2 教育係と下僕は同じ意味
しばらく経って知恵熱で倒れたアルノーは目を覚ました。いつの間にかベッドに寝ている自分に首を傾げつつ、起き上がれば知らない人物がいたことに驚いた。
長いエメラルドグリーンの髪を腰まで伸ばした、綺麗な男性だった。目を覚ましたアルノーをその同色の目で見つめている。
警戒するアルノーを鋭く睨みながら、彼は言った。
「誰だか知らないが、大帝の温情に救われただけだろう?早々に出ていくがいい」
彼の言葉にアルノーは、もしかしたら先程イリダルが告げた言葉が嘘だったのかと安堵した。恐らく妄想か夢だったのだろう。できればこの世界に来たことも夢であった方が良いのだが。
そんなアルノーの思いを知ることなく、男性はアルノーの腕を引っ張って無理やり立たせた。
「出口まで案内してやる」
「はあ…」
腕を引っ張って歩き出す男性を止めることができる筈もなく、アルノーはただ歩みを進めるしかなかった。そもそもこの人は誰だろうか。
出口を知らないアルノーにとっては逃げる機会だと思っているのだが、城を出た所で居場所はない。
男性はどうやらアルノーを魔族だと誤解しているようであった。彼はアルノーの髪色を見て判断したのだろう。誤解である、と言いたいところだがそうすればややこしくなるのは目に見えている。
人間なのに何故ここにいる!と言われたら、アルノーは異世界トリップしたことを話すしかないのだから。恐らく大抵の人は信じてくれないだろう。
アルノー達が長い廊下を歩いていると、全方から見覚えのある藤色が見えた。アルノーは嫌な予感がして思わず視線を逸らす。別に自分のせいではないと思いながら。
一方、倒れたアルノーの元へ向かっていたイリダルは何故彼がここにいるのかと首を傾げた。しかも、自分の部下に連れられているではないか。イリダルは結論を出した。
どうやら自分の部下がアルノーを攫おうとしているらしい、と。結論を出したイリダルの行動は早かった。
「手ぇ出すんじゃねぇこのペドフィリア!!」
「ちが、ぶへらっ!」
「ええぇ!?部下の人を蹴り飛ばしたー!」
イリダルは男性の目の前に瞬時に現れたかと思うと、いきなり蹴り飛ばした。軽く部下を蹴り飛ばす上司がいるなんて、ここは恐ろしい。アルノーは早くここから逃げたいという思いを増幅させた。
男性を蹴り飛ばしたイリダルは、襲われていないかと至って真面目な声音で問うた。慌てて首を横に振ると、イリダルは崩壊した壁の下敷になっている男性を冷たい目で見ていた。
「あのカスがまさかペドフィリアだったとはな」
「多分違うと思います……」
イリダルの呟きにツッコミを入れたアルノーは、彼に自分はただ出口に連れられそうになっただけだと説明した。その説明を聞いたイリダルは、あのカスめと溜息を吐いた。
「このカスが勘違いしただけだ。おい、起きろカス」
「いてて…大帝、一体コイツは誰だ」
イリダルが男性を起こせば、男性は頭を抑えながらアルノーを指して言った。アルノーは、男性の話し方に違和感を覚えた。
男性は敬語を使っていない。一体何故だろうかとアルノーが思っていると、イリダルは男性の言葉に一言返しただけであった。
「俺の息子だ。文句あんのか」
「息子ぉ!?いつから女拵えていたんだ!!」
男性は目を見開いて思わず叫んだ。イリダルは女なんざいないと返し、
「だがコイツは俺の息子だ」
と再度言った。
アルノーは息子じゃないですと慌てて男性に言い、男性はそのおかげで余計に混乱してしまった。
彼の主君は"息子だ"と言い、不審者の少年は"息子ではないと"それぞれ違うことを主張している。
主君に息子がいることは信じられないが、彼は嘘を言わない。一方で少年の言うことは信じられないが、その内容は信じたいものである。迷いに迷った男性は、結局主君の主張を信じることにした。
「わかった、とりあえず義理の息子だな。俺の名前はシルヴァーノ=レーヴェン、魔皇軍の元帥を務めている」
「元帥っ!?軍隊のトップなんだ…」
