表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ファンタジー

忘れられた魔王の宮殿にて

作者: 沼津幸茸

 樹齢数百年の大木を短刀のように振り回せる巨人族が何百人と集まって伸び伸びと動き回れるほどに広大な果てしない宮殿がある。その宮殿は継ぎ目のない暗く煌めくような石材で出来ているが、今はもうその神秘と美も半ば失われていた。宮殿は竜巻の直撃でも受けたかのような廃墟の如き様相を呈しており、魔物と亡者が蠢く不毛な庭と共に、光も音も空気もない暗黒の空間にぽっかりと浮かんでいる。土地と建物は、空間それ自体に侵蝕されているかのように、仲良く端から少しずつ粒子となって散り続けている。

 虚無に還りつつある宮殿の最奥で、名もなき魔王の記憶と人格を引き継いだ断片が欠伸をした。ゆったりとしていて身体の線が出ない金糸銀糸の装飾入りの黒衣を纏った〈魔王〉は、妖しい美貌に退屈そうな表情を浮かべていた。ここにはもう〈魔王〉しか住んでいない。他には誰もいない。もう誰も彼も死んでしまった。遥かな過去、〈魔王〉自身もその存在の大部分を砕かれてしまった悪夢のような闘争の嵐が過ぎ去った後、宮殿に彼以外の姿はなかった。味方は残らず滅び去り、敵は残らず立ち去った。財宝も残らず持ち去られた。それ以来、現在に至るまで、ずっと独りで暮らしている。

 その長い歴史の中で訪問者がいなかったわけではない。〈魔王〉を斃そうと或いは従えようとした者。〈魔王〉の下僕に志願した者。訪問者は何人もいた。

 それでもなお彼が斃されも従えられもせず、また誰も従えもせずに孤独に今日までを生き続けてきたのは、訪れた全ての者を殺してきたからだ。彼は慈悲を持たず、主も従者も欲さない。

 じっと虚空を眺めていた〈魔王〉がふと顔を上げた。空間を超越した超感覚で異常を察知した彼は、その詳細を知るべく宮殿内に視線を走らせた。彼の感覚は全て肉ではなく霊によるものだ。

 周囲を見回す動作が、たったの数秒程度で停まった。広大な宮殿内を信じがたい速度で調査した〈魔王〉は、僅か数秒で目的の何かを発見したのだ。

 そこに視力の焦点を合わせた〈魔王〉の顔から、これまで浮かんでいた退屈の色が消え、期待の笑みが僅かに広がった。宮殿諸共虚無に呑まれるまでの無聊を慰める恰好の玩具が彼の霊的視界の裡にあった。

〈魔王〉は、劇場の客席で観客がするように、玉座の背もたれにもたれかかり、玩具が目の前に届くのを待ち構える。


〈魔王〉の視界に広がるのは、玉座の間へと真っ直ぐに伸びる、闇に閉ざされた長い長い大回廊だ。側壁と天井には魔晶製の発光体が等間隔でいくつも埋め込まれているが、それらは光を発さなくなって久しい。配下達がいた頃は片時も休まず光を放っていたが、最早、照明を必要とする者などこの宮殿にはいないのだ。

 闇の向こう側、大回廊の入口に人影が一つあった。うまく気配を殺していたようで、こうして大回廊に近づかれるまで、〈魔王〉はその存在に気づくことができなかった。相当な使い手と見て取り、戦いの原始的な興奮が〈魔王〉の裡に湧き起こった。

 その人影は黒っぽい衣装に身を包んでいたが、〈魔王〉の超視力は何の問題もなくその全身を捉えた。

 人影は男だった。周囲に綺麗な真球状の魔法障壁を二重に纏っている。よく練り上げられ、手入れされた、端正で歪みも曇りもない魔法障壁を見ればわかる。男はきちんとした修行を積んだ高位魔術師だ。

 魔術師は外套に長袖をつけたような暗灰色の奇妙な布を纏い、その下に奇妙な布と同色のこれまた奇妙な様式の衣服を纏っていた。頭には同色の帽子を被り、首には先の尖った細い布が巻かれて腹の方まで垂れている。袖付きの外套もどきと言い、上着もどきと言い、被り物と言い、ボウタイをおかしなやり方で巻いたようなスカーフもどきと言い、纏う衣装はどことなく〈魔王〉がこれまでに目にしたことのある紳士服に似ている。どうやら新式のもののようだ。〈魔王〉の目には意匠の変化が奇異に映るものの、他の訪問者達の奇抜な衣装に比べれば、まだ常識の範疇内であるように思えた。

