる。顔、首、手――――露出部分全体が痛覚と化した。
亜紀雄は反射的に顔を腕で庇った。が、顔は守られても今度は腕に痛みが突き刺さる。まるで防御になっていない。
これは攻撃なのかトラップなのか、誰の仕業なのかどんな技なのか、と亜紀雄が思考を巡らしていると、
風はすぐに止んだ。
まるで「これはただの威嚇」とでも言うような短時間。
そろりと目を開け、風上の方へ視線を動かすと、そこに立っていたのは長身の男。白髪、白い肌、真っ白なワイシャツとジーンズ。冷め切った青白い目で、亜紀雄を眺めている。
「な、何だ? 君は……」
「主……の命により、お前をとおせんぼする」
白い男は無感動な目を亜紀雄に向けながら、抑揚のない声で答えた。
亜紀雄は険しい表情を崩さないまま、
「……君の主っていうのは――」
「私デスよ」
突然、聞きなれた女性声。
声がした方を向くと、白服男の左、屋上へ続く階段から一段一段降りてくる、ブロンズヘアーの女子生徒。うっすらと笑みを浮かべながら――――東リーネが現れた。
「アキオ、どうしたんデスか? こんな時間に、こんなところで?」
「しらじらしいことを言うナ! 分かってるんダ! お前がここにいるってことは、スズランもここにいるんだロ!」
「ウフフン。なるほどなるほど、そうデスかそうデスか」
リーネはやれやれと言わんばかりに首を横に振り、
「まったく……アキオ、まだ諦めてなかったんデスか?」
「あ、諦めるわけないだロ!」
亜紀雄は叫ぶ。
「お前、スズランをどうしようっていうんだヨ! 仕事だか生業だか知らないけど、そんなこと許すわけないだロ!」
「アナタの許しなんか、別に関係ありまセン。これは東家の使命なんデス」
「な、何が使命ダ! 何でスズランを消そうとするんダ? お前だって、スズランを二週間近くで見てたんだロ? だったら分かるだロ? 今のあいつに、危険なところなんて一つもない! 消す必要なんてないだロ!」
「分かってまセンね〜」
リーネは手の平を上に向けながら、疲れたようなため息をついた。
「スズランさんにそういう能力がある以上、危険なことには変わりないんデス。今がどうでも、それは関係ないんデスよ」
「それはどういう――」
「これは仮定の話デスが、あくまで仮定の話デスが、例えばスズランさんがアキオに恋愛感情を抱いたとしまショウ。スズランさんととアキオが正真正銘の恋人同士になったとしまショウ。これは、人間と精霊の種族を超えた愛の物語――なんてキレイ事では済まされないんデスよ。そんな状態で、もしアキオが誰かに傷つけられたとしたら、どうなりマスか? 殺されたとしたらどうなりマスか? スズランさんはどうするでショウか? …………明白デス。明らかデス。彼女は自分の精霊としての能力を使って、必ずや敵討ちをする。あなたの仇討ちをする。そう、スズランさんは――――人を殺すはずデス」
リーネはりんとした声で説明を続ける。
「精霊による人殺し――――これを止めるのが、私たち東家の使命なのデス。人間は人間に裁かせる。それ以外の余計な混乱を起こさない。そうやって人の世を守るのが、我々の仕事。……しかもスズランさんは、封が途切れた瞬間、一目散に人間界へ舞い戻ってきまシタ。彼女は人間界にいようとスル。だから、彼女の存在は極めて危険なのデス」
「で、でもそれは仮定の話だロ! 僕とスズランが恋人にだなんて――」
「残念ながら、これはそれほど低確率な話ではないんデスよ。私はアナタ方を二週間見てマシタ。アナタ方のことを二週間、近くで観察させてもらいマシタ。そして分かりマシタ。確かに、今のアナタ方はそんなロマンチックな関係ではありまセンね。スズランさんが好き勝手やって、それをアナタが止めて。それの繰り返しデス。それの繰り返しでしかありまセン。…………でも、オカメハチモクっていうんですか? もしかしたらあなた自身も分かっているのではないデスか? 私には、そういう兆候が見えマシタ。私には確認できマシタ」
