第六話「来訪者」――その一
あれから、どれくらいの時間が経っただろうか?
部屋は真っ暗なまま。カーテンだけが夜風にそよいでいる。ベランダの扉は開け放したままで、彼方から犬の遠吠えが聞こえてきた。
亜紀雄はゆっくりと立ち上がった。
暗がりの中、目を凝らして壁にかかっている時計を見ると、十一時。放課後の掃除が終わったのが確か夕方五時頃。それから四時間スズランを探し回り、家に帰った直後に、ここでスズランに遭遇した。
――つまり、ここで一時間以上呆けていたのか。
とりあえず亜紀雄はベランダの扉を閉めて、冷たい夜風を遮った。…………恐らく、ここに来る来訪者はもういない。もう現れない。そう思った。
活動を再開したはいいが、しかしまだ頭の整理がついていない。これからの指針は立っていない。亜紀雄は考えもなしに、半ば条件反射のように部屋を出た。
廊下に出ると、キンコーンというチャイムが絶え間なく鳴っている。その音の鳴る間隔からして、遠慮が微塵も感じられない。まるで亜紀雄がここにいることが最初から分かっているかのように、催促するようにやかましく響いている。
――そうか、意識が戻ったのは、この音のせいか。
亜紀雄は嘆息しながらトントンと階段を下りていった。そして一階の廊下の壁に備わっている玄関のモニターを覗き込む。
そこに映っているのは、ポニーテールの女子生徒。
鮮明な画像ではなかったので、最初はそれが誰なのか分からなかった。まじまじとその人物の挙動を観察し、見知った顔を一人一人当てはめていって、亜紀雄はようやく思い至った。
「……花塚さん?」
この髪型と割合小柄な体躯は、同じ体育委員の所属する一年生、花塚まいみだ。
――何でウチを訪ねてきたんだ?
彼女は別に、亜紀雄とそれほど親しいわけではない。委員会の時に、席が隣だからという理由で話す程度。あるいは時折、廊下ですれ違った時に声をかけたりするが、しかしそれだけだ。
「……何の用だ?」
亜紀雄は首をかしげながら、玄関に出向き、チェーンを外してドアを開けた。
扉の奥から顔を出したまいみの第一声、
「も〜、いるんなら早く出てくださいよ!」
「え? いや、ごめん……」
亜紀雄はぽかんとしながら謝った。
「……というか、どうしたの、こんな時間に? 何の用?」
「これです」
そう言って、まいみは一枚のプリントを差し出してきた。
渡されるままに受け取って、亜紀雄はそこに書いてある文字を読む。そこには「体育委員仕事分担表・訂正版」と書いてあった。
「今日の放課後、村雲先生に渡されたんです。なんかミスがあったみたいで、直したから他の一年生の体育委員にも渡しとけって。しかも鞘河君とこのクラス、変更のせいで明日の朝、校庭ラインマーカー係が増えてたんですよ。だから今日中に渡さなきゃと思って、こうしてわざわざ持ってきたんです。あなたの友達に家の場所聞いて。これ渡しそびれてたら、明日鞘河君が怒られてたんですから、感謝してくださいよ?」
「あ、うん。ありがとう」
「あと、三組のもう一人の体育委員はスズランさんだったけど、一緒に住んでるんでしょ? なら、これで問題ないですよ――」
まいみの言葉の途中、その「スズラン」という単語に呼応するように、はらりと、亜紀雄の手からプリントが滑り落ちた。
亜紀雄はハッとして、慌ててしゃがみこみ、
「あ、ごめん」
とプリントを拾った。
まいみは、亜紀雄のその腑抜けたような、気の抜けたような仕草にいぶかしんだ視線を向け、
「……? どうしたんです? 何か、変ですよ? 何かあったんですか?」
「え? いや、まあ、なんというか……」
亜紀雄はしゃがみこんだまま、地面に視線を落として、
「その、まあ……色々あってネ。その……スズランはいないんダ。いなくなったというか……帰っちゃったんだよネ。その……彼女の両親のところに。だから、体育委員も僕一人ってことになっちゃって……あ、いや、そんな深刻なことじゃなく、その、家庭の事情で仕方なくというか――」
「嘘ですね」
腰に手を当て、まるで諭すようにまいみは言い放った。
「その『仕方なく』っていうのは嘘です。『仕方なく』ではありません。鞘河君が何もできなかったから――――いえ、何もしなかったから、スズランさんはいなくなっちゃったんじゃないですか?」
「……へ? いや……何を言ってるんダ? 別にそんな……深刻なことじゃなくて、本当に――」