〈魔王〉は自分が宮殿に引き籠もっている間に歴史が随分と進んだらしいことを理解した。長い間隔を置いて現れる訪問者達は、彼にとって歴史の移り変わりを伝える使者でもあった。

〈魔王〉は訪問者に対する興味を深めつつ、更に詳しく様子を観察した。

 年齢は三十代半ばほどに見えるが、見た目どおりではあるまい。理知的というよりは狡猾そうな風貌で、どことなくユーモラスな雰囲気の漂うぎょろりとした爬虫類的な双眸が印象的だ。かなりの長身だが、身長に対する肩幅の比率が少し低いので大男と呼ぶには少々の違和感がある。口笛を吹きながら愉快そうに周囲を見回すその態度に恐怖や不安は見られず、ただふてぶてしさだけが現れている。

 面白い男だと〈魔王〉は思った。これまでにこの大回廊を訪れた者達は憎悪、嫌悪、驚愕、賛嘆、期待などの様々な反応を示していたものだが、この男のような好奇心を剥き出しにした反応を示した者はいなかった。

〈魔王〉はますます興味を掻き立てられた。最終的に殺し合うことになるとはいえ、早くこの男と言葉を交わしてみたいという欲求が高まった。それが妨害であるにしろ手助けであるにしろ、基本的には訪問者への干渉を行なわない〈魔王〉にしては珍しく、大回廊の空間を歪めて近道させてしまおうかと一瞬だけ真剣に考えた。

 しかしすぐにその必要がないことに気づいた。この魔術師ならば敢えて〈魔王〉が手を差し伸べずとも自力で玉座まで辿り着くに違いない。それならば、後の楽しみのために今を我慢するのも一興だと思えた。

 魔術師は静寂を乱すのを楽しむかのように口笛を吹き、〈魔王〉が聴いたこともない物寂しい旋律を無人の闇に響かせている。魔術師の口笛は本職の吟遊詩人には及ばないものの実に巧みである上、寒々しい静寂に満ちた宮殿に酷く似合っていた。〈魔王〉は無意識のうちに魔術師が奏でる旋律に身を任せていた。

 魔術師は興味深そうに回廊を眺めている。

 大回廊は玉座に至る最後の防御にして試練だ。魔術師は大回廊の障碍に気づき、どう突破するか思案しているのだろうか。

 回廊の壁、天井、床には魔法文字が刻み込んである。ドワーフの職人の一団を招いて一文字一文字を長い年月をかけて壁に刻み込ませたものだ。装飾としての意味もあるが、これの真の価値はそこではない。魔力の集積及び増幅効果と壁面の防護効果。それが魔法文字の真価だ。

 魔法文字の作用により、ここには高密度の魔力の奔流が渦巻いている。もしここに〈魔王〉の保護を受けていない何らかの物体が入り込んだとしたならば、物理的な破壊力を持つに至った不可視の奔流に襲われ、その物体はたちどころに元が何であったのかの判別すらもつかない塵と化す。

 これまで、種族も居住世界も異なる少なくない数の訪問者がここまで辿り着いた。だがその中で、ここを突破できた者は全体の半数にも達さず、魔力による影響を完全に遮断した者はその半数にも満たない。

〈魔王〉は魔術師が四分の一未満の中に加わるであろうことを半ば確信していたから、このもったいぶるような魔術師の振る舞いに、期待と一体になった心地良い苛立ちを覚えていた。

 魔術師が動き出した。

 恐れ気もなく一歩踏み出した魔術師は、その強力な魔法障壁の作用により、案の定塵になるようなこともなく大回廊に立った。吹き荒れる魔力の嵐は、険しい岩山に引き裂かれる風のように真球の魔法障壁の表面を滑っていき、魔術師の薄皮一枚、髪の毛一筋傷つけられない。まさに魔術師は、壮大な力を持つ〈魔王〉の目から見ても素晴らしいと評するに足る魔法の使い手だった。彼が斃してきた中には優秀な魔術師や高徳な僧侶もいたが、それらと比べても何ら遜色がない。

 ここまでは〈魔王〉の予想どおりだった。しかし、ここから先の行動は予想の外をいくものだった。彼は驚きとともに魔術師の行動を眺めた。

 魔術師は口笛を吹きながら、相変わらず物珍しそうに周囲の壁を見回していた。物見遊山の田舎者のように、興味深そうにあちらこちらの魔法文字に視線を注いでいる。あちらに行ったりこちらに行ったり、天井まで浮かび上がったりして回廊内をうろつき、暗闇の中、壁を見ながら手帳に何かを書きつけている。

