第七十四話 消え行く気配
黒い壁の向こうは殺伐のしていた。
漂う血の臭い。
人々の死の叫び。
町に転がる血肉。
獣臭さと異臭に絶句する優花は、顔を顰め腕で鼻を押さえる。こんな光景を見たのは久し振りだ。生臭く一生嗅ぎたく無い臭いでもあった。
目を開けば瞳が血の様に真っ赤に染まる。鬼獣の放つ気配が色となり視界へと漂う。自分だけが別世界に居る様な錯覚すらしてしまう。
眉間にシワを寄せ、奥歯を噛み締める。何故、こんな状況になってしまったのか。怒りと後悔が心境を騒がせた。一体、派遣された封術師とガーディアンは何をしているんだと、周囲を見回す。
所々に封術師とガーディアンの気配を感じる。本部にも何らかの形でこの町に鬼獣が集まる事が知らされていたのだろう。複数の力を感じる。しかも、どれも強力なサポートアームズを持っている者だ。だが、その力が次々と失われていく。一つ、また一つと。
何が起っているのだろうか。疑問が脳裏を過り、また一つの気配が消えた。野放しになった鬼獣に、消えていく封術師とガーディアンの気配。ここで間違いなく何かが起こっている。そう判断した優花は、大地を担ぎその場を移動した。自分が今するべき事を把握していたからだ。
近くの建物に身を潜め、外の様子を窓から窺う。また、一つ気配が消滅。それと同時に、不気味な程強い殺意の様な気配をその目に感じた。だが、ほんの一瞬の事で、すぐにそれは消えた。
「何……今のは……」
『ねぇねぇ。何かあったの?』
不意に幼い声が優花の耳に入った。静かに右手首に目を落とす。そこにあの男からのプレゼントであるブレスレットが蒼い水晶を光らせていた。
『私、シェイドネリア。よろしく〜』
「……よろしく。私は――」
『優花、だよね。さっき聞いてたもん』
「そ、そう……」
へへへヘッ、と無邪気に笑うシェイドネリアに、苦笑する。子供は少々苦手だった。と、言うより子供と接した事が一度も無く、どう接すればいいのか分からなかったのだ。あの男は『キミなら彼女の力を百パーセント引き出せる』と、言って穴が塞がる瞬間に、このブレスレットを投げ渡した。どんな力を持っていて、どんな性格なのかも分からなかったが、この会話で性格は幾分分かった。
「あなたの能力を教えてくれる?」
『いいよ。教えてあげる』
子供の様に本当に無邪気な対応が新鮮に思えた。
『んとね、何から知りたい?』
「……。取り敢えず、私との適合性だけど――」
『大丈夫。私もロッジエッガスとおなしで、適合性とか関係ないから。安心して。へへへヘッ』
自慢げに笑う。すると、大地の右耳でオレンジの水晶が光り、低音の声が聞こえてきた。
『俺も、適合性は関係ない。もしよければ、力を――』
『うるさーい! 優花は私のマスターだ! ロッジエッガスは近付いちゃダメ!』
ロッジエッガスに対し幼く可愛らしい声で文句を言うが、何がいけないと言わんばかりにロッジエッガスは口を開く。
『ウム……。何故だ?』
『うぅ〜っ……。どうしてもだよ! 空気読んでよ!』
『……』
言っている意味を理解したのか、していないのか、ロッジエッガスは『フム』と小さく呟き大人しくなった。そんなロッジエッガスに対し、不満をダラダラと小声で述べるシェイドネリアは優花の視線に気付くと、『へへへヘッ』と無邪気に笑った。
『あのね。私、初めてなんだ。マスター以外の人に使われるの』
「マスター? さっきの彼の事?」
『うん。マスターは凄いんだよ。私達を製造してくれたんだから』
「そう。でも、どうして適合性に関係なく使えるの?」
『う〜ん。難しい事は分かんないけど、具現化能力が無いからとか何とか』
曖昧な返答に、優花は仮説を立てる。
適合性と言うのは元々、そのサポートアームズを具現化する力。具現化さえ抜けばサポートアームズは誰にでも仕える代物。と、言う事は何の為に具現化能力が必要なのか?
理由の一つは、誰かが故意的にそうした。何らかの理由があり、自分以外の誰にもそれを使わせない為。そう考えるのが、妥当だ。
もう一つ理由があるとすれば、それは相手の不意を突く為。普通一般に見れば、普段のサポートアームズは何の変哲も無い飾り物に過ぎない。疑われず武器を持ち込む事が出来ると、言うわけだ。
イマイチ、不に落ちない点が幾つか在るが、優花は考えるのを諦めた。今、そんな事を考えても現状を解決出来るとは思えなかったからだ。
小さくため息を漏らすと、心配そうな声でシェイドネリアが尋ねる。
『あの〜……。もしかして、私って迷惑?』
「エッ、ううん。そんな事無いわよ」
『本当に?』
不安そうなシェイドネリアに優花は微笑んで見せた。その顔に安心したのか、シェイドネリアは『へへヘッ』と、照れ臭そうに笑う。すると、キファードレイが訝しげな声で問う。
『和んでいる様だが、状況を分かってんのか?』
『あう〜っ。そうだったよ〜。これから、どうしよう?』
「まずは、状況を確認しなきゃいけない。ここで何が起っているのか……」
『そう言えば、ロッジエッガスが、マスターに言われて中を探索したみたいだけど……』
シェイドネリアが思い出した様にそう告げると、優花が視線をロッジエッガスの方へ向ける。しかし、返答は無い。暫く間が空き、優花が不思議そうに首を傾げると、同時にロッジエッガスが口を開く。
『どうしたのだ? 急に沈黙した様だが?』
『お前、話を聞いてなかったのか?』
今まで沈黙していたグラットリバーが呆れ気味に尋ねると、『何がだ?』と不思議そうに答えた。三つのため息が零れ、視線がロッジエッガスに集まる。だが、何事も無い様な素振りで、のんびりした態度のロッジエッガスに、シェイドネリアが怒った様に言う。
『話し聞いてたのかよ! 現状についてだよ!』
『それは、分かっている。だから、それが何だと言うのだ?』
何が言いたいと、言っている様な口振りのロッジエッガスに対し、冷やかな口調でグラットリバーが聞く。
『意味は分かってるよな?』
『何の意味だ?』
『言ってる意味に決まってんだろうが!』
「もういいわ……。シェイドネリア。覚えてる分だけでいいから教えてくれる?」
諦めた様に優花がシェイドネリアにそう尋ねると、『うん。分かった』と素直に答え、ゆっくりと思い出す様に口を開く。
『えっとね……。確か、彩って人が、二人組みと交戦中で、誰かと誰かが氷神って人と戦ってるとか……。ゴメン。名前は出てこないんだ……』
「いいわ。ありがとう」
『ったく、役にたたねぇ連中だ』
『うっ、うううっ……』
キファードレイの言葉に泣き出してしまうシェイドネリア。
『ごめんなさい。ごめんなさい。わ、私、私――』
「いいのよ。気にしないで。大体の予測はついたから」
『でも、でも……』
何かを言おうとシェイドネリアだが、言葉を呑んだ。これ以上優花を困らせたくなかったのだ。そんなシェイドネリアの気遣いに、優花は優しく笑みを浮かべた。すると、シェイドネリアは嬉しそうに『へへへヘッ』と、声を震わせながら笑った。