「隠したって無駄です。顔を見れば分かりますよ。……まったく、前々から思ってましたけど、前々から言ってましたけど、鞘河君って本当にウジ虫ですよね。ウジウジウジウジ。ウジ虫以上のウジ具合ですよ。ウジウジ界の世界チャンピオンです。もう少し何とかならないんですか? そんなんだから、いつでもどこでもなーんにもできないんですよ。何にもしないんですよ。そんなんだから、スズランさんもいなくなって――」
「――う、うるさいっ!」
亜紀雄はがばっと立ち上がり、吐き捨てるように叫んだ。
「な、なんだよ、いきなり! 人を真っ向から否定して! 何も事情を知らないくせに! さっきまで僕がどれだけ必死に走り回ってたか知らないくせに――」
「知ってますよ、『歩くマイナス極』さん」
まいみの平然とした返答。
その冷たく苦しく狂おしい声音と響きに、亜紀雄は思わず下を向いた。
「知ってます、知ってます、ぜーんぶ知ってます。分かってます。鞘河君の傾向は。鞘河君の意向は。鞘河君の心の中は。まったくもう……過去に失敗したから、自分を否定されたから、否定されたのが怖かったから、だから自分で自分を否定してしまえばいいなんて、ホント考えなしです。無価値です。無意味です。逃げてるだけじゃないですか、そんなの。裏切られるのが怖いから、否定されるのが怖いから、失敗するのが怖いから、だから自分の未来に期待をしない。そうやって生きていて、一体何ができるって言うんです? 一体何が守れるって言うんです? 一体誰のことを守れるって言うんです?」
まいみは、亜紀雄の記憶を見透かすように言葉を続ける。
「一番タチが悪いのが、自分でネガティブだと分かっていながら、それでもそれを変えようとしないことです。その生き方が決して幸せになれるものじゃないことも、自分の理想じゃないことも、自分の望むものじゃないことも、全部分かってる。分かってるくせに、それを変えない。怖いから、怖いから、怖いから、変えられない。いえ、変えられないと思い込んでいる。変えられないと信じ込んでいる。変えられないと自分に言い聞かせている。そんな生き方が不毛じゃなくて、一体何だって言うんです? そんな生き方が不憫じゃなくて、一体何だって言うんです?」
まいみは、亜紀雄の思考を見透かすように言葉を続ける。
「いい例が、そう、鞘河君が今もまだここにいるってことです。何もせず、ただここに立ち尽くしていることです。……あなた、一体何してるんですか? 『僕には何もできない』なんて、そんなのはただの言い訳です。屁理屈です。戯言です。『何か』をしなければならないんじゃないですか? 今すぐやらなければならないんじゃないですか? 何であなたは今も、こんなところにいるんですか? こんなところでつっ立ってるんですか?」
まいみは、亜紀雄の心を見透かすように言葉を続ける。
「少なくとも、スズランさんといたときの鞘河君は正直でした。誠心誠意、スズランさんの言動にツッコんでいましたよ。…………いえ、これはバカにしてるわけじゃありません。納得してるんです。感心してるんです。感動してるんです。内側でごちゃごちゃ呻いているあなたが、悩んでるあなたが、言い訳してるあなたが、こんなに誠実に真面目にしゃべっているなんて、怒っているなんて、笑っているなんて。傍から見ててそう思いました。納得しました。感心しました。感動しました。…………鞘河君、スズランさんといて楽しかったんでしょ?」
亜紀雄は首肯。
「スズランさんに大切にされて嬉しかったんでしょ?」
首肯。
「スズランさんと一緒にいて幸せだったんでしょ?」
首肯。
「スズランさんと一緒にいたいと思ってるんでしょ?」
首肯。
「スズランさんを大切にしたいと思ってるんでしょ?」
首肯。
「スズランさんが傷つくのは見たくないんでしょ?」
首肯。
「スズランさんが苦しむのは見たくないんでしょ?」
首肯。
「スズランさんが悲しむのは見たくないんでしょ?」
首肯。
「スズランさんがいなくなるのは嫌なんでしょ?」
亜紀雄は、首肯。
「…………だったら、鞘河君が今どうするべきか、分かりますね? 分かってますね? これ以上、何も言う必要はありませんね? …………ではでは、これは鞘河君とスズランさんのことですから、君と彼女のお話ですから、外野たる私はここで退場しますです。じゃあ――――頑張ってください」
微笑みながらそう言うと、花塚まいみは玄関を出て、扉をばたんと閉めた。
ドアの向こう、石段を歩く足音も遠のいていく。
しばし玄関口に独り立ち尽くしていた亜紀雄は、おもむろに手の甲で頬を拭い、そして顔を上げて――
――前を向いた。