 まるで焦らされているように感じられ、〈魔王〉はひどく苛立った。ナメクジが蛇行するような動きを見ていると、玉座を立って扉を開け、自ら魔術師を出迎えたい気分になって仕方がなかった。〈魔王〉は懸命にその衝動を抑え続けた。


 随分と長い時間が経ち、〈魔王〉が久しく感じる激しい苛立ちのあまり歯軋りを始めそうになった頃、ようやく魔術師が玉座に通じる大扉の近くにやってきた。

〈魔王〉が首を長くして待つ玉座の間に至るために残された作業は、彼が魔法で閉ざした大扉を開くことだけだった。魔術師には造作もないことだろう。

 もうすぐ対面できると思った途端、〈魔王〉の心の中の苛立ちが鳴りを潜め、魔術師の行動を座して見守る余裕が回復した。あと少しで来ると確信すればこそ、その待ち時間さえも楽しく感じられた。

 大扉の前まで到達した魔術師が立ち止まった。巧みな息継ぎ――鼻から吸っていたのだろう――によって一瞬たりとも途切れることなく続いていた口笛が遂に中断された。

 魔術師が響かせる曲をいつの間にか気に入っていた〈魔王〉は少し残念に思ったが、対面したときにまた吹かせるもよし、後日、記憶を頼りに自分で吹くもよし、と納得した。口笛の再現の試みは、おそらく滅びに至るまでの退屈を幾分か紛らわせてくれるだろう。

 魔術師は巨人や竜でさえも余裕を持って通行可能なほど巨大な大扉を見上げ、きょろきょろと見回している。一見無造作に眺めているだけのようだったが、その実、眼に魔力を付与する念の入れようで、舐めるように視線を走らせている。時折感嘆したような表情を浮かべたり納得したように頷いたりしながら、これまで壁や床や天井にしてきたように、扉のあちらこちらを調べ上げている。

 魔術師が頷いた。確認するべき場所を全て確認し終えたらしい。呪文を詠唱しながら三回ほど扉を叩く。

 まるで見えない巨人の門番が魔術師を迎え入れようとするかの如くに大扉が開き始めた。

〈魔王〉は視力の焦点を切り替えた。


 久しく開かれていなかった扉が腹の底に響くような重苦しい音を立てて開ききり、広々とした玉座の間の空気が掻き乱された。

 恐るべき魔王を求めてやってきたであろう訪問者の期待に応えるべく、〈魔王〉は殊更に悠然とした態度で、玉座から大扉を見下ろした。

「よくぞ参った。歓迎しよう、魔術師よ」

「そいつはありがたいね。涙が出る」

 魔術師という知識人気取りの連中の一人にしては珍しい、粗野な口調の返事だった。

「用向きを聞こうではないか」

〈魔王〉は顎をしゃくった。定番のやりとりだ。訪問者には、向こうが問答無用で攻撃を仕掛けてこない限り、まずは用件を訊くことにしている。

 魔術師の用件は何か。〈魔王〉の命か。〈魔王〉の力か。召使いの地位か。それとも予想だにしない答えか。答えがどうだろうと最後には結局殺すことになるのだが、折角退屈を癒しにきてくれたのだから、その心遣いには応えたいところだった。〈魔王〉は愉快な返事を期待した。

 魔術師はしげしげと〈魔王〉を見つめてから、尊大に答えた。

「魔王生存説を聞いたものでね。なんでも、そのものじゃなくて弱体化した断片だって話だから、俺でもどうにかなると踏んで、魔王とやらがどんなものか顔を拝みに来たんだ」

 それは〈魔王〉の意表を突く回答だった。

「ほう。余の首が目当てではないのか」

「なんのために」魔術師は大袈裟に肩を竦めた。「名誉? 財宝? 復讐? 馬鹿らしいね! 俺は随分と長生きしてあれこれどっさり学んだんだがな、それによるとだ、名誉なんてものは目の前の相手に蔑ろにされない程度にあればいいんだ。財宝も要らん。必要分は持っている。復讐もどうでもいい。四百年ばかり遅かった。お前が丸っきり憎くないと言ったら嘘になるが、所詮、今初めて顔を知ったような奴だ。お前が敵だと言われても実感なんぞ湧かない。五百年くらい前だったら、お前が魔王だという事実だけで十分だったんだが」

