貴方と御飯
ターフェの日常は、此処最近頓に毛むくじゃらである。
「だからぁ、ウォーラ将軍は本当にいい御仁だから、そんな警戒しないでやってくれる?」
そう言って尻尾振り振り説得らしい事を続けているのは黒豹のお姉様だ。お姉様だとは称したが、実態は将軍補佐官の一人であるので実力は折り紙付き、舐めて掛かれば痛い目に遭うのは想像に難くない。とはいえ短い毛が密集した美しい姿にうっとりして、思わず触れたくなってしまうターフェである。其処はセクハラかとじっと我慢の子であるが。
「貴女に擦れ違えもしないからってすっごく落ち込んじゃって大変なのよ、あたし達」
「あたし達?」
「あたし達」
うん、と真っ黄色な瞳で見つめて来る黒豹はとても正直な類であるらしいが、ぽやっぽやのターフェには無効だ。ぐにぐにと傾くターフェの首をその柔らかい尻尾で固定した彼女は、「まぁ、よかったらアレの相手してやってよ」と溜息を吐くと去り際に噴水状態に括られた髪を撫で――「やっわ! マジ柔!」と騒ぎながら帰って行った。
「ずるいー」
柔らかいのはあの黒豹の毛並みの方に決まっている、尻尾だけでも相当素敵だったのに! 我慢していたら逆にこちらが撫でられてしまって、何だかしてやられた気分になったターフェは風船の様に膨れる。と、そんな彼女の横に、今まで成り行きを遠目で見守っていた上司がそろそろと近寄って来て口を開いた。
「なーにがずるいー、だ。思うなら面と向かって本人に言え」
「だって相手がお偉くて、そんな度胸ありませんよ」
「将軍を避けまくってるとかいうお前の何処に度胸がないっていうんだ……」
上司は大仰に溜息を吐き、背を丸めて席に戻って行った。ぷくうと膨れるターフェの事はまるきり無視して。
こんな感じでターフェの元を様々な獣人武官が訪れる日々が、もう暫く続いている。
*
そもそも、ターフェは動物が好きである。
実家では食用ではあったが家畜を飼っていたし、もふもふした毛皮は大好きだ。だからというのは失礼だけれど、サザの事は嫌いにはなれなかった。物腰も丁寧で人間の様に容易に表情が読めない分、そのいい男っぷりは顕著だと思う。確かに高物件だ、素晴らし過ぎる逸材だ。
ワナのあの余計な一言さえなければ。
『アンタ、いつか将軍にベッドで殺されるから! アッチのサイズが合わなくて!』
思い出すだにターフェは悶絶した。ついでにワナが近くに居れば勿論殴り付けた。
ターフェは実家たる孤児院で経営者である実母の教育方針の元、男も女も関係ない様なごちゃ混ぜの最中に育った。つまり、所詮女だらけの箱入りではないのだが、どうしてか男女の機微には全く疎く育ってしまった。逆を正せばごちゃ混ぜ過ぎて違いがなかった所為とも言えなくもないが、とにもかくにも成人なぞ疾うの昔の事である。ましてや都に上がるのだからその手の事情は否応なしに覚えるだろう、そう他人任せに考えたのは周囲で、勿論期待は裏切られた訳だ。
ターフェはいつまで経っても子供子供していて、男に手を付けられる事も、また逆に秋波を送る事もなく、子供時代と変わりのない日々を送っている。
そんな訳なので、こんな桃色の事態はターフェにとって初めての事であった。故に対処もわからず、只闇雲にそれを避ける事しか思い付かない。
(ああんもう)
ターフェとて別段そちらの事情がわからない訳ではない。一人人種の坩堝たる都に暮らす身で更に基本的には男所帯な王宮文官だ、耳年増になるのはある種避けられなかった。
けれど、他人の身の上と己の身の上に降り掛かるのとでは全く話が違う。『その対象』が己だなどと。しかも種族が違うから益々謎で。
「あああああああもおおおおワナの馬鹿!」
昼休憩にと部署から出て暫く、力強く叫びながら中庭のベンチの上に尻から着地したターフェは、つまり考え事にいっぱいいっぱいで気付かなかったのだ。
ばすん。
「……」
「……」
其処に、彼の将軍がいらっしゃるなどと。
「……すみません、サザ」
「いや、構わない。流石に上から降って来るとは思いもよらなかったが」
それもその筈、ターフェは背の高い植木の影から飛び出るなり横に飛んだのである。横着と言ってしまえばそれまでだが、いつもは誰も居ないのでそれだけでベンチにきちんと着地が出来、悠々と昼食の時間になっていた。それと同じ事をした結果。
「……お、重くありませんか」
「いや……ターフェは軽いな」
うっかりすっかりサザのお膝に抱っこである。
「あの、降りますので……」
「いや……構わないのだが」
「……」
「……」
二進も三進も行かないとはこの事だ。行き詰まったターフェは、とりあえず、全てを投げた。
「じゃあすみません、私お昼を戴いてもいいでしょうか。休憩時間なくなっちゃいますし」
何処の誰が男の膝の上で弁当を広げるというのか、――まぁ此処に居た訳だが。
