第8話 桃子ちゃんの涙
新百合ヶ丘の駅に着いた。俺は階段を駆け下り、改札を出ると、全速力で走り出した。
桃子ちゃん、今、泣いてる?
大丈夫なのか?!
桃子ちゃんの泣き顔が浮かぶ。そうすると、思い切り桐太が憎く思え、それと同時に後悔や、自責の念が出てくる。
はあ。息切れしながら、チャイムを押すと、ドアが開き、真っ青な桃子ちゃんが顔を出した。
「入っていい?」
「うん」
お母さんが出てこないけど、家で仕事かな?
玄関を上がると、桃子ちゃんはドアを閉めた。鍵をする手が震えている。
「お邪魔します」
とリビングに行くと、桃子ちゃんが、
「誰もいないよ」
と、か細い声で言って来た。
「え?お母さんも?」
「ひまわりとおばあちゃんの家に行ってる」
「そうなんだ」
そうか、誰もいないんだ。
桃子ちゃんを見ると、まだ青ざめていた。
「桃子ちゃんの部屋に行ってもいいかな」
なんだか、リビングで話す気分じゃない。それに、もし桃子ちゃんが泣いたりしたら、誰かが帰ってきたら、心配するだろうし。
部屋に入ると、重い足取りで桃子ちゃんはベッドの前まで行き、深く腰掛けた。それから下を向き、ふうって重いため息をした。
桃子ちゃんの方へ近づくと、微妙に手が震えてるのがわかった。
「大丈夫?」
桃子ちゃんのまん前にしゃがんで、顔を覗き込んだ。
泣いてる?いや、我慢してるって顔だ。
「怖かった?」
「うん」
「大丈夫?」
桃子ちゃんは、いきなりひっくって泣き出した。ああ、やっぱりいっぱいいっぱいだったんだな。
桃子ちゃんをそっと抱きしめて、ごめんって謝った。
「な、なんでごめんなの?ごめんって謝るのは私だよ?」
「なんで?桃子ちゃんは悪くない。俺が、桃子ちゃんを守れなかった」
「それは、しょうがないよ」
「しょうがなくない。こうなることも考えられたのに…。こうなる前に、あいつにもっと、桃子ちゃんには手を出すなって、脅しておけばよかった」
俺は、思い切り自分を心の中でも責めていた。
「そんなことしても、きっとこうなってたよ。ううん。私が桐太君についていかなかったら良かったんだよね…」
ああ、桃子ちゃんは桃子ちゃん自身を責めてるんだ。
ぎゅう。さっきよりも力を入れて、抱きしめた。
桃子ちゃんは俺にしがみつき、ボロボロと泣き出した。肩をふるわせて泣いている。桃子ちゃんの肩は俺の胸にすっぽりと入るくらい、小さくて、俺はそんな桃子ちゃんを感じて、ますます心が痛んだ。
「ごめん」
桃子ちゃんはひっくひっくと、しゃくりあげて泣いている。
「怖かったよね、ごめん」
「うん」
うなづいてから、また桃子ちゃんは泣き出した。
俺はぎゅって力を入れたまま、抱きしめていた。桃子ちゃんが泣き止むまで、ずっと抱きしめていよう。
ああ。でも、こんなに泣くくらい、桃子ちゃん、怖かったんだ。辛い思いをしたんだ。
後悔、自責、憎しみ、申し訳なさ、いろんな思いが交差する。その思いを感じながら、俺は桃子ちゃんを抱きしめていた。
桃子ちゃんは、少しずつ落ち着いていった。泣き声がなくなり、肩の震えも落ち着いた。
ぎゅう。それでも俺は抱きしめていた。桃子ちゃんがめちゃくちゃ、愛しかった。愛しくて、胸が痛くなるくらい。ああ、俺、めっちゃ好きだよ。桃子ちゃんが大事で、たまらないよ。
桃子ちゃんの顔をそっと覗くと、涙が頬に流れたままになっていた。それを手で拭いて、それからキスをした。
そっと、傷つけないよう、桃子ちゃんの唇に触れた。
桃子ちゃんは、俺の胸にまた顔をうずめた。
「落ち着いた?」
と聞くと、小さくうんってうなづいた。
「おさまったね?震え…」
「え?私震えてた?」
「うん。小さく震えてたよ。気づかなかった?顔色も悪かった」
気がついてなかったのかな。自分が震えてたこと。
俺は、桃子ちゃんの隣にそっと座った。
「怒ってないの?」
桃子ちゃんが聞いてきた。
「誰に?」
「私…」
?なんで桃子ちゃんを、怒らなきゃならないんだろうか。
「怒ってないよ。あいつのことは許さないけど」
あ、桐太のことを思い出した。いきなり怒りが湧いてきた。
「だけど、私がもう殴ったから」
桃子ちゃんが俺の怒りを察したのか、そんなことを言った。
「本当に桃子ちゃんが殴ったの?蘭ちゃんじゃなくって?」
「うん」
本当に?