 突然の魔術師の演説に戸惑いながら〈魔王〉は問い返す。

「では、そなたは、遠路遥々余の顔を見るためだけに参ったと言うのか」

「そうとも。こんなど田舎までな。座標を割り出すだけで一年、ここに立つまで三年だ。ところで、この城の周りはお前の庭か」

「かつては。今は違う。余の領地はこの宮殿だけだ。他は知らぬ」

「火竜だのゴーレムだの死霊だのを野放しにしといて、そんな話が通るか。通り抜けるだけで一苦労だったぞ。管理責任を放り出すな」

「知らぬ。余が隠棲を始めてから勝手に棲みついたものであろうよ」

「嫌な奴だ、人を馬鹿にしやがって」

 魔術師がわざとらしく顔を顰める。

「馬鹿に、とは……」

〈魔王〉は何を言われているのかわからなかった。言いがかりとしか思えなかった。

「そのにやにや笑いさ」

 指摘に〈魔王〉ははっとして顔を押さえた。やりとりを続けながら、彼は知らず知らずのうちに微笑んでいたのだった。

「……侮辱の意図はない。久方ぶりの会話を楽しんでおるだけだ」

「魔王も独りは寂しいか」

 魔術師がせせら笑った。

〈魔王〉は正直に答えた。

「寂しいとやらはよくわからぬが、面白くないことは確かだ」

「それを寂しいと言うんだ」

「……そのようなものか」

「そのようなものだ。でなきゃ退屈だ」

「では退屈であろう……時にそなたは、余の顔を見て、それで一体どうするつもりなのか」

「どうもしない。見て、満足して、帰る。それだけだ。俺はお前の面を拝みたかったんだ」

「不可解だ」

「俺とお前は敵同士だったんだよ。だからだ」

「記憶にないが」

「そりゃあそうだろう。お前は魔軍の総大将、俺は有象無象の魔法兵だった。これで俺を知っているようなら、むしろ気持ち悪い」

「おお、すると、では、そなたは大戦の生き残りか」

〈魔王〉は微かな驚きを声に滲ませた。懐かしい過去との再会だった。懐かしい過去が追いついてきたのだ。

「そうだ。あの頃の生き残りだ。長生きしたんだよ。とはいえ、八英雄……〈第二皇子〉、〈戦乙女〉、〈狂戦士〉、〈聖女〉、〈聖堂騎士〉、〈戦闘司祭〉、〈銃士軍曹〉、〈魔法戦士〉――懐かしい――あいつらみたいなユニークじゃなくて、さっきも言ったとおり、あの戦争の中じゃほんの端役だったがね。もっとも、完璧なモブというわけでもなくて、あの後に作られたサーガの中じゃちゃんと見せ場もあったが。まず、軍に召集される前だが、〈黒煉瓦の都市〉防衛戦で、たまたま居合わせた〈第二皇子〉と〈守り役〉の爺さん、〈戦乙女〉のお嬢ちゃん、それから〈聖堂騎士〉と〈聖女〉と一緒に、屍霊軍の師団と戦った。ひ弱な学生どもと腰抜けの導師どもを怒鳴りつけて防衛戦の指揮を執って、あいつらと一緒に〈骸骨将軍〉を斃したんだぜ」

 魔術師が挙げた名前は〈魔王〉にとって酷く懐かしいものだった。八英雄という言葉を彼は初めて耳にしたが、八英雄という呼び名はあの八人にとてもふさわしいように思えた。あの八人は〈魔王〉を打ち砕いた者達だ。大決戦の折、下剋上を目論んだ愚かな裏切り者、将軍の一人〈欲望〉の手引きによって宮殿に切り込んできた千の精鋭が次々と斃れる中、敵味方の屍を踏み越えて彼を打ち倒した英雄達だ。

 魔術師の述懐は続く。

「それから、千人隊だ。大した活躍はできなかったが、〈第二皇子〉に直接誘われたんだぜ」

〈魔王〉は目を見張った。

「なんと。それでは、そなたはあのとき、ここにおったのか」

「ああ。だが、俺は終ぞお前を見ることがなかった。笑える話だ。敵の顔も知らずに戦っていた。これで戦ったなんて言えるものかよ。本当の意味で戦ったと言えるのはあいつら八人とお前の前に立った連中だけだろう。そこで、世界を見事にぶち壊してくれた奴が、俺の敵だった奴が、一体どんな面をしていやがるのか見に来たわけだ」