「いや、実質的なトップは大帝だ。普段は俺が指揮しているがな」
男性――シルヴァーノの言葉にアルノーは目を見開いた。とりあえずイリダルが偉いのは分かった。だが、シルヴァーノも偉いのが言葉からわかる。
魔族は人間より強いらしいが、その魔族を束ねるシルヴァーノやイリダルはさらに強いだろう。
そんな彼らと比べて自分は弱い。やはり息子にしない方が良いのでは…とアルノーは控えめに進言した。
「テメェは原石だ。原石をいかに綺麗な宝石にするかは教育者にかかっている」
人間界から来たアルノーの才能は未知数。また、彼の魔力が魔族寄りであることが更に可能性を秘めさせている。そんな彼の才能を伸ばすには、それ相応の教育係が必要である。
アルノーに必要な教育は沢山ある。例えば魔界の歴史であったり、古代言語であったりと普通の魔族が知っていることから学ばなければならない。
無論それだけではない。魔族としての戦い方や、魔皇帝から伝わる技の伝承であったりと魔力を用いた事柄を学んでいかなければならない。
魔力を碌に知らないアルノーは知らないからこそ先入観がない。故に、可能性が無限大にある。
イリダルはそれを興味深い、と思っていた。誰しも持つ先入観が彼には持っていない。常識外れこそが新たな力を得る簡単な方法。人魚姫の予言が本当であるのなら、アルノーは将来覇者になる男になる。そんな将来を持つ彼に、興味が湧かないはずがない。
「テメェに教育係……ではなく下僕をやろう」
「下僕!?教育係じゃなくて下僕っ!?」
さて、アルノーに相応しい下僕は誰だろうか。腕を組んで考えるイリダルに、アルノーはいらないですと慌てて拒絶の意を示す。
アルノーの言葉を当然のごとく無視をしたイリダルは、逃げようとしていたシルヴァーノを蹴り飛ばしてその背中に座った。
「下僕は黙って椅子にでもなれ。立つのが疲れた」
「……下僕じゃねぇ」
「え、えぇ!?SM!?」
"えすえむ"とは何だろうかと二人は同時に思ったが、イリダルは気にしないことにした。一方のシルヴァーノは、誤解だと何やらアルノーに弁明をしていた。どうやら自分たちの悪口に近い言葉ではないかと察したようだ。
アルノーはやはりSM関係だろうと半ば確信していた。尚、イリダルは全然気にすることなくシルヴァーノの背中に座って考え事をしている。
目を閉じて考えていたイリダルは、やっと思い浮かんだのか満足気にアイツだと頷いた。
その人物に心当たりのあるの筈のないアルノーは、もうどうにでもなれと投げやりに呟いた。結局自分はイリダルのペースに振り回されたままなんだと諦めたように溜息を吐いた。
シルヴァーノの背中から立ち上がったイリダルは、彼を蹴り起こして告げた。
「カス、ブリューゲルを連れてこい」
「まさかアイツを下僕に!?無理だろう、アイツは誰かに従うなんて!」
「うるせぇカス。カスは黙って俺の命令通り働け」
"ブリューゲル"という人物の名前が出た途端、無理だろうと騒ぎ始めたシルヴァーノをイリダルは再び蹴り飛ばした。
アルノーはどんな奇天烈な人なのかと、会ってもいないのに想像しては震えながら首を横に振っていた。アルノーは一つ目の槍を持つ巨人を想像していた。何故なのかはわからない。
会いたくないと怯えるアルノーを余所に、イリダルに急かされたシルヴァーノは渋々とその場を去った。
シルヴァーノの後姿を見ていたイリダルは、怯えているアルノーにただ首を傾げていた。教育係ならぬ下僕の姿が思い浮かべられないのだろう。そう考えたイリダルは、己の魔力を操作した。
突然、アルノーの目の前に鏡が現れた。だが、その鏡面は彼を映していなかった。見たことのない男性を映していた。
イリダルの方へと振り返ったアルノーは、鏡の人物は誰かと問うた。
「コイツがブリューゲルだ。これからテメェの下僕になる……名前を覚える必要はねぇ、テメェが付ければいいからな」
ちなみに、自分はシルヴァーノに"カス"と名付けたとイリダルは語った。アルノーは"ブリューゲル"と呼ばれる人物の顔をよく見てみた。