「……ちょう……こう……?」
「日ごとにその確率は大きくなっていく。だから、歯止めが利くうちにそれを止めるのデス。アナタ方のために、今のうちに止めるのデス。止められなくなる前に、止めるのデス。お分かりいただけましたか? …………では、理解できたなら、そのままそこで動かないで――」
「わ、分かるわけないだロ!」
叫び声と共に、亜紀雄は睨むような目つきでリーネを見据える。
「将来のことなんて知らないけど、知ったこっちゃないけど、今でも、僕とあいつは主と精霊なんダ! すでにそういう絆は――」
「主?」
リーネは、尻上がりのイントネーションで聞き返してきた。そして亜紀雄にあからさまな嘲笑を向け、
「ウフフ、ウフフフフ。アキオ、どうやらアナタは、まだ『精霊』というものに関して、十分理解できていないようデスね。残念ながらアナタは、スズランさんの本当の主ないのデス。実質的な主ではありまセン。アナタ方二人には、今のところそういう関係性はないのデスよ」
「……は? 何を言ってるんダ? あいつは僕に仕えてるってことだロ? 僕はともかくとして、あいつはいつもそういう表現をしていタ。僕があいつの主じゃないなんて、何を根拠に――」
「根拠デスか? 根拠ならちゃんとありマス。ありマスよ。そう――
――アナタが今まで、ここにたどり着けなかったことデス。
私とスズランさんは、アナタがこの学校を出てからずっとここにいマシタ。六時間ここにいマシタ――まあ、一度逃げられたりもしたのデスが――しかしその間、アナタはここにたどり着けなカッタ。スズランさんはここにいるのに、それを探し出せなカッタ。それが根拠デス」
「そ、それはどういう――」
「ふう……少し話し過ぎましたね。私は早く職務を遂行しなければ。では、私はこれで失礼しマス。…………正直なところ、私はアキオの、その周囲のすべてと距離をとっている生き方は、案外気に入っているのデス。クールなのデス。私の好きなタイプだったりするのデス。できれば私は、アナタのことは傷つけたくない。……だから、あまりこのユネアに抵抗しないでくだサイね? お願いしマス」
そこまでいうと、リーネはくるりと制服のスカートをひるがえしながら振り返り、何も言わずに階段を登っていった。
それを追いかけるように、
「ま、待って――」
と亜紀雄が前へ駆け出した瞬間、
――ブオッ
冷風が吹き、亜紀雄はそれ以上進めなくなった。
「この……先には、行かせない」
そう呟きながら、白髪で上背の男――ユネアは、亜紀雄に向かって右手をかざす。その手の平からは、寒風が吹き続ける。
「これしき……」
顔を腕で覆い、体勢を低くしながら、亜紀雄は風に抗うようにジリジリと前へ進んでいく。
しかしユネアは相変わらずの無表情で、
「無……駄」
呟くように言いながら、左手を振り上げた――――その手の中に現れる、氷の刃。
「恨……むな」
呟きと共に、ユネアはその青白い円錐を亜紀雄に向かって投げつけた。
風で加速され、亜紀雄の腹部に向かって一直線に向かう刃。
その切っ先が服にあと二センチと迫ったところで――
――がちゃんっ
その氷刀は勢いを殺され粉々になって、床に落ちた。
その予想外の事象に、弱まる冷風。
亜紀雄が驚きながら、首を右に回すと、そのすぐ横に現れた人影――
「――おやまあ、面白いことになってるね」
氷のつららを叩き落した右手の甲をさすりながら、突然現れたその男は、皮肉な笑みを亜紀雄に向けた。
「こ、小林君!」
いつも見慣れたクラスメイト、東加々美といつもつっかかり合っている人物、黒髪を耳元眉下までのばした男子生徒――小林雑音――に、亜紀雄は驚愕の表情を返す。
「……な、何で小林君がこんなところに?」
「いや、おもしろそうな予感がしてね」
口元を歪めた笑みを亜紀雄に向けながら、雑音は軽い調子で答えた。そしてじっとこちらを睨みつけている白男、ユネアへと視線を移し、