「余の顔を見て満足か、魔術師」

「ああ」と魔術師が笑みの形に口元を歪めた。「しかしだ、どんなお化けかと思っていたが、まさかこんなお人形みたいな奴だったとは驚きだ。〈第二皇子〉の奴に聞いたところじゃ、蟹の甲羅みたいな形の真っ黒な鎧を着た、腕が何本もあるような大男だって話だったが」

「異形が望みならば、ここまでの労に免じてそのとおりの姿を取ってもよいぞ」

「遠慮しておく。宮殿でくつろいでいるのがその姿なら、それがお前の本性なんだろう。なら、それでいい。仮装なんぞに興味はない」

「然様か。しかし、満足したのであれば、そなたはどうする」

「さっきも言ったろう。帰るさ。魔王退治に来たわけじゃないんだ。そういうのは八英雄にでも任せとけ。もっとも、あいつらも〈魔法戦士〉以外はもういないがね。みんなつまらないことで死んじまった。ともあれ、俺はただの観光客だ。そういうわけだから、もう帰ろうかと思うんだが、お前の方は俺に何か用事はあるか」

「帰ることができると思っておるのか」

〈魔王〉は手をかざした。玉座の間と大回廊を繋ぐ大門が地響きを立てながら閉じる。

 玉座から腰を上げる〈魔王〉を見ながら、魔術師が腕組みをして嘆息した。

「こうなるだろうとは思っていたよ。何せ誰かが帰ってきたって話を聞かないからな」

「余の前からはなんぴとたりとも生かしては帰さぬ」

「俺は例外ということで一つ頼めないかね」

 臆面もなく図々しいことを言って笑う魔術師は、しかし、静かに呼吸を整えて戦いの準備を進めている。

「ならぬ」〈魔王〉は短く断言した。「何故見逃さねばならぬ」

「手札を曝してやろう。俺はまずお前に勝てない。第一撃に耐える自信はあるが、その後がなんとも、な。だが一撃に耐えられれば十分だ。俺は逃げる。逃げられる」

「余が座してそれを許すとでも思うのか」

「許さざるを得ないさ。さすがのお前も全力の一撃の後は多少の隙が出来るだろう。俺はじっとそれを待つ」

「大した自信だが、自惚れが過ぎるというものだ。余の一撃を受けて無事でいられると、本当にそう思っておるのか。〈御子〉の加護を受けた聖鎧さえも打ち砕いた余の一撃に」

「思っているし、仮にそうじゃなかったとしても、他に有効な手がないんだ。いくらかでも望みがあるなら、そこに張るしかない。違うかね」

「ところがその望みとやらは縋るにはか細い。そうではないか」

〈魔王〉の見たところ、確かに魔術師が纏う魔法障壁は彼の全力の一撃でも破壊できるかどうか怪しいところだ。しかし、絶対に壊せないということもない。互いが場に出した賭け金の不公平さを考えれば、賭けとしては〈魔王〉が有利だ。何しろ、命を張るのは魔術師だけなのだ。

「ところがそうでもない。俺は逃げるタイミングにさえ気をつけていればいいが、お前は障壁を壊すことと俺を逃がさないことを同時に気にしなくちゃならない。戦力の集中は兵法の基本だ。しかし、俺にはできるがお前にはできない。なら、俺にも望みがあるってことだ。基本を守らない強者に弱者が立ち向かうには、徹底的に基本を利用するのが一番なのさ」

 魔術師の言葉に〈魔王〉は渋面を作った。痛いところを突かれたというのではない。言われなければ気づかずにいられたのだ。指摘されてしまうと意識せずにいられない。言われなければ何も気にせず自然に二つの行動を並行できたに違いないのだ。

「だが依然として余が有利であることに変わりはない」

 魔術師の心を折ると言うよりは、自分に言い聞かせるように〈魔王〉は言葉を吐き出した。

「そう、問題はそこだ」魔術師が難しげな顔をした。「正直なところを言えば、俺はお前を見縊っていた。俺もあの頃の八英雄くらいにはなったと思っていたから、まあ、逃げるくらいはできるだろうと思っていた。だが、どうも、こいつは思ったよりも難しそうだ。今のお前が乗り込んだ連中を八人にまで減らした魔王と同じ奴だとは思えんが、それでも俺より強いことは確かだ。そこで一つ提案をしたい」

 殺そうと思った相手とこういうやりとりをするのは新鮮な体験だったから、虫のよい取引か直接的な命乞いでも申し込んでくるのだろうとは思いつつも、何かそれ以外の未知の可能性に望みを懸けて、敢えて話を聞くことにした。〈魔王〉は無言で顎をしゃくって先を促した。

