PIANO 雪倉 彰成編
髪をいじるようになったのは、いつからだっただろうか。
中学生の頃、適当に同級生の髪をいじったのがきっかけだったような気がする。
とても綺麗な髪を持っているのに、その子は自分の髪に全くといって良いほど無頓着で。
だから、授業中に寝ていたその子の髪を、少しいじった。
周りの子達は全然妨害なんかしなかった。どちらかといえば、面白そうに見てたっけ。
起きたその子は、びっくりしてあわてて、気が動転したのか私に怒り続けていたっけかな?
それが、その子と出会ったきっかけ、そういうべきだろう。
「あれから………もう」
彰成は、純白のコートを手にしたまま小さな溜め息をついた。
「私がスタイリストになると決めたのも………すべてはあなたのためだったのに」
目を伏せ、だらりと力なく腕を下ろす。
彼女との別れは、思い出すだけでも辛い。できることなら考えたくないほどだ。
でも、忘れることなんか、出来やしないから。
「……雪倉……先輩?」
後ろから、眠そうな声がかかったため、彰成は思わず振り返った。
「……何だ。あなたでしたか……」
柔らかそうな、僅かにウェーブのかかった髪。眠たげな瞳。男だというのに、華奢な体つき。
若月 白暁。彰成も彼も、20代という年の割に、爆発的な人気を誇るスタイリストだ。
「相変わらず眠そうですね」
「そう……かな」
「で? 何をしているんです、こんな場所で。あなたが来るような場所ではないでしょう?」
少し呆れ気味に告げると、白暁は目を瞬いた。
「先輩こそ。こんな所で。何を?」
どうにも嫌なタイプだな、と思う。
質問を質問で返されても困るだけだ。彼は嫌な性格をしているわけではないが、どうにも話がかみ合わないことが多く、苛立つ。
「別に私は、何も」
「………そう」
「用がないなら、今日はもう帰りますけれども、良いですか?」
「あぁ……うん。さようなら」
まぁ、髪は綺麗な方なのだけれども。
でも、男の長髪というのは頂けない。自分はどうなのかと聞かれることも多いが、自分だって好きで髪を伸ばしているわけじゃない。これはただ。
彼女の、ためだけに。
もうここにはいない、あの女性のためだけに。
「………はぁ」
どうにも気分が落ち着かない。
長い出張から帰ってきたからかもしれない。あの嫌な弟が待つ街に戻ってきたからかもしれない。
「……カフェにでも、行きますか……」
駅からそう遠くない場所に、なんとも冴えないカフェが一軒ある。
残念ながら外装としては頂けない。どうにも野暮ったい感じが抜けないのだ。だが、彰成はそこを好んで訪れた。
「まぁ、気ままな店ですから、やってるかどうかもわからないんですけれども……」
と。向こうから、近づいてくる影を認めた。見覚えがある。できれば、せっかく街に戻ってきたのだから、その初日早々から見たくはない人物であった。
「……………雅成」
雪倉 雅成。自分の2番目の弟。そして、できれば顔を合わせたくなかった人物である。
「おや。君もこれからあのカフェに行くのかね?」
その、人を食ったような口調にいささかうんざりしながらも、彰成は首肯を返した。
「あなたもだったんですか?」
彰成は、背の低い彼を見下ろすようにして訊ねる。
「うむ。だが、君まで来るとはな。いささか予定外だ」
「それは私の台詞ですよ」
「長髪がよく似合っているぞ、君」
「余計なお世話です」
憎まれ口を叩きながら、結局二人で入店してしまう。
そこでふと、見慣れない少女が店で接客しているのが目に入った。
「……?」
知らない少女。……の筈だ。
だが何故か、強い既視感を覚えた。まるで、さっきそこで出会って話したかのような、そんな感覚。
(馬鹿な)
少女は本当に綺麗な髪をしていた。綺麗な、腰まで届く漆黒の髪。何のアレンジもせず、ただ単に伸ばして無造作に結わえたような髪。
だが、美しい。自然な色だからこそ、どこまでも惹き込まれる。
「いらっしゃいませ!」
少女は屈託なく挨拶を投げかけてきた。
凛としていて、どこまでも澄んでいて、聞くものを捕えて放さないような声。
それさえも、聞き覚えがあるような気がしてならない。
「すいませーん。注文しても良いですか? メイドさん」
もしかしたら彼女とは、深い縁になるかもしれない。
何の根拠もなかったけれど――だが、彰成はそう思った。