第六十三話 異変
夜が明け、いつもの朝が訪れる。
何も変わらないハズのいつもと同じ朝。
だが、早朝ランニングをする守は、何処か違和感を感じていた。
ピリピリと肌を刺す様な空気。それが、そうさせているのかも知れない。
一方のフロードスクウェアも街の異変に気付いていた。複数の鬼獣の気配。それに混ざって微かに感じる強いサポートアームズの気配。どれも守の力では到底及ばない程の力を持った者達だ。
昨夜の話から、鬼獣が集う場所はこの町で間違いない様だ。だが、何故この町なのかは不明だ。特別な力を持つ土地の様には思えないが、もしそうだとしたら、何故大地と優花の二人を本部へと戻す必要があったのか。様々な疑問に頭を悩ますフロードスクウェアに、不意に守が声を掛けた。
「なぁ、何か変じゃないですか?」
『変? どうしたんだ急に?』
「いや……。何か、町中ピリピリした空気が漂ってるって言うか……。息し辛い」
『そ、そうか? 俺はあんまり気にならないがな』
こう言う時の守の勘の鋭さは、群を抜くものがある。気配を探れる奴よりも優れている為、フロードスクウェアとしては不安だった。自分から危険な場所に知らず知らずに突っ込んでいそうだからだ。
ランニングを続ける守はいつもの様に月下神社の石段を登る。その時、フワッと石段の上から冷たい風が吹き抜ける。冷気とも言えるその風に、守は足を止めた。ボサボサの黒髪が冷気に撫でられしなやかに揺れる。
「変じゃないか?」
『んっ? どうした?』
「可笑しいよ。変だって」
『何言ってん――ッ!』
突如襲う強烈な殺気に、言葉が途切れる。身の危険を瞬時に感じ、大声で叫ぶ。
『守! 逃げろ!』
「ヘッ? な――」
「貴様はガーディアンか?」
突然の声。艶かしくも鋭い女性の声に、守の体も硬直する。気付いてしまったのだろう。彼女の放つ殺気と禍々しい憎悪に。
動く事の出来ない守の視界に映る。長く美しい白髪に真っ白の死に装束。まるで雪女を見ている様だった。凍える様な淡い蒼の瞳が、守の事を真っ直ぐに見据える。
「私は氷神。貴様は――」
『守! 俺を具現化しろ!』
「守? そうか。あなたが火野 守か。ならば話が早い。私に付いて来い。あなたに話がある」
『話……だと? ふざけた事を――ッ』
氷神の鋭い眼差しにフロードスクウェアは言葉を呑んだ。今まで戦ってきた奴等とは明らかに次元の違う殺気。幾らフロードスクウェアでもその殺気に逆らう事が出来なかった。
向い合う守は目の色を変え、ゆっくりとした口調で問う。
「あなたがやったんですか?」
「……勘が良いな。だが、私ではない」
『な、何の事だ?』
状況が把握できない、と言わんばかりにフロードスクウェアが言葉を挟む。だが、守はそれに返事を返さず、拳を握ったまま氷神を睨んでいた。
二人の視線は対照的とも言えた。感情を剥き出しの守の眼差しと、感情すら凍り付かした冷たい眼差しの氷神。両者の対峙は続く。数十秒――数十分――どれ位の時間が経ったのかは定かではない。だが、それは突然起きた。
『な、何だ!』
「クッ! 始まったか……」
地響きと共に爆音が轟く。風がザワメキ、木々が囁く。町で起きている事を全て伝えるかの様に。
町のあちこちで火の手が上がり、黒煙が立ち上る。崩壊する建物、逃げ惑う人々、襲い来る鬼獣。平和に見えた町は一瞬にして悪夢の様な光景へと変貌し、人々の悲鳴と血飛沫が飛んだ。
悪夢の様な光景の中に、大地は居た。血塗られた壁、漂う異臭、不気味な獣の遠吠え。全てが町を狂わす。それでも尚正気を保つ者。それは限りなくゼロに近い人数だった。