「お前、俺と観光旅行に行かないか。一人旅の方が好きなんだが、まあ、たまにはそういうのもいい。ちょっと世界を巡って遊ぼうぜ」

 何かを聞き間違えたのではないかと〈魔王〉は思ったが、彼の鋭敏な聴覚ははっきりと魔術師の言葉を聴き取っていたし、明晰な記憶力はその内容に誤りがないことを請け合っていた。

「……言わんとするところがわからぬ。説明せよ」

「そのままさ。お前、退屈しているんだろう。だったら、楽しいことをするのが一番だ」

「それが何故お前と旅立つことに繋がるのだ」

「この城にもう楽しみはないんだろう。でなきゃ、退屈なんぞするはずがない。中に楽しみがないんなら外に求めるしかない。この道理はわかるな」

〈魔王〉は無言で魔術師の薄ら笑いを見つめた。

 魔術師は滔々と語り続ける。

「実を言えば俺もその口でね。何百年も塔に引き籠もっていると流石に退屈するようになった。娯楽がないわけじゃないんだが、長生きすると、結局、どいつもこいつも昔どこかで見たものでしかないことに気づいちまう。するともうだめだ。楽しいことには楽しいが、心を躍らせ豊かにしてくれる楽しさじゃない。心を淀ませ衰えさせる楽しさだ。中には細かい違いや上っ面の違いを楽しめる奴もいるが、俺は無理だったよ。いっそ死のうかとも思ったが、やっぱり死ぬのは怖かったから、新しいものを探しに塔を出ることにした。ぐちゃぐちゃになった世界を見て回るというのは大当たりだったよ」そう語る魔術師の目は〈魔王〉が思わず羨むほどに楽しげな煌めきを宿していた。「〈竜の墓場〉を見たことがあるか。形を保ったままの竜の白骨死体なんてそうそう見られるものじゃない。〈機械都市〉の街並みを見たことがあるか。わけのわからない機械が一杯で面白いぞ。〈積層城砦都市〉の中に入ったことがあるか。眩暈がするほど入り組んでいる。〈迷宮街〉の探索をしたことがあるか。あそこには沢山のガラクタと僅かな秘宝が転がっていて、冒険者ごっこに打って付けだ。街中で古代の魔術教書を見つけたときには絶句したものだよ。伝説によればここから持ち出されたのを最後に消息を絶ったやつだ」

「知らぬ。余は人界に出たことがない」

〈魔王〉はあの大戦のときですら魔界を出なかった。〈魔王〉の力は魔界、なかんずくその深奥領域であったこの宮殿の中において最大となる。

「意外だな。王様だったのに。いや、そうでもないか。王様だったんだからな」魔術師は一人で勝手に納得したように頷いた。「なら出てみろ。お前みたいに力のある奴なら、外でもきっと楽しい思いができる。何しろ自由に振る舞えるからな」

「そなたの言うとおりだとして……そなたの提案をなぜ余が受け容れねばならぬ。余はそなたを殺してから宮殿を出てもよいのだ。とどのつまり、そなたはそなたのことしか考えておらぬ」

「当たり前だ。どうして俺がお前のことなんぞ考えてやらなきゃならん。他人がお前のことを考えてくれると本気で思っているのか。いい年こいて甘ったれるなよ。どいつもこいつも、自分のことを自分の物差しでしか考えられないんだ。だからお前はお前の物差しで、俺の提案からお前のためになる要素を見つけろ。俺にお前の理由を訊くんじゃない」

「ふむ……」と〈魔王〉は考え込んだ。魔術師の詭弁にも似た回答には、それでありながら、見るべきもの、聞くべきものがあるように感じられた。

 思えば〈魔王〉は「自分の理由」を持ったことがない。会ったこともない錚々たる魔界の大立者達に並ぶ魔の王として君臨したのは、彼がそのために生まれ、そうするように望まれたからだ。人類に挑戦したのも皆がそう望んでいたからだ。あの英雄達――八英雄――に存在の大部分を打ち砕かれ、断片として残った状態でこうして宮殿に残り、訪問者を葬り続けてきたことに至っては、思い返してみれば惰性に過ぎない。

