第四十一話 炎蝟対豹風
屋上から響く轟音。
それは、優花の脳裏に嫌な予感を過らせる。だが、それを表情に出さず、優花は真っ直ぐに炎の中の豹風に目を向けていた。
そんな時、足元から幼い子供の様な声が聞こえる。
「今回の獲物は、あいつか?」
その声の正体は、先程優花が召喚した炎蝟だった。小さな体に、刺々しい毛並み。非常に弱々しく見えるその鬼獣は、優花の顔を真っ直ぐに見上げている。優花はその鬼獣の目を真っ直ぐに見据え、小さく頷き答えた。
「そうよ。だから、今回もあなたの力を貸してほしいの」
この言葉に炎蝟は嬉しそうな表情を見せた。久し振りの獲物。そして、久し振りに吸った外の空気。炎蝟の気分は最高潮に達しており、寝ていた毛並みが全て立ち上がり、刺々しさを増していた。鋭い毛並みは長い針の様で、その一本一本が薄らと炎を纏っている。
そして、ようやく豹風の体を包んでいた炎が消えた。所々が黒焦げているが、殆ど無傷の豹風。やはり、低級呪文ではダメージを与える事は出来ない様だ。最初から分かっていた事だが、実際に目にすると結構辛いものだった。低級呪文と言っても、優花にとっては鬼獣の力を借りないと扱う事の出来ない呪文。それが全く効果が無いのは、本当に辛い。
「ウガアアアアッ!」
大気を震わす程の豹風の声。それは、地面を砕き細かな破片を優花の方に飛ばす。優花の体にもその声が出す波動がヒシヒシと伝わった。制服のスカートがその波動で大きく靡き、優花の腰まで届く長い黒髪も大きく揺れる。
優花の前方に立つ炎蝟は、地に四本の足で力強く踏み止まる。波動が全身の刺々しい毛並みを逆撫でする。
「豹風か……。懐かしい相手だな」
不適な笑みを浮かべる炎蝟は、軽く身を震わせる。それに気付いた優花は、キファードレイを翳し、静かに口を開く。
「震えてるわよ」
「フッ……武者震いだ。安心しろ」
『武者震い? 本当は、こえぇんじゃねぇのか?』
キファードレイの口の悪い言葉に、炎蝟は鋭い眼差しをキファードレイに向ける。その瞳の奥に見える真っ赤な炎が、キファードレイを臆させた。言葉を失うキファードレイに代わり、優花が口を開く。
「体は鈍っていない? 久し振りだけど」
「大丈夫だ。俺の体は、今まで以上に絶好調だ」
「なら、安心ね。いざと言う時は力を貸すわ」
その言葉に、炎蝟は僅かに首を振り答える。
「力など借りぬ。安心しろ」
「そう。でも、油断しないで」
「油断などしないさ。見ていろ」
豹風の声が収まり、風が止む。波動で地面は崩れ、足場は最悪なものへと変っていた。対峙する炎蝟と豹風。足元に風塵を舞い上がらせる豹風に、毛に炎を纏う炎蝟は、静かに闘志を燃やす。
豹風と睨み合う炎蝟は、微かに右前足を一歩踏み込み、威嚇する様に牙をむき出しにする。二本の長い牙と無数の小さな牙をむき出しにして、声を荒げる豹風。それに対し、短い牙しか持たぬ炎蝟は、声は発しないで毛並みだけを逆立て威嚇する。
「ガウウウウッ!」
豹風が地を蹴る。後塵が舞い、破片が宙を飛ぶ。そして、鋭い爪を小さな炎蝟へと振り下ろす。下りて来る爪を見上げる炎蝟は、ギリギリまでその軌道を見据える。優花は既にその場を飛び退き、まだ動かない炎蝟に叫ぶ。
「炎蝟!」
豹風の爪が完全に地面に突き刺さった。炎蝟の姿は何処にも無く、キファードレイは唖然とした様子で口を開いた。
『あの野郎! 逃げ遅れやがって!』
「誰が逃げ遅れたって?」
キファードレイの言葉に、豹風の背後から炎蝟の声がする。地面を砕いた豹風の右手が上がる。そこに炎蝟の姿は無く、瓦礫だけが円形に窪んだ中央に集まっていた。豹風の背後に立つ炎蝟は、余裕の表情を見せる。ホッとする優花は、炎蝟の方に目を向け叫ぶ。
「遊んでないで、早めに勝負を決めて」
