第七十九話 キルゲルと水嬌
足音が一つ。
草を踏みしめ、地を駆ける。葉が揺れ動き、そよ風が抜ける。
どれ位走ったのか分からないが、足音が次第にゆっくりなり、動きを止めた。
呼吸が荒く、両肩がゆっくりと上下する。
「何処へ行くつもりです」
か細い声が尋ねる。その声に返答は無く、ただ荒い呼吸が続く。
束ねられた美しい銀色の髪が揺れ、切なげな眼差しが真っ直ぐ向けられた。
返事が無く沈黙が続き、風を切る鋭い高音が響く。表情を変えず少女は左手を前に出すと、静かに告げる。
「無駄な戦いにエネルギーを消費したくありません」
『無駄な戦い? フン。我にとっては無駄じゃねぇ』
少女の声に、濁った声が答えた。しかし、その声に少女は目を細め、
「貴方に言ったわけじゃありません」
そう述べると、濁った声が更に言葉をつむぐ。
『わりぃが、今は我の体だ。我の好きにさせてもらう』
「話の分からない人です……」
呆れた様にため息を吐き、頭を左右に振る。そんな少女を一蹴する様に、濁った声が言い放つ。
『我は人間じゃねぇ』
「そうでしたね。しかし、何故貴方が生きているのです。キルゲル」
少女の声に仁王立ちする晃。赤い瞳が不気味に輝き、赤黒かった髪が次第に白みを帯びていく。右頬に奇妙な文様が走り、右腕を風が包み込む。轟音が轟き、風が渦巻く。右手に柄が生成され、徐々に刃が姿を現す。刀身の細い刃は美しく輝き、取り巻く風が綺麗な音色を奏でる。鍔は無く変わりに刃の付け根に緑色の水晶が輝く。
「それが、今の貴方の姿ですか。また、随分と風変わりしましたね」
『それは、お互い様だ。あの時の小娘が、まさか五大鬼獣にまで成長してるとはな』
「昔とは違う。貴方を殺す事など容易い事です」
『やってもらおうじゃないか。今も昔も我の方が上だと見せ付けてやろう』
風が一層強まり、木々がしなる。暴風の中でも表情一つ変えない少女は、衣服の裾を揺らしながら佇む。
銀色の髪が激しく揺れ、少女が右手を握る。拳から水滴が零れ、地面にぶつかり弾けた。弾けたその瞬間、一瞬だけ世界が止まる。その妙な感覚にキルゲルもすぐに気付く。
『貴様……何をした!』
「さぁ。何でしょう」
落ち着いた口調。冷やかな目。吐き出される息。そして、拳からもう一度水滴が垂れる。地面に水滴が弾け、また時が止まった。ほんの一瞬だが、それが全ての感覚を狂わせる。
吹き荒れる風の流れが変わり、渦巻く風が激しくぶつかり合う。風が荒れ狂い刃の様な傷を地面に刻む。地面が欠け、石が砕ける。宙を舞う木の葉は跡形も無く消え去り、晃の体に複数の傷が刻まれていく。傷口が赤く滲み、赤い雫が風に混ざる。
奥歯を噛み締めるキルゲルは、右足を踏み込むと静かに唇を動かす。声は風の音で掻き消され、少女には聞こえなかった。しかし、異変を肌に感じ、目の色を変える。
直後、キルゲルの視線が少女に向けられ、美しい刃が煌びやかな線を描く。風の流れが変わり、少女の頬から血が吹き出る。少女は眉間にシワを寄せ、怪訝そうな表情を見せた。
「何をしたんですか?」
『自分で考えろ』
「そうですか……。分かりました。もう、貴方の自由はありません」
彼女がそう述べると、水滴がもう一度地面に落ちた。瞬間、波紋が広がりキルゲルの体が動きを止める。同時に吹き荒れていた風も止み、周囲を静寂が包み込む。
突然の事に困惑するキルゲルだが、確信していたのか目付きを鋭くし低音の声で問う。
『これで、我を拘束したつもりか?』
「さぁ? どうでしょう」
『フン。貴様は分かっていない。我の力量を――』
「分かっていないのは、あなたの方です」
