第六十五話 黒い壁
落雷により破壊された高層ビルの窓ガラスは、破片となり地上へと降り注いだ。破片のそれぞれが光りを反射し、煌びやかに輝いた。降り注いだガラスは地面にぶつかり弾け、清らかな音色を奏でる。
黒焦げ砕けた歩道。はち切れ変形したガードレール。全てが落雷の衝撃を物語っていた。砕けた歩道の中央には黒い塊だけが残され、他には何も残っておらず、黒煙だけが舞い上がる。周囲を囲う狼電はそれを確認すると、足早にその場を立ち去った。
「危なかったな」
綺麗な男の声と共に、瓦礫の上に大地が落下する。衣服は所々が黒く焦げ、髪はボサボサに乱れていた。煤にまみれた顔を拭ったその右手は、未だ具現化状態を保つグラットリバーの姿もあった。
肩で息をする大地は黒光りする右手を高らかと振り上げ、人差し指を立てると大声で怒鳴る様に言葉を告げる。
「テメェが何でここに居る!」
「助けてもらってその口の利き方はないだろ?」
先ほどの綺麗な声。その主が地上へと降り立った。背中には白銀の翼を持ち、整った顔立ちが更に際立ち、金髪の髪が全ての女性を魅了する。漆黒のスーツは足の長い彼に似合い、首元で緩んだワイシャツのボタンの隙間から見える胸板が、少しだけ色っぽく見えた。
だが、男の大地にとってそんな事はどうでも良く、怒りに満ちた目で真っ直ぐに少年を見据え、怒鳴る。
「うるせぇ! テメェがどうしてここに居るのか聞いてんだよ!」
「相変わらずギャーギャーと五月蝿いね。キミは。大体、俺が来た理由も分かっているはずだろ?」
「んだと!」
拳を握る大地に対し、無防備に立つ男。
沈黙と睨み合いが続き、静かに時が流れる。ジリジリと間合いを計る大地は、腰を屈めると左足を引き前傾姿勢をとった。右手がパキパキと異様な音を奏で、大地の表情が苦痛に歪む。
「その体で、アレを使うのは良くないと思うよ」
「うるせぇ! テメェの指図は受けねぇ!」
「止めなさい! 大地」
突如響く優花の声。それが、大地の行動を静止する。湧き出す感情を押し殺し振り返った大地は、優花の方に顔を向けるが目を見ず押し殺した声で問う。
「優花! どう言う事だ。こいつが来てる事を知ってたのか!」
「誰かが来る事は知ってたけど……。まさかあなたとは思わなかったわ。久遠 達樹君」
赤い瞳が真っ直ぐに久遠 達樹を睨み付けた。爽やかに笑みを浮かべた達樹は、両手を広げると嬉しそうに歩みを進める。
「久し振りだね。ここでキミに逢えるとは俺は幸せだよ」
「そう。私はあまり逢いたくは無かったわ」
「つれないな。俺とキミの仲じゃないか」
「あなたにそこまで気を許しているつもりは無いわ」
冷たく感情の篭っていない声色に、達樹が歩みを止める。そして、優花の頬に優しく触れると、口付けをするんじゃないかという程顔を近づけた。真っ直ぐに目を睨む優花は、頬を触れる達樹の手を払うと、
「私に気安く触れないで。私に触れていいのは、私が認めた人だけ」
「フッ……。俺は、キミに認められていないのかな?」
『あたりめぇだろ! おめぇの様な奴、優花に近付くんじゃネェ!』
キファードレイが遂に乱暴な口を開く。その言葉に達樹は不適に笑い背を向け歩き出した。大地と優花の視線を受けながらも、落ち着いた態度の達樹は、右手の薬指に緑色の水晶が付いたリングを填める。リングは輝きを放ち、綺麗な女性の声が響く。
『久し振りに見る顔があるわね。どういう了見かしら?』
「ウィーリス。悪いけど、二人を町の外へ」
「なっ! ふざけんな! 何で俺達が町の外に!」
『分かったわ。それじゃあ――』