優花の言葉に呆れた様に首を振る炎蝟は、不適に笑みを浮かべて口を開く。
「な〜に。少し遊んだら――」
「ガアアアアッ!」
叫び声と同時に、右拳が振り下ろされた。完全に不意を突かれた炎蝟は、避ける事が出来無かった。地響きと共に地面の砕け散る音が轟く。亀裂が無数に広がり、砕石が飛び散る。突然の事に驚く優花とキファードレイは、言葉を失っていた。
地面に減り込んだ豹風の右拳。ピクリとも動かず、炎蝟の安否は不明だ。その為、優花はカードフォルダから、瞬時にカードを抜く。もう火のタイプの鬼獣は持っていない。その為、その手に取ったカードは風鳥のカードだった。今持っている優花のカードの中で、風鳥は風属性で一番強い鬼獣だ。この鬼獣は、優花の切り札でもあった。その為、極力使うのを控えている。
そんな風鳥のカードをキファードレイの水晶に翳す。白い光が水晶の中に輝き、風が三日月型の刃を包み込む。風塵が足元に舞い、強風が優花の周りを取り巻く。長い髪が風で浮き上がり、制服の裾もユラユラと揺れる。
『制服でこいつを使うのは、色々と問題あるだろ』
「そんなの気にしている場合じゃないでしょ。それに、どうせ誰も見て無いから」
真剣な顔つきでそう言う優花は、スカートが捲れるが全く気にしない。そんな事を気にしていては、鬼獣とは戦っていられないのだ。風の勢いが増し、更に優花の髪を逆立てる。真っ赤な瞳を豹風の背中に向ける優花は、静かに呪文を唱え始めた。
「透明な鱗は、触れるものを引き裂き、疾風の如き速く敵を喰らう」
その呪文に豹風は気付いたのか、優花の方へと顔を向ける。優花とキファードレイの周りに渦巻く風に、豹風は雄叫びを上げた。風をかき消すかの如く発せられる波動は、幾重にも優花の体に襲い掛かる。
奥歯を噛み締める優花は、右足を踏み込むと、キファードレイを振り上げた。波動で後方に仰け反りそうになる。それを右足に力を入れ、必死に踏み止まる優花は大口を開き叫ぶ豹風に向って叫ぶ。
「全てを裂け! 疾風の牙!」
波動を体に受けながらも、キファードレイを振り下ろす。風を纏う三日月形の刃の切っ先が地に触れる。すると、キファードレイの刃を包んでいた風が、地を抉りながら豹風の方へと向っていく。轟音が響き、地が揺れる。風は鋭い音を響かせ、大口を開いた龍の形へと変化した。
「グガアアアアッ!」
豹風は叫び龍と化した風に向って走り出す。そして、右手を大きく振り翳した。風が鋭く伸びた爪に集まり、更に大きく鋭い爪に変化する。風音が辺りを包み込み、その合間に地面が抉れる音が微かに聞こえた。風の龍と豹風の距離が縮まり、豹風の右手が振り下ろされた。風を纏った爪が、激しく風の龍と衝突する。
「ガアアアアッ!」
豹風の爪が風の龍と接触すると同時に、凄まじい衝撃波が轟音と共に起きた。身構える暇の無かった優花は、その衝撃波を受け吹き飛ばされる。
「キャッ!」
吹き飛ばされた優花は、何度も地面に叩き付けられ、数十メートル行った所でうつ伏せに倒れていた。全身傷だらけで、制服も土で汚れている。赤い瞳はすでに元の黒い瞳に戻っており、キファードレイもネックレスへと戻っていた。
『大丈夫か? 優花』
「えぇ……。大丈夫よ」
傷口から血が溢れる優花だが、平然とした表情のままゆっくりと立ち上がった。舞い上がった塵が、ゆっくりと地に落ち、微音を奏でる。そして、薄らと立ち込める砂塵が徐々に晴れていく。
息を呑む優花。既に出せる力は出した。これで、豹風が立っていれば、優花は死を待つ事になる。そう、優花にはもう鬼獣と戦う余力は残されていなかった。初めの低級呪文、炎蝟の召喚、そして先程の上級呪文。これらの術を使った優花に、体力など残っている訳は無い。
そんな優花は、必死で目を凝らし砂塵を見据える。そして、その瞳に一つの影の姿が――。