第三十九話 悪とは何か?
静けさ漂う屋上。一体の鬼獣が、右肩に意識の無い彩を担いで仁王立ちしていた。
尻から生えた長く太い尻尾が、何度か軽やかに動く。そして、徐々に体が人間の姿へと変ってゆく。尻尾は縮み、体の色も肌色へと変化する。黒髪がユラユラと揺れ、完全に人間の姿になった。その姿は、科学教師の武中だった。
白衣に身を包んだ武中は、乱暴に彩の体を床に落とす。彩は完全に意識を失っており、何の反応も示さない。そんな彩を見下す武中は、薄ら笑いを浮かべ静かに舌なめずりをする。目の前にある極上の獲物に、武中の涎は止まらなくなっていた。
「クックッ……。す、少し位なら、食っても大丈夫だろ?」
薄ら笑いを浮かべたままそう呟く武中は、乾いた唇を舌で舐め、ゴクリと生唾を呑む。そして、武中の手が彩の両肩へと伸びた。だが、その時遠くの方から微かに声が聞こえた。
「水島に触れるな!」
その声のする方に顔を向ける。向かいの校舎屋上の出入口。そこに守の姿があった。右手で首からぶら下げたフロードスクウェアを握り、眼を凝らし武中の方を見据えている。
二人が暫く対峙し、ようやくお互いの事を認識した。守は武中が鬼獣なのだと悟り、武中は守がガーディアンだと悟る。そして、武中が守の方に大手を広げ声を張り上げた。
「フハハハハッ! まさか、君がガーディアンだったとはね……。全く驚きモノだよ」
「俺も驚いたよ。あんたが鬼獣だったなんて……」
大分距離のある二人は、少々大声で会話する。だが、その声が誰かに聞かれる事は無い。屋上には守と武中、後意識の無い彩の三人しかいないのだから。
堂々とする武中は、向かいの校舎にいる守の方に向って前進し、薄ら笑いを浮かべて問いかける。
「君に私が倒せるのか?」
その問いに、守は一度眼を伏せる。そして、フロードスクウェアを具現化すると同時に、眼を見開き鋭い眼差しで武中を見据え答えた。
「あなたが悪ならば、俺は問答無用であなたを斬る」
真剣な眼差しの守に、突如武中が笑い声を噴出す。
「ブッ! ハハハハッ! 君に私が悪かどうかなど決める事が出来るのか!」
笑いながらそう叫ぶ武中。視線を静かに下の方に落とす守は、ゆっくりと息を整える。何をするつもりか分からないが、いつもと様子が変だと気付いたフロードスクウェアは小声で声を掛けた。
『おい! 何をするつもりだ?』
その質問に息を吐き出した守が、柄を力強く握り締め答える。
「俺は、俺自身が守るモノの為に戦う。これ以上人を傷つけさせたりはしない」
『お前、何言ってんだ?』
質問の答えになっていないと、フロードスクウェアが不思議そうに聞く。だが、その言葉は守の耳に届いておらず、守は既に走り出していた。
ここから向かいの校舎まで、繋がっているが、向こうに行く為には遠回りをしなくてはならない。その為、守はそのままの勢いでフェンスを蹴上がると、中央にある渡り廊下の上へと着地する。
流石のフロードスクウェアも、これには驚き慌てふためく。
『うぉい! な、何してんだお前! 正気か!』
返事を返さぬまま渡り廊下の上を駆ける守は、もう一度フェンスを蹴上がり武中目掛けて、フロードスクウェアを振り下ろす。だが、武中はそれを軽々とかわす。フロードスクウェアは勢い良く床を叩き割り、亀裂が広がる。落下する速度も加わり、普段の何倍もの力が出たのだ。もちろん、フロードスクウェアの痛みもいつもの何倍にも膨れ上がっていた。
『ぐおっ! いってーな! 少し優しく扱え』
「ごめん。外した」