サザの反応を待たず、ターフェは手持ちの包みを広げてしまうと、中から可愛らしい形のサンドウィッチを取り出して食べ始めてしまった。
「あ、宜しかったらサザもどうぞ!」
ぱっと笑んで、ターフェはサンドウィッチを一つ、サザに手渡す。
彼女は現在、まるで揺り椅子に座る様にサザの身体に隠れてしまっていた。一回りどころか二回りも違う物量の差は勿論手だってそうで、ターフェの手渡したサンドウィッチはまるで可愛らしい玩具の様に見える。けれど目を細くしたサザは、ゆっくりとそれを噛み締めた。
「また胡桃のパンに、南瓜とベーコンのサラダか?」
「当たりです、胡桃のパン大好きなんです! あと山菜も少し入ってますよ」
ちょっと苦いのが美味しいんですよね。ほわほわと微笑むターフェは誰が見ても、全く状況を理解していないと見て取れるだろう。だが、サザは何も言わなかった。それどころか、そのままだらだらと御相伴に与り続けている。
「いつも此処で昼を取っていると聞いた」
べろりと口周りを舐めるサザが言うのに、ターフェはもぐもぐと口の中の物を飲み込んでから頷いた。
「晴れてる日だけですけど。此処、植木とか密集していていいんです。後ろの植木も、花が咲くととても近くって」
「まるでこの前と同じだな」
「あ、リリー有難うございました!」
「あれからなかなか会えなかったが」
途端、ターフェは咀嚼を止めた。思わず半眼であらぬ方向を眺めたが、ぴんと髭を張ったサザが覗き込んで来るのに姿勢を正す。
「時間を見計らったつもりではあるのだが」
「すみません、やんごとない事情がありまして」
頭を振り振りそう告げて、ターフェは大きな溜息と共に咀嚼を再開した。サザには何の事かさっぱりわからなかったが、然しターフェの小さな身体が力を抜いて寄り掛かって来たのがわかったので、何も言わなかったし言えなかった。所詮、惚れた方が弱いのである。
結局食事が終了するまでその甘い苦行を耐え抜いたサザに、ターフェはその大きな膝の上から降りると、目と目を合わせて口を開いた。
「あの、前回も、あと今回も勢いで、よくわからないで渡してしまったんですが、サザは私とあまり食べる物が変わらないんでしょうか」
「まぁ、人間と然して変わりはしないと思うが。多少肉と、全体の量が多いくらいだろう。ターフェから貰った物で嫌いな物も、今のところない」
「そうでしたか」
それを聞いたターフェはにっこりと笑った。食事に加え、こうしてサザを座らせてさえしまえば、丁度視線が合う事にも気付いたからだ。短い毛の密集した瞳は、煎れたてのコーヒーの様に深い色をしていて美しい。
「あの、私、今日は早番で、早番と昼番のお天気のいい時は此処でお昼を取っています。宜しければ御一緒に如何ですか? 捜して戴くのも敢えて時間を合わせるのも失礼かと思いますし」
勿論お昼休憩が会えばですけれど、と続けるターフェにサザはその瞳を見開いて、それから大仰に首を縦に振った。それを社交辞令と思わないのは、サザが偏に虎であるお陰だろう。ターフェの視界には嬉しそうに振られるサザの尻尾も丸見えだ。
「前以てお知らせ戴けましたら嬉しいです」
「ああ、勿論だとも」
嬉しい、ターフェ。感慨深げにそう呟いたサザは、ゆっくりとターフェの手を取った。サンドウィッチ宜しく、サザの手に比べたらターフェの手はまるで玩具と変わりない。
「ふふ。ふかふか」
一歩間違えればこの手は誰かを傷付けてしまう手だと、ターフェはこっそり脳裏で思った。爪も出て人間とはまるで違う。それ以上にサザは軍人だ。
それでも、今はターフェにしたら温かい、大きな手であるだけだった。
「ターフェ」
「はい」
「嬉しい」
「こちらこそ」
にこやかに微笑むターフェに、きっとサザも笑い返してくれていた。
***
とりあえず、その後ターフェはワナを一回だけ蹴飛ばして、それでもう何もしなくなった。いつかどうにかなるのかも知れない事を考えたところでどうしようもなかったし、第一サザはターフェと同じ物を美味しそうに食べてくれる。それだけで充分だったので、ごちゃごちゃ考えるのを止めたのだ。
同じ物を同じ様に美味しく食べる。それに勝る信頼はなかったので。
そうして、ターフェはお昼のお弁当を少し多めに持って来る様になった。勿論、サザに分ける為である。二回りも体格の違うサザの食事を一食分とはいえ面倒見る事など、ターフェの給料ではとてもではないが出来ない。けれど、少しずつ分けて好き嫌いを量る事なら容易に出来る。
「サザはこの茸苦手ですねえ」
「よくわかったな」
わかりますとも、尻尾もお髭も垂れています。とは言わず、ターフェはウインナーをサザに差し出した。
恋人か弁当友達か、よくわからない微妙な関係ながら、それでも二人は今日も並んでもぐもぐとお昼の時間を過ごしている。サザに隠れて、ターフェの姿はさっぱり見えやしないけれど。