顔は端正で美しいが、どこか人形のような顔立ちであった。イリダルやシルヴァーノとは違った美形だった。
そしてその髪色は紫というよりは……
「ナス色?」
「ナス?」
首を傾げたアルノーに合わせるようにイリダルも首を傾げた。アルノーは、ナスの色に似ている髪色だなと思っていた。一方、イリダルは"ナス"が何であるか疑問に思っていた。
"ナス"とは何か。そう問うたイリダルに、アルノーはわかりやすいようにナスについて説明した。
「つまり、ブリューゲルは人間界の野菜と同じ髪色をしているということか」
「はい、何だか第一印象がナス色だったので…」
魔界には人間界の野菜は存在していない。魔界の空気に耐えられないからだ。魔界の野菜は空気中の魔力をエネルギーとして利用できる野菜で、食べることで魔力も補給できる。その代わり、味が落ちているが。
また、魔族の食事は魔力の補充のためにある。人間界の食べ物は基本的に魔力の補充として成り得ないからだ。
故にイリダルがナスという野菜を知らなくても不思議ではない。魔力の補充にもならない野菜のことを知っていても意味がないからだ。
ナスについて一つ学んだイリダルは、いつかナスを食べてみたいものだと呟いた。アルノーは自分の世界には安く売られていると返答し、イリダルは思わず噴き出した。
彼の脳裏には、大量のナス色の髪をした人物が安売りされている姿が浮かんでいた。
しばらく二人で談笑していると、彼らに向かって二人の男性が近づいてきた。一人はシルヴァーノで、もう一人がナス色の髪をした男性であった。
男性はゆっくりと一礼してイリダルに向かって言った。
「御機嫌よう大帝様。僕に対して何かご命令でも?」
「ああ、これからテメェには俺の息子の教育係……ではなく下僕になってもらう」
「は?」
男性は呆然とした顔で聞き返した。イリダルが再度言えば、彼はイリダルの後ろに立つアルノーを見据えた。
見るからに弱そうな彼に、男性は彼に仕えるなんて御免だと思った。だが、イリダルが見ている傍では拒否はできない。
そのまま下僕になってもらおうと話を進めるイリダルに対し、男性は条件付きでならと答えた。
条件?と首を傾げたイリダルに、男性はアルノーを睨みつけながら提案した。
「僭越ながら申し上げます。僕は貴方様の息子を知りませんので、彼の実力を知りたいと存じます。故に、僕と彼の戦闘の許可を頂きたく存じます」
彼が勝ったのなら僕は下りましょうと告げた男性に、イリダルは無言でアルノーを見た。戦いと聞いて明らかに動揺しているアルノーは、内心帰りたいと強く願っていた。
アルノーはこの世界のことを何も知らない。ましてや、彼は魔力の存在も知らない人間だ。そんな彼を、魔皇軍の上層部である男性――ルスラン=ブリューゲルと戦わせるわけにはいかない。だが、勝てる方法がないわけではない。
ニヤリと笑みを浮かべたイリダルは、真剣な顔をしたルスランと先程から落ち着きのないアルノーの顔を交互に眺めた後に頷いた。
「許可する」
「あの、ちょっと待って下さいっ!僕が……もがっ」
イリダルの決定に反論を唱えようとしたアルノーは、シルヴァーノにより口を塞がれて反論を封じられた。
何故、と言いたげな目をしたアルノーにシルヴァーノは苦笑を溢して小声ですまないなと謝罪した。
人形のような顔をしたルスランはその端正な顔に笑みを浮かべて一礼した。その表情は、勝利を確信しているかのようであった。
ルスランは勝利を確信していた。アルノーの態度はどう見ても戦闘に慣れていないものである。現役軍人に戦闘に不慣れである少年が勝てるわけがない。
勝利を確信したルスランとは違い、アルノーは敗北を確信していた、何を企んでいるのか知らないが、どう考えても自分は負ける。
アルノーは再びイリダルを見るが、彼は変わらず何かを企んでいるかのように笑みを浮かべているだけであった。
これから、ここ一番理不尽な戦いが始まろうとしていた。果たしてどちらが理不尽な目に遭うのか?それはまだ、誰もわからない。