 しかし、と思う。ここで魔術師の提案に従ったとしても、それは「自分の理由」ではなく、いつものように「他人の理由」で動いているのに過ぎないのではないか。

 思考材料を求めて〈魔王〉は口を開いた。

「そなたは余を連れ出して何を得る。何を求める」

「俺か……俺は、まずここを無事に切り抜けることだな。あとは、道中の安全と――お前は強いからな――楽しみの共有ってところだ」

「仮に道行きを共にしたとしても、そなたの身を守る気はない。そなたと楽しみを合わせる気もない」

「振りかかる火の粉くらいは払うだろう。なら問題ない。俺はお前の陰に逃げ込むから。楽しみの共有というのはちょっと言葉を間違えたかもしれん。要は、同じものを見た他人の感想を聞いてみたいんだ。お前だって木石じゃないんだから感想くらい湧くだろう」

「……そなたが余に求めるのだ。余もそなたに求めてよいのであろうな」

「求めるだけなら自由だ。俺が応えるかどうかは俺の自由だがな」

「それでは正当な取引とは言えぬ」

「応えたくなるようにするか、応えざるを得ないようにするかしろ。簡単に言えば、好かれるか支払うか、だ。まあ、今思いつく分でも要求を言ってみろ。聞くだけは聞いてやる」

〈魔王〉は少し間を置いてから答えた。

「そのまま放り出されても困る。連れ出すと言うのであれば案内をせよ」

「なんだ、改まって何を言うかと思ったら、そんなことか。俺が連れ出して連れ回すんだ。それくらいは当然だ。お前が俺といるうちは、ここを出た後の生活も面倒見てやる。俺に深刻な迷惑をかけない限りな。もちろんつまらないと思ったら帰って構わん。俺はお前を籠に入れるが、籠の口に鍵はかけない」

〈魔王〉は黙考する。魔術師の条件はなかなか悪くないように思える。少なくとも、期待した以上のものであることは確かだ。

 そして何よりも注目すべきは、魔術師が彼に自由を与えていることだ。魔術師が彼を必要としているわけではないことだ。生まれて初めて自分の意志で何かを決める機会を与えられたような気さえする。

 もしかしたら、これも魔術師の策略かもしれない。彼を人界に連れ出して弱体化させ、とどめを刺すつもりでいるのかもしれない。千人の勇者に選ばれたほどの魔術師だ。実力で劣る相手を斃すために、その程度の策は呼吸するように吐き出すだろう。

 だがそれがどうしたと言うのか。彼は生きることそれ自体には執着していない。行動が惰性ならば生存も惰性だ。終わったところで何の痛痒もない。終わるならば終わればよい。大事なのは、自分の意志で決めることで、決めたことの責任を引き受けることだ。決断の結果滅びるのであれば、それはむしろ、今までの無為の生を補って余りある喜びだ。少なくとも、滅びゆく宮殿と緩慢な心中をするよりもましな最期と言える。

「王侯貴族様にはピンと来ないかもしれんが……こいつは破格の条件だぞ」

 沈黙をどう解釈したものか、魔術師が見当外れの補足をした。

〈魔王〉は補足を無視した。

「余はそなたの護衛と道連れ、そなたは余の案内と生活の保障。こういうことだな」

「整理すればそうだな。返答は?」

「……受け容れよう」

「約束は守れるな。さっき言ったとおりの条件だ」

「無論。そなたこそ己が口にしたことを遵守せよ」

「もちろん……結構。これで契約成立だな、魔王」

「そのようだな、魔術師」

「俺は〈力の術師〉だ」

〈力の術師〉が歩み寄り、右手を差し伸べた。

「余のことは〈魔王〉とでも呼べ」と答えてから、〈魔王〉は首を傾げて、差し出された手をしげしげと眺めた。

「これは?」

「握手だ。利き手同士を握って休戦と信頼を示すんだ……早い話、お互いに仲良くやろうぜってことだ」

〈魔王〉は困惑した。

「余に利き手はない」

「なら右手でいい」〈力の術師〉が差し出したままの手を振った。「さっさと握れ。これじゃあ恰好がつかんだろう」

「うむ。では、魔術師よ……」

〈魔王〉は差し出された手を掴んだ。〈力の術師〉の手は彼の滑らかなものと違い、節くれ立ってかさついていた。それは修練の証なのだろう。生まれながらの強者は、弱者から見を起こした強者の手を握った。

〈力の術師〉が頷き、握り返してきた。

「どれだけの付き合いになるかわからんが、一つよろしく頼むぞ、〈魔王〉」


 手を離した〈力の術師〉が言う。

「旅立つと言っても、まずは準備をしなくちゃいかん。差し当たり、俺の家に行こう。支度をしてくれ」

「支度は要らぬ。このままでよい」

「着の身着のまま? 魔王様にしちゃしょぼくれてるな」〈力の術師〉が呆れたような顔をした。「金銀財宝もそうだが、魔剣とか魔法書とか旅道具とか、そういう実用品もないのか」