立ち上がりそう言う守に、フロードスクウェアが怒鳴る。
『ごめん外したじゃない! 大体、地面に頭をぶつけた時点で外したのは分かってるんだよ! もう少し丁寧に扱えよ!』
「すまん。それは約束できん」
フロードスクウェアの言葉に即答する守。呆気にとられるフロードスクウェアは、一瞬対応に遅れるが、すぐに守に言い放つ。
『な、何だ! どう言う意味ださっきの言葉は!』
「イマイチ、剣の使い方が分からないんです。だから、暫くは――」
そこまで言って守がフロードスクウェアを振り上げる。守の言葉に慌てるフロードスクウェアは、『ま、待て!』と叫ぶが、時は遅し。武中目掛けて走る守は、勢い良くフロードスクウェアを上から下へと振り抜く。『ギャアアアアッ』と、フロードスクウェアの悲鳴が聞こえ、武中が刃をかわす。そして、もう一度フロードスクウェアが床を叩く。
『うがっ!』
「くっ! また、外した」
視線を武中の方に向けたまま守はそう呟く。呆れた様に首を振る武中は、守をバカにした様な眼で見据える。
「残念ながら、君は私に勝てない。いや……それどころか、君の攻撃は私には届かない。絶対に」
自信満々の武中の言葉に、守はゆっくりとフロードスクウェアを持ち上げる。
「あんな事言われてるぞ。フロードスクウェア」
『俺に言ったんじゃなくて、お前に言ってるんだよ!』
怒りをぶつける様にそう言い放つフロードスクウェア。聊か渋い表情を見せる守は、「そうなんですか?」と怪訝そうな眼で、フロードスクウェアを見ながら答える。呆れるフロードスクウェアは、『お前な……』と静かに呟いた。
そんな二人の姿を見据える武中は、僅かにイライラを募らせる。目の前の食事を邪魔され、挙句にこんなふざけた奴が相手。イライラがたまるのも無理は無い。守もフロードスクウェアもその事に気付いておらず、あーだこーだと揉めていた。
『お前は、乱暴すぎるんだ!』
「けど、現代っ子に剣を扱えと言うのは不可能ですよ」
『うるせぇ! んなの、俺が知るか!』
「あのですね……。もっと丁寧に扱って欲しいなら、もっと軽くなってください! 重すぎて動き難いんですよ!」
『お、重すぎてだと! 大体、それはお前の気持ちの問題だろうが!』
「はぁい? 気持ちの問題? そんなわけ無いでしょ! 大体、気合入れて重量が軽くなるなら、皆やってますよ!」
大揉めの守とフロードスクウェアは、完全に武中の事を忘れていた。だが、この直後すぐに武中を思い出す事になる。
「だから……!」
守の言葉がそこで止まり、体が宙に投げ出される。宙に舞う守の視界に微かに見えた。長く太い尻尾を撓らせる武中の姿が。そして、気付く。腹部に感じる痛みに、自分が殴られた事を。
床に激しく落ちた守は、背中を打ちつけ口から僅かに血を吐き出す。
「ぐはっ」
床が衝撃で僅かに窪み、亀裂が幾つも走った。床に落ちた時の痛みで、フロードスクウェアの柄を放してしまった為、フロードスクウェアはフェンスの方まで飛ばされている。痛みに表情を歪める守は、二・三度咳をして、体をゆっくり起す。だが、武中の右足が起き上がろうとする守の胸を押して、床へと押し付ける。
守の胸を踏み付ける。亀裂が更に広がり、軋む音が聞こえる。床が軋んだのか、守の骨が軋んだのか分からないが、その音は徐々に大きくなっていく。苦痛に呻く守は、両手で武中の足を掴む。だが、武中は更に力を加える。圧迫され、息が苦しくなり、武中の足を掴む力が緩み、静かに床に腕が落ちる。それと同時に、遂に床が崩れた。