「えっと…。あまり事情が飲み込めてないんだけど、いつ殴ったの?」
「桐太君が、聖君に電話で話してる時」
「あの時?なんか、桐太が電話の向こうで、ぐえってすごい声出したけど、あの時?」
「そう、多分」
「何で?その頃になってもしかして、ふつふつと怒りが湧いてきたとか?」
「だって、桐太君は思い切り、聖君のこと苦しめようとしてたから、許せなくなって。それで、気がついたらバキって音がしてた」
「え?気がついた時にはもう、殴ってた?」
「…。ううん。何かがブチって切れたのは、気づいてたよ」
「そう。桃子ちゃん、切れると強いね…」
あ、切れるとじゃないな。
「人のことになると、強くなっちゃうんだね」
「引いた?」
「え?」
「男の人を殴っちゃったりして…」
「驚いたけど…。でも、ちょっと桃子ちゃん、すげえ!とか、やった!とか、桐太のやつ、ざまあみろ!とか思ってた」
桃子ちゃんは、本当に落ち着いたのか、表情を柔らかくして話し出した。桐太のことだ。
俺が電車に乗って、こっちまで来る間、桐太と話をしたらしい。とっとと、離れろって言ったのにな。
なんでも、桐太は俺のことが好きで、俺が桐太から離れていったことが、傷に残り、トラウマになっているんだと桃子ちゃんは話した。
もう傷つかないよう、誰も大事に思ったり、誰かを好きになったりしないようになったとか。裏切られるのが怖くて、心を閉ざしてしまったようだ。
俺、そんなに最低なことしたかな。どっちかっていえば、桐太のほうが、ひどかったと思うけどな。人の彼女にちょっかいだしたりしたんだから。
桃子ちゃんは、俺に、そんな話をしたあとに、
「それでも桐太君のこと、ぼこぼこにするの?」
と聞いてきた。
「する」
「え?」
「俺の気がおさまらない」
「……」
「桃子ちゃんにキスしたんだよ?ちょっと触れるだけでも、許せないのに!」
ああ、また怒りがこみ上げてくる。
桃子ちゃんにキスをしたんだよな。
俺は桃子ちゃんにまた、そっとキスをした。
ああ、やばい。桃子ちゃんの唇にあいつが触れたのか。めちゃくちゃ、憎らしい。それに悔しい。
「なんか思い切り、悔しくなってきた」
「え?」
「桃子ちゃんの唇にあいつが触れたと思ったら」
「……」
桃子ちゃんが目を伏せた。あ、すごく辛そうな顔をしてる。
「ごめん!嫌なこと思い出させた。ごめんね」
「ううん」
桃子ちゃんは、顔を横に振ったけど、そのままうつむいて、唇をぎゅって手で拭いていた。それも何回も、何回も拭いている。
「桃子ちゃん?」
「やだった」
「え?」
「すごく、やだった」
「……」
「…私、桐太君の顔もひっかいた」
「え?」
「キスされて、なんで私、聖君以外の人に、こんなことされてるんだろうって、頭にきて、ガリって」
「ガリ?」
「爪で目の辺りをひっかいたの。それで、桐太君が痛がってるうちに、走って逃げた」
「……」
「私…、聖君のこと怖いとか、嫌だとか思ったことないけど、初めて男の人が怖いって思った」
あいつ、桃子ちゃんのこと、そんなに怖がらせたのかよ。くそ!
俺が怒りをあからさまに、顔に出していると、桃子ちゃんが困った表情をした。あ、話の途中だよな。
「ごめん、何?」
「あのね」
「うん」
「呆れない?引かない?」
「え?」
何のことかな。
「言ってくれないとなんとも言えないけど、なんか見当もつかなくて、何かな?俺が呆れたり、引いたりすることなの?」
「かもしれない」
「何のことかな?」
桃子ちゃんは話しづらそうにした。いったい、何の話があるんだろうか。