「クソッ! な、何だってんだ!」
『落ち着け大地。まずは優花と合流するんだ!』
「うるせぇ! そんな状況じゃないだろ!」
右腕のブレスレットを握ると険しい表情を浮かべ奥歯を噛み締めた。
人が死ぬのを見るのは初めてじゃなかった。鬼獣と戦う以上、人の死に直面する事は日常茶飯事と言ってもいい。それでも、こんなに多くの人が血を流し、苦しむ光景を未だかつて見たことが無かった。
「グラットリバー!」
叫ぶと同時にグラットリバーを具現化した。オレンジ色の水晶が手の甲に輝き、艶やかな漆黒の手が鋭く煌いた。
「モード黒金!」
モード黒金――対電気に優れグラットリバーの初期原形。最も硬質な物質で構成され、武器でありながら盾の役割も果たせる大地のお気に入りでもあった。
腰を落とし姿勢を低くする大地は、右手をゆっくりと地に下ろす。鋭利な指先が僅かに地に触れたその瞬間、大地はそのまま右手で地を掻っ切り駆ける。コンクリート地面が裂け、爪痕がくっきりと残された。
「グラットリバー捕捉しろ」
『無茶言うな! そもそも、俺は大勢を相手に戦うのには不釣合いなんだぞ。ここは優花か、お嬢様のどちらかと合流して――』
「ダメだ! んな事してる暇は無い。それに……」
言葉が途切れ、大地の拳が空を一閃する。地を駆ける狼電。その頬に漆黒の拳が減り込み、血飛沫を吐き地面を転がる。大地の一撃、それが周囲に散ばる他の狼電の怒りを買う形となった。
完全に囲まれ、青白い光りが全ての狼電と共鳴する。
「それに、見せたくないんだ……」
『見せたくない?』
「ああ。無様な俺の姿は――」
弱気な言葉に複雑そうに歪んだ笑みを浮かべる。グラットリバーがその笑みに込められた意図を理解するまでそう時間は掛からなかった。だが、声を発するより先に眩い光りが辺りを包み、轟音が大気を裂く。
「グアアアアアッ」
大地の叫び声が眩い光りの中から響き、轟音へと掻き消された。
「私は、ゼロの使いです」
長い沈黙を破ったのは氷神だった。鋭い目付きとは裏腹に、美しく丁寧なお辞儀。それは、守に対して敵意は無いと言う表れだった。戸惑いながらも守は理解する。彼女が悪ではないと。だが、フロードスクウェアだけは警戒を解かなかった。押し殺してはいる様だが、その体から染み出す僅かな殺気を感じとっていたからだ。
警戒を解くと氷神は顔を上げる。二人の視線がぶつかり、それと同時に氷神が口を開く。
「あなたに話がある」
「俺に……話?」
「騙されるな!」
凛とした声と共に、守の横を褐色の肌の女性が駆ける。見慣れた青桜学園の制服に身を包んだ彼女は、美しい漆黒の髪を揺らし、その手には女性には似つかわしくない刀を握っていた。
その声、その後姿に守は見覚えがあり、
「犬神さん!」
思わず叫んだ。
犬神 智夏――彩の友であり望美の大親友でもある彼女は、刀の柄を握り締めると、右足を踏み込み刀を振り抜く。
全てを見据える。足の踏み込み、腕の振り、刃の入る角度。全ての動きを視野に捉えていた。
「遅いです」
氷神が体を仰け反らせ刃をかわす。切っ先が僅かに氷神の白い髪を掠め、美しい白髪が宙を優雅に舞う。
「チッ」
小さな舌打ちが響き、連動するかの様に前傾姿勢から突きを見舞う。だが、軽快な足捌きを見せる氷神にこの刃が届く事は無く、僅かに右脇の下をすり抜けてしまった。体勢を崩した智夏は、左手を地に着くと無理な体勢から右手だけで刀を振り抜く。
しかし、氷神には全てを読まれていた。一連の細かい動き全てを、その眼は捉えていたのだ。足の踏み込み方から腕の振り抜き方、僅かな視線の動きまでもを見透かしていた。