「そうだね。まあ……この前のお礼もあるし、ここは僕が何とかしてあげるよ」
「小林君が? あいつを? で、できるの? …………というか、お礼って、僕、小林君に何か感謝されることってしたっけ?」
「い、いいんだよ! 君はとにかく屋上に行けば! ほら! 手遅れになる前に!」
「ええっ? あ、うん……」
いきなり怒られ、戸惑う亜紀雄。
困惑しつつも、言われるままに促されるままに、亜紀雄が屋上への階段へと駆け出そうとしたとき、
「あ、ちょっと待った」
雑音が亜紀雄の腕を掴んだ。
「な、何? 小林君」
「これ、これ持ってきな」
そう言って、雑音は亜紀雄に一枚の紙切れを握らせた。
亜紀雄が何だろうと思って持ち上げると、それは縦長の白い紙に赤い文様が書いてあり、真ん中には草書で(読めないが)文字と思われるものが書いてある。神社でもよく見かける、ステレオタイプなお札のようなものだった。
「……え? これは?」
「見たまんまのお札だよ。これを精霊の急所に触れさせれば、精霊界に返すことができる」
「え? そうなの? …………というか、精霊って、小林君――」
「ほらほら、早く行きなって。手遅れになる前に」
雑音は払うように手を振った。
亜紀雄は何一つ理解できていなかったが、お札を握りなおし、とにかく登り階段へと走っていった。
タタタッと、亜紀雄はユネアの横を通り過ぎる。
しかしユネアは反応しない。亜紀雄にも一定の意識は向けているが、顔をそちらに向けることもせず、動かずに、じっと――――雑音の方を睨んでいる。
亜紀雄は階段を登りきり、ドアを開けて屋上へと行ってしまった。
バタンッ、とドアが閉まる音。亜紀雄がこの空間から消えたところで、ようやく
「お前……何者?」
ユネアが言葉を発する。
雑音は、その質問にふふんと笑いつつ、
「察しの通り、邪魔者だよ」
「ふん」
ユネアは鼻で笑った。
「邪……魔? 氷刀を見切ったところからも、お前がそれなりに嗜んでいることは分かるが、しかしそれだけで慢心するのは早いぞ。そんな丸腰で、俺の能力に抗えるとでも思っているのか?」
「丸腰? 別に丸腰じゃないさ」
雑音は首を傾け、茶化すような笑みで答えた。
「お前……に、一体何が――」
と、ユネアが言いかけたところで、ふいに遠くから風を叩く音が聞こえてきた。
――バサンッ。
――バサンッ、バサンッ。
――バサンッ、バサンッ、バサンッ。
――バサンッ、バサンッ、バサンッ、バサンッ。
――バサンッ、バサンッ、バサンッ、バサンッ、バサンッ。
その音は段々大きくなり、やがて雑音の左側、踊り場の壁の上方にある、小さな窓に黒い影が現れた。
閉め忘れたのだろう、半分だけ開いているガラス窓。
その影は窓をくぐると、再度風を叩いて雑音の方に近づいていき、そして雑音の右肩に止まった。
窓から差し込む月明かりに照らされたその影は――
――暗黒色のくちばしに短刀をくわえた、やたらに大きなカラスだった。
「……ったく、何でお前はこうも突発的に俺を使うんだ?」
「悪いとは思ってるよ」
肩の上でしゃがれ声の言葉を発したそのカラスに、雑音は苦笑を返す。
そのカラスは反目で雑音を眺めながら、
「ほれ、小僧。持ってきてやったぞ」
「さんきゅー、ストロウ」
カラスがくちばしを開けると同時に自由落下を始めたその短刀を、雑音はすとんと右手で受け止めた。
「お……前」
突如現れた人語を話すカラス――ストロウを眺め、ユネアはいよいよ顔に警戒色を示す。険しく厳しい表情。やや体勢を低くし、前屈みになって、明らかな臨戦態勢をとった。
その雰囲気の変化を見止めた雑音は、
「ふん、ようやくもって僕のことが理解できたかな? ――――ではでは、そろそろ始めようか。…………言っておくけど――」
短刀を握り締め、口元に笑みを残しつつもユネアに鋭い視線を向けながら、
「――藁にすがっても、もう遅いよ」