「何もかもそなたらが持ち去ったではないか。或いはそなたらは宮殿の塵芥さえ持ち去ったのではあるまいか」

 勝者は敗者から全てを奪い、敗者は勝者に全てを奪われる。古から続く世の習いだ。だから略奪者達に恨みはなかった。これは単なる事実の指摘だった。

 しかし〈力の術師〉はそう受け取らなかったようだ。

「おいおい、今更五百年前の恨み言か。確かに本軍の略奪には目に余るものがあったが、今更――それも俺に対して――持ち出されても困るぞ。お前が斃されたとき、俺も半分死んでいたくらいだからな、戦いの後はそのまま慈悲ノ院直行だったよ。知ったのは何もかもが終わってからだ」

「余は恨み辛みをそなたにぶつけたいわけではない。事実を説明したまでだ」

「ならいいんだが。お前が前の恨みを引きずっているようだと、ちょっと手がつけられないからな……ところで、本当に何も残っていないのか。これだけの城なんだから隠し部屋の一つ二つはあるだろう」

「そなたらの略奪隊は存外に優秀だったようだ」

 断片としての復活を果たしてから見て回ったが、宮殿の隠し部屋は残らず暴かれていた。〈魔王〉と〈宰相〉と〈元帥〉と一部の築城関係者以外に存在を知る者のない秘中の秘の部屋さえも例外ではなかった。

「全部取られたってことか……〈野盗将軍〉の部隊だな。あいつは野盗上がりの略奪名人で、手下もその頃からの生え抜きだった。戦闘部隊としちゃ軍を名乗るのもおこがましい二流三流だったが、宝探しと略奪と不正規戦の腕前は一流と言っていい」

「なんでもよい。もう終わったことだ」

「そう言ってくれると助かる。そのままでいいと言うんなら、もう行くとするか。ついてきてくれ」


 宮殿の外に出た〈魔王〉は景色を一望し、自分が砕け散った魔界の断片に立っているような印象を受けた。

 そこはまさに死の世界だった。音もなく、光もなく、空気もない。動くものも最早ない。〈魔王〉達が立つ塊も、絶えず虚無の中で削られ続けている。この場に在っては、〈魔王〉のような超越存在や〈力の術師〉のような超人でもなければ、先を見通すどころか、命を保つことも、形を保つこともできないに違いない。

「ところで〈魔王〉、二つばかり確認したいんだが」

 軽い体操をしながら〈力の術師〉が〈魔王〉を見た。

「何か」

「お前が男か女かだ」

「男性体だが、女性体がよいと言うのであればそうしよう。余には外見や性別など意味を為さない」

「そのままでいい。女の体はもう十分味わったし、お前と恋愛ごっこをする気もない。もう一つの話だが、ここが形を保っていられたのがお前のおかげだってことには気づいているか」

「無論だ」

 宮殿とその周辺は〈魔王〉が一種の核となることで虚無の中でも維持されてきた。〈魔王〉がいなくなれば、抵抗の中枢と求心力を失い、見る見るうちに崩れ去るだろう。

「いいのか。ここまで連れ出しておいてなんだが、ここを出たら思い出の場所がなくなるぞ」

「構わぬ。余は過去に関心などない」

「そうか……忘れ物はないか。多分もう物理的に戻って来られなくなるからな。最後のチャンスだ」

 何か持ち出すべきものが残されていたかどうか〈魔王〉は少し思案し、それから首を横に振った。もうここには人々の思い出以外の何物も残されてはいない。

「構わぬ」

「そうか。じゃあちょっと待っていろ、塔に連絡を入れるから」と告げ、少し間を置いてから、〈力の術師〉が手招きした。「連絡は済ませた。もうちょっとこっちに来い。次元跳躍をやるから変な抵抗をするなよ。行き先は俺の家の真ん前だ」

「そなたに任せる」

 返事をする代わりに〈力の術師〉が詠唱を始めた。

 詠唱が完成すると、水面に波紋が生じるようにして、並び立つ二人の姿と共に空間が歪んだ。力の術師の称号を持つ魔術師と、かつては魔界の頂点に立った存在の残滓は、ほどなくして波紋の中に溶けるようにして消え去った。

 あとには宮殿の廃墟が残されたが、それもまた砂細工が風に吹き散らされるようにして虚無の中に消えた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] 彼らの旅立ちに幸あれ。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