旅立つ日
アリシアが旅立つ時シオンは…。
まだ靄が晴れない早朝にアリシアとアイサの姿は『宝船』の前にあった。その傍らには白馬が寄り添っている。
あてのある旅ではなかったがここに留まる訳にはいかず、そのことをアイサに告げると表情が曇った。アリシアとの出会いは穏やかなものではなかったがそれが却って互いの印象を強くさせていた。
一見、大人しそうな彼女だが毅然としている所が気に入っていたアイサももしかしたらこのまま一緒にいられたら……と期待していただけにアリシアの旅立ちは非常に残念でならない。
「体に気をつけて」
「アイサさんのことはきっと忘れません」
二人は涙を堪えて抱き合うと別れを惜しんだ。
「二人分あるから道中ゆっくりお食べ」
急でしかも早朝にも関わらずアイサは弁当を作ってくれていた。
「また来ておくれよ」
「ええ、必ず。それまでお元気で」
「そうだね、それまでくたばるわけにはいかないね」
アイサはエプロンでそっと涙を拭うとアリシアの肩を軽く叩いた。
「さ、行っておくれ。さよならは言わないよ」
深々と頭を下げたアリシアは白馬に跨ると『宝船』の二階を見上げた。そこはシオンが眠っている物置の場所だった。
さよなら、シオン。
寂しさを振り切るように力強く鐙を蹴りアイサの元を去った。
出会い、別れ。旅をしていくなかで何度も繰り返して一抹の寂しさには慣れていたはずだが今回はやけに尾を引いた。
『宝船』の女主人アイサの温かさ、ふざけているがどこか憎めないシオン。
一人旅がこんなに寂しいとはね
心なしか愛馬の足取りも重い。そんな彼女を慰めるかのように朝日がきらきらと輝いていた。
川の畔を見つけた彼女は、草が多く茂っている場所に腰を下ろして朝食にすることにした。アイサが持たせてくれた弁当を開けてみると、一回の食事にしては余りある量のサンドウィッチにアリシアは目を丸くした。
別れ際のアイサの台詞は、二人分つまり昼食の分まであるという意味に違いない、と納得してサンドウィッチに口をつけようとした時だった。
「まさかそれを一人で食べるつもりじゃないだろうな」
頭上からの低い声に驚いて見上げると、漆黒の髪を風に靡かせたシオンが立っていた。
「シオン、どうして!?」
「そりゃこっちの台詞だ。俺だけ挨拶なしとは随分嫌われたものだな」
わざとふて腐れた口調でなじるとアリシアは罰が悪く何も言えなかった。
「二人分あるってアイサは言わなかったか?」
「あっ!」
やっと本当の意味が解ったがこの状況はどう理解したらいいのだろうか。
実は、アリシアがアイサに旅立ちを伝えた同じ日にシオンもまたこの地を去る旨をアイサに話していた。
長い間この街に住んでいるが、彼は本来コーラム公国の出身ではなく放浪の末ここに辿り着いたのだ。
だから、いつか自分の元を離れる日が来るとアイサは覚悟していたつもりだったがこんなにも早く急にくるとは。
「随分と急な話じゃないか」
「そうだな。アイサには世話になったよ」
「全くだ」と憎まれ口を叩きながらも脳裏にはシオンと過ごした四年が走馬灯のように浮かんでは消えていった。
早くに事故で一人息子を亡くした彼女にとってシオンは実の息子同然だったかも知れない。
こんなに急にシオンに旅立させる決心をさせたのはアリシアの存在が大きいとアイサは確信している。いつだったかシオンの部屋で一枚の写真を見掛けたが、その後、彼が珍しく慌てた様子で写真を引き出しに閉まったのを思い出した。
あの顔は確か……。
「あんな娘はいないよ。しっかり護ってやりな」
息子への贐の言葉に漆黒の瞳を細めて笑みを浮かべた。
「さあ、食べよう。アイサの口は悪いが料理は絶品だ」
アリシアの隣に座ったシオンが笑ってサンドウィッチを頬ばった。
「何処か行くあてはあるのかい?」
弁当の大半を平らげたシオンが尋ねた。どうやら、彼も一緒に行くつもりだ。
「ううん。特にないけどいろいろな国に行ってみたいわ」
「故郷には帰らないのか」
「……そうね。いつか帰らないとね」
そこまで言うと朝食を済ましたアリシアは愛馬のブラッシングを始めた。
「綺麗な馬ね」
彼女がシオンの馬に手を伸ばしたので、止めようとしたが間に合わなかった。
血統もよく優秀な馬だが気性が荒いため乗り手がなかなか決まらなかった。そこへシオンが名乗りを上げたが一筋縄ではいかず半年かけて手懐けた曰くつきの馬なのだ。そのせいかシオンにしか気を許しておらず、彼以外の者がうっかり触れようものなら蹴り殺され兼ねるのだが、あろうことか主と同じ漆黒のたてがみを撫でられても黙って身を任せているではないか。
あいつも美人が好きらしいな
突然声を出して笑い出したシオンをアリシアは怪訝そうに見ていた。