素敵なおうち・前編
「もうすぐ下宿の更新なんです」
それは不意に言った、何気ない言葉だった。
ターフェは此処最近、昼食と帰宅時の庭園散歩を特定の人物と行う事が日課となっている。此処最近、というのはとある御仁に愛を告白されてからの話であって、勿論相手はその御仁サーザランディグ。二人連れ立って庭園を徒歩で回る姿は特に有名だ、凸凹コンビ過ぎて。何せ今日もターフェはサーザランディグことサザの陰に隠れてさっぱり見えやしない。まるでサザが時折独り言を言いながら歩いている様で、とてつもなく奇妙な光景である。
「最近早くに帰れないでいたから、早くしてしまわないと追い出されてしまいます。もっと早く出来ていればよかったんですが」
暗に「最近残業が多かったんですよね」と語りつつ、ターフェは歩を進める。それは何ら裏のない、たったそれだけの事だった、のだけれど。
翌日から、ターフェは帰宅するという行動自体が出来なくなってしまった。
「びやああああああ! 帰りたいいいい!」
「喧しいターフェ! 俺も帰りたい!」
ターフェは上司と泣き叫びながら書類を捌く。というのも、数日前に横領を行っていた貴族が捕らえられた所為だ。彼の横領した税金やら物品やら、様々な犯罪に対する書類が各省庁を右から左へと流れて行く。それを一心不乱に処理しているのがターフェの配置されている部署なのである。
未決裁の文書を流し、決裁の下りた文書を流し、そうしているだけなのに全く進んでいない気がするのは、当の犯罪者がせせこましい横領をしていたからだ。横領するならもっと大規模にどーんとしやがれ! 後が面倒だろうが! とは言うに言えない内情である。
とにもかくにもやたらめったら書類が多い為人員不足となり、しかし他部署も同様の有り様であった為救援も見込めず、つまりターフェ達は殆ど泊まり込みで書類を精査し続けた。
そうしておおよそ一週間、怒濤の様な日々は終わりを告げた。
「……これが最後の書類です……」
「……終わったわね……」
「終わりました……!」
何だか酸っぱい様な香ばしい様な何とも言えない芳香漂う部署内で、皆は力なく健闘を称え合う。これで今晩は皆自宅のベッドで眠りに就ける。もうずっと生温い仮眠ベッドを交代で使用して細切れに意識を失うなんて事、しなくてもいいのだ。饐えた匂いのする身体を洗う事も勿論可能だ、今は鼻が麻痺してしまってよくわからないけれど。
ターフェも二重三重にも膜が張った様な目を擦り、どうにかこうにか鞄を肩に掛けた。帰ろう、今すぐ。シャワーは後でもいいから、とにかく自分のベッドで眠るのだ。ターフェはくじで勝てたので明日休めるし、昼過ぎまで寝倒してその後下宿の更新に行けばいい。
のそのそと部署から一歩踏み出したその時だった、大慌てのワナが走り寄って来たのは。
「ターフェ! アンタんち、下宿、燃えてる!」
「……ええええええええ……?」
非常に、意味がわからなかった。
結論としていえば、ターフェの下宿は全焼であった。原因は放火、ワナに連れられようやっと現状を理解したターフェでも如何ともし難い程の有り様だ。何せ燃え滓しか残っていないのである。
「げ、下宿の更新……」
「それどころじゃないわよターフェ……」
資産は少ないが銀行に預けている、問題はそれ以外の物資だ。思い出も何もかもが燃え尽きてしまったのである。
「はー……」
こういう時、人は意外に泣けないものだとターフェは学んだ。実感が追い付かない、という以前に実はあまり物持ちでなかったターフェとしては実家からの手紙が惜しいくらいの身軽なものであったのだ。本当に大切な物は日々鞄に入れて持ち歩いている。故に、ターフェの鞄は妙にごつごつして重い。
とはいえ、現実は優しくない。
「ターフェ、泊まるとこないでしょ? 一先ずうち来る?」
「ありがとワナ……」
消火作業の続く其処に居続ける訳にも行かず、簡素な実況見分を受けたターフェはその足でワナの後に付いて歩こうとし――、引き止められた。
「ターフェ様、ターフェ様!」
「はい?」
「ターフェ様でいらっしゃいますね?」
ターフェを引き止めたのはたれ耳の犬型の獣人で、その後方にも幾人かの獣人が立っている。武官らしいその姿を見た瞬間、ワナはターフェに告げた。
「やっぱうち泊めんのナシで」
「えええええええ?」
慌てるターフェを抱き込み、ワナは静かに続ける。「アタシは馬に蹴られて死にたくない」と。
「そういえばアンタにはすっごく優良な物件が付いてたの忘れてた。そっちに任せとけば安心でしょ」
「何それ」
「出たよこの天然」
ワナはカーッなどとオッサンの様に叫んでいる。見目はいい筈なのに凄く残念な女だと周囲は常々言っているが、ターフェもそう思う。ワナはひどく残念な美女だ。
「とにかく! 其処の武官達! この天然をどうぞ宜しく」
「お任せ下さい!」
ぴんと張った尻尾にやり遂げるぞという忠誠心が見え隠れする。それを拒否する事など出来ようもなく、ターフェは元下宿前でワナと別れ、武官に囲まれたまま訳もわからず何処かへと移動する羽目になったのであった。
そうして幾許も立たずにやって来たのは大きな御屋敷の前であり、通称屋敷通りに知り合いの居る筈もないターフェは目を白黒とさせるばかりだ。そんなターフェを武官達は極々当たり前の様に屋敷の中へと案内し、即座去って行ってしまった。
「えええええええええ」
たった数時間の間に何度同じ台詞を吐けばいいのだろう。しかし他に言うべき言葉も見当たらず、ターフェは広いホールで執事と多くの侍女に囲まれ脂汗を流す。
(止めてえ近寄らないでえ)
思えば殆どシャワーも浴びず睡眠も取れずという惨状なのである。あまり他者に近寄って欲しくはない。
「えーとえーと、あの、こちら様はどなた様の御屋敷でしょうか……」
ターフェが恐る恐る言うと、執事と思わしき猫型の獣人がそのアーモンドの様な瞳をぱちくりとさせてから、こほんと咳払いして静かに答えてくれた。
「こちら、ウォーラ家の御屋敷と相成ります」
「ウォーラ邸……ウォーラ邸……」
「……サーザランディグ=ウェバー=ウォーラ公が主人でございます」
「サザのおうち!」
ぽんと閃く様にターフェは手を叩いた。そういえば居たじゃないか、御大層な地位のお知り合いが!
納得したらしいターフェを見、執事は侍女の一人を手招いた。
「レディ・ティティの御世話を」
「畏まりました」
緩やかに頭を垂れるのは兎型の亜人らしい侍女だ。侍女服の裾を摘む指が人間のそれで、顔の両脇から垂れる大きな耳がぷるぷると震え彼女の緊張を伝えてくれる。
「ティティ様、御入浴の準備が出来ておりますのでこちらへどうぞ」
「シャワー? 嬉しい!」
「先触れがありましたので、御用意させて戴いておりました。御出仕のお疲れと火災の煤を綺麗になさって下さい」
「有難うございます!」
先程までの動揺も何のその、ターフェはにこにこと朗らかな顔で兎の侍女の後に付いて行った。その先に待つのが只のシャワーではなく、至れり尽くせりお触りオンパレードな美容接待だと知りもせず。