少女の言葉にキルゲルが異変に気付く。
『貴様……。まさか――』
「そのまさかです。あなたには暫く眠って頂きます」
『ふざけるな! 貴様――』
「――おやすみなさい」
囁き声と共に雫が拳から零れた。それが地面に弾けると、キルゲルの視界は突如闇に包まれ、晃の体が静かに崩れ落ちる。右手に現れていた剣が消滅し、全てが元に戻る。そよ風が吹き、草木が揺れる。
落ち着いた表情に、切なげな眼差し。長く息を吐き、ゆっくりと歩みを進める。
静かに体を起す晃は、少女の方に視線を向け口を開く。
「キミは――誰? キルゲルと親しげだったけど……」
「私は水嬌。五大鬼獣の水の名を受ける者」
「水の名……と、言う事は水を司るって事だね」
「貴方の名は?」
「僕は桜嵐 晃。それで、キルゲルとはどう言う関係で?」
晃の問いに、水嬌の表情が曇る。とても嫌そうな表情の為、晃も焦る。
「あ、あの、その。別に、言い難いならいいですけど」
「別に、言い難いわけじゃないです。ただ、知らない方が良い。あなたにとっては辛いかも知れないから」
「辛い事?」
「それより、あなた方はこの現象に関与しているのですか?」
切なげな眼差しで水嬌が見据える。二人の視線が交わり、晃が軽く首を傾げた。
二人の間に沈黙が生まれ、静かに時が過ぎる。一分が過ぎ様とした頃、複雑な表情を見せながら晃が言う。
「この現象は、鬼獣の仕業じゃないの? 僕はてっきり力のある鬼獣がやったものだと思ってたんだけど」
「鬼獣が扱うモノにこの様な結界術はありません」
「それじゃあ、誰が?」
不思議そうな表情をする。水嬌は変わらぬ表情で答えた。
「私の考えでは、この現象は封術師の仕業だと考えてます。以前にもこの様な現象がありました」
「以前? それって……」
「その時は町が一つ消滅するほどの巨大な力が暴発し、大勢の死者が出たそうです」
淡々とした口調の水嬌に対し、表情を強張らせる晃。水嬌の話が本当ならば、更に多くの死者を出す事になるし、この町だって消滅する。そして、この中に居る晃達も同様だ。顔面蒼白の晃は、オドオドと視線を左右に揺らす。
事の重大さに気付いたのだろうと、水嬌は押し黙る。晃が落ち着くまで待つつもりだった。だが、怯える様に震える晃の口から出た言葉は、意外な言葉だった。
「や、ややややばいぞ……。昨日出された課題まだ終わってない……。こ、殺される……。完璧に殺される!」
瞳孔が開き恐怖に怯える。唖然とする水嬌が、小さなため息を漏らす。事の重大さを全く分かっていない様だ。
「あなた、分かってるんですか! この状況を!」
苛立ちから声が大きく言葉が荒い。そんな水嬌に負けじと、晃も声を荒げ言い返す。
「何言ってるんだ。これは重要な事なんだよ。あ、あの人の課題は必ずなんだ。もし忘れたら――」
カタカタカタと、壊れかけのロボットの様に震えだす。
そんな晃の姿に、諦めた様にため息を吐き、冷やかな視線を向ける。そして、冷酷な口調で言い放つ。
「消えなさい。事の重大さが分かっていないなら、今すぐ消えなさい」
それだけ言うと、水嬌が消える。水の様に蒸発してしまったのだ。
体の震えを止め、真剣な表情を見せる晃は、静かに息を吐き、右手に剣を出す。美しい刃の付け根。そこに煌く緑の水晶が不気味に輝き、濁った声が静かに聞こえる。
『わりぃな。あんな芝居させて』
「いや。良いって。いつも助けてもらってるし。それより、彼女とはどういう関係?」
『無駄な詮索は止めろ』
「分かった。それじゃあ、行くぞ」
『ああ。気をつけろよ。奴は強い』
キルゲルの言葉に頷き、晃はまた走り出した。