シオンとアリシア
この土地の朝は、漁師達の威勢のいい声で始まる。
昨夜、『宝船』に泊まった女剣士もその声で目が覚めた。ベッドから降りて窓を開けると心地よい潮風が部屋に吹き込む。
一階のキッチンで物音がしたので、彼女は階段を下りていくと「おはよう」と、太めの体に窮屈そうなエプロンを付けたアイサが朝食作りに腕をふるっているところだった。
「おはようございます。朝から賑やかですね」
「いつもこうさ。朝ごはんにしようかね」
振り向いたアイサは、昨夜の勇ましい剣士姿とは打って変わった若い美女の容姿に驚きを隠せなかった。
「あの、何か」
「鎧を外すと印象が変わるもんだね。今のほうが断然いいよ」
「そうですか」
女剣士ははにかんで俯いた。昨夜は勇ましかったが、目の前にいるのは戦いとは無縁の若い美女だ。
「そういえば、名前を訊いていなかったね。私はアイサ」
「アリシア・シャムロックです」
アリシアと名乗った女剣士は微笑んだ。その笑顔はまさしく女神に見える。
「早速で悪いけど、シオンを起こしてきてくれるかい?」
「シオン?」
「昨夜の役立たずさ。物置は、そこを右に曲がって突き当りだよ」
アリシアはアイサに言われた通りに物置へ向かった。場所はすぐ分かったのでドアをノックしてみたが応答がない。ノブを回すとすんなり開いた。
そっと中へ入ると家具や雑貨が乱雑に置かれているなか、ソファベッドで男性が眠っていた。
昨夜の騒動でこの若者をよく見なかったが、長身で長い手足、服の上から分かる筋肉、額にかかった漆黒の髪は意外と柔らかそうで目を閉じていてもかなりの男前である。
よほど、熟睡しているのかアリシアの気配に気付いていない様子で、声を掛けようと彼に顔を近づけた時だ。
「きゃっ!!」
アリシアが短い悲鳴を上げた。
シオンが彼女の腕を掴んで自分の方に引き寄せたのだ。見上げるとシオンの精悍な顔が間近にある。
「寝込みを襲うとは顔に似合わず大胆だな」
悪戯っぽく笑う彼にアリシアの鼓動が速くなる。
「鎧姿もいいが、俺はこっちがいいな」
シオンが彼女の尻を撫でたので、正気に戻ったアリシアの平手が小気味いい音を立てて部屋に響いた。
「遅かったね。顔でも洗って……。どうしたんだい? その頬は」
二人の足音で振り向いたアイサが、シオンの左頬が赤く腫れているのに気付いた。
「いろいろあってね」
大袈裟に頬を擦りながら横目でアリシアを見ると耳まで真っ赤だ。
「まさかちょっかいを出したんじゃないだろうね?」
アイサの質問をさりげなく無視してシオンが右手を差し出した。
「まだ名前を言っていなかったな。シオン・フォレストだ」
「アリシア・シャムロックです」
「アリシアか。いい名前だ」
素直に握手した彼女に屈託のない笑顔で返した。
「この笑顔で何人の女が騙されたことか」
アイサが苦笑すると、シオンは不服そうに反論した。
「言っておくが俺から女を誘ったことは一度もない。そういう話は、初対面の女性にしないでくれないか。誤解されるだろ?」
「そりゃ悪かったよ」
二人のやり取りについ失笑したアリシアに「アイサには敵わないよ」と、囁いて片目を瞑ってみせた。
「買い出しに行くが、一緒に来るかい?」
朝食を済ませたアリシアをシオンが誘った。
『宝船』の営業時間は漁師が利用する早朝と夜で、朝食を済ませて市場へ買い出しに出掛けるのがシオンの日課になっていた。
返事をためらっていると「散歩がてら行ってごらん」と、アイサに促されて、颯爽と歩くシオンをアリシアは小走りで後を追い掛けた。
市場は日が高くなるにつれて賑わいを増した。魚、肉、野菜など新鮮な食材や生活用品など売る店が軒を連ねて訪れる者を飽きさせない。
多くの人々が行き交うなか、シオンとアリシアが並んで歩くと通行人達の目を引いた。
「よお、シオン。女連れとは珍しいな」
「別嬪さんを紹介してくれよ」
店の主達が冷やかしたが、シオンは平然と通り過ぎた。
「人気があるのね」
「いい男だからな」
悪ぶれる様子もなくしれっと言ってのける彼に呆れつつも嫌悪感はない。実際、シオンはかっこいいと思う。
一方、シオンはというと多くの女性と関係をもってきたが、時折見せるアリシアの微笑みに戸惑う時がある。彼女自身は、己の類稀なる美貌を自覚しておらず、男達の邪な視線を全く気にせず市場を楽しんでいるので一人にしておけなかった。
時々、鋭く睨み威嚇しして連中を追い払うが、また何処からともなく群がってくる始末だ。
前途多難だな、とシオンは前髪をかき上げたが、彼女を見つめる漆黒の瞳はどこか懐かしそうだ。
「あの、私に何か?」
彼の視線に気付いたのか、流れる髪を耳い掛けながらアリシアが尋ねた。
「なぜ、お前さんみたいな美女が剣士なのかって思ってさ」
美しいブランデー色の瞳が一瞬潤んだ気がした。
装着している鎧や剣の造りから、かなりの地位にいたと推測できるが何か事情を抱えているに違いない。
「つまらんことを言ったな。買い物を済ませて帰ろう」
アイサに渡された籐の大きなかごを肩にかけて売られている野菜を手に取った。
「そのじゃがいも、三つで六十リラにしておくよ」
「高いな。一盛り七十リラなら買うが」
「参ったな。いいよ」
八百屋との値切り交渉に隣で興味津々に聞いていたアリシアの目が輝いた。
「すごいわ」
「アイサほどではないさ」
「あいつにかかったら店が一軒潰れちまう」
八百屋の主とシオンは二人で笑い出した。
「アイサさんっていい方ね」
買い物を終えて、帰路の途中にアリシアが言った。
「口は悪いが情に厚い。だから、俺みたいなよそ者も面倒をみてくれるのさ」
「ご家族は?」
「十五年前に夫と一人息子を事故で亡くしているらしい」
そう……、と沈んだ声だ。
「あなたを息子さんだと思っていらっしゃるかもね」
「息子か。当時は、アイサの情夫じゃないかと噂されたこともあったな」
アイサが色仕掛けでシオンに迫っている情景を想像したのか二人は顔を見合わせて笑った。