大地の言葉も虚しく、風が大地と優花の体を覆った。薄い膜が張り、球体へと変化する。抵抗を見せ様としない優花に対し、達樹を睨み付ける大地は、右手を振り上げ風の膜を殴りつけた。何度も何度も、その拳が砕け様とも力一杯に。
だが、風の膜は一方的にグラットリバーの黒衣を剥ぐ様に削り取っていく。破片が飛び散り、具現化が解けむき出しとなった大地の拳が風の膜に触れ血を噴出す。
「クソ! クソ!」
『止めろ! 大地!』
「クソォォォォォッ!」
振り下ろした拳が弱々しく風の膜を叩き、両膝を落とし頭を風の膜に押し当て拳を震わせた。怒りと悔しさに涙を流す。また、彩を守る事が出来ない事を。そして、また奴が全てを――。
優花と大地を見送った達樹は、二人の姿が見えなくなったのを確認し、ゆっくりと右耳にイヤリングを付ける。黄色の水晶が不気味に輝き、老いた擦れた声が聞こえてくる。
『用件は分かっておる。直ちに準備を開始する』
「ああ。頼む」
『承知した。これより、半径五キロ四方を覆う』
言葉を言い終えると、水晶が強い光りを放つ。それが合図だったのか、突如町を覆う黒い障壁。それは、陽の光りすらも遮り、町を闇に包み込んだ。
町の外へと追いやられた大地と優花は、黒の障壁が町を包み込むと同時に、風の膜から開放された。血と涙がポツポツと地面に落ち、押し殺した大地の呻き声だけが優花の耳に届く。長い間一緒に居るが、大地が涙を流す所を見るのは初めてだった。
その場の誰もが口を閉ざし、沈黙が続く。
目の前に広がる黒い障壁を見上げる優花は、いつの間にか元に戻った黒い瞳を伏せると、小さく息を吐き拳を握った。その拳から僅かに殺気を感じたのはキファードレイだけで、誰一人優花の怒りを知る者は居ない。
「グラットリバー……。モード黒金だ」
『分か――』
「止めなさい! 大地」
グラットリバーを具現化しようとしたが、それを優花が止めた。理由は明らかだが、それでも大地は強行する。
「グラットリバー!」
「大地!」
二人の言葉が交錯し、静けさが戻った。グラットリバーは何も答えず、キファードレイも言葉を発しず、この場を見届ける。
静かに腰を上げた大地は、もう一度拳を握ると、俯いたままグラットリバーに呼びかけた。
「グラットリバー! 早くしろ!」
『分かった』
「止めなさい! グラットリバー、分かるでしょ!」
大地を止めるのが不可能を悟ったのか、次はグラットリバーに言い聞かせた。だが、グラットリバーにその言葉に従わず、堂々とした声で答える。
『俺の志は大地と共にある。例え、どんな結末が待っていようとも』
低い声が終わる前に水晶が光りを放ち、大地の右手を包み込む。しかし、光りが収まった時、そこにあったのは不完全な黒金の姿だった。手の甲だけを包み込んだ黒の物質。指先は完全に肌を露出し、甲を覆う物質も僅かに亀裂が走っていた。
不完全な具現化にも関わらず、大地は左手で右手首を掴むと、その拳に力を込める。呻き声に近い大気を揺るがす雄叫びが、僅かに手の甲のオレンジの水晶を不気味に輝かす。
「うぐっ……」
激痛が腕を襲う。
そして、グラットリバーの黒い物質が、大地の腕を侵食し始めた。通常よりも数倍の速さで肘までを呑み込み、膨張する様に腕が膨らんでいく。その腕は既に原形を留めておらず、指先から伸びる鋭い爪の様なモノが、僅かに地を抉っている。
手の甲の亀裂。それは腕全体へと行き渡り、黒の物質に大きな窪みを生み出し、脆く崩れてしまいそうな姿を窺わせていた。
その侵食は止まらず、肩を越えても尚大地の体を貪り食う様に首へ上り、顎先まで食いつくそうとしていた。
刹那、咆哮が響く。大気を震わせ、地を砕き、目の前の黒い障壁にすら波紋を広がせた。