一刃 ~七匹の子ヤギ異聞~
むかしむかし、里から離れた山の奥に、お母さんヤギと七匹の子ヤギが隠れ住むように暮らしていました。家族はみんな仲が良く、貧しいながらも幸せな過ごしていました。
でも子ヤギたちはみんな食べ盛り。お母さんヤギは子供たちのご飯を用意するために、しばしば家を留守にしなければなりませんでした。その日もお母さんは、山菜を採りに山の奥へと分け入らねばなりません。お母さんヤギは子供たちを集め、いつものように言いました。
「いい? 知らないひとが訪ねてきても、決して扉を開けてはなりませんよ? 悪い狼がやってきたら、みんなひと呑みに食べられてしまうのだからね?」
子供たちは小さく体を震わせながらうなずきます。お母さんヤギは微笑んで子供たちを順番に撫でると、玄関に鍵を掛けて出掛けて行きました。
太陽がお空の真上に来る時間になっても、お母さんヤギは帰ってきません。兄弟で仲良く遊んでいた子ヤギたちも、お腹がすいて、寂しくなってきたようです。
「お母さん、帰ってこないね」
「お母さん、まだかなぁ?」
みんな悲しい気持ちになってしょんぼりしているところに、
――コンコン
扉をたたく音が聞こえます。子ヤギたちの顔がパッと明るくなりました。
「お母さんだ!」
一番下の弟が玄関に向かって駆け出します。
「待って!」
一番上のお兄さんが弟を呼び止めました。弟は不満そうに振り返ります。お兄さんはなだめるように弟の頭をなでると、音を立てないように玄関に近付き、のぞき窓越しに訪問者を確認しました。お兄さんの顔色が変わり、
「……狼だ!」
声がわずかに震えます。弟たちもまた、一斉に顔色を失いました。
――コンコン
扉が再び叩かれます。子ヤギたちは泣きそうになって身を寄せ合いました。
「怖いね」
「怖いよ」
弟たちがきゅっと目を瞑ります。お兄さんが弟たちの肩を抱き、
「でも――」
固い決意を宿した瞳で言った。
「我らが真に怖るべきは、お方様のお命のみよ」
ハッと顔を上げ、弟たちは己が運命を見定めたようにうなずく。
「もとより我らは屍よ。惜しむものなど持ち合わせてはおらぬ」
次兄が皆を見渡す。
「お方様に拾われた命じゃ。お方様のために捨てるは道理よ」
三番目の兄が笑う。
「あの鬼めを討つこそ武士の本懐」
「主命を果たすは今ぞ!」
弟たちの顔に矜持と高揚が浮かぶ。長兄は大きくうなずき、
「我らただ一刃となりて狼ばらめを葬る。各々――」
冷たい殺意を宿した瞳で言った。
「――ぬかりなく」
時は戦国、仁義忠孝は廃れ、力のみが世の理となった世界で、すべては移ろい、儚く散り行く。名君は外道の刃に斃れ、悪鬼の嘲笑が風を渡る。名もなき民の血涙が山河を染め、屍が野に無常を知らしめる。とある小国も乱世の習いに呑まれ、滅びを迎えようとしていた。
「我が奥を守り、落ち延びよ」
主君の最期の命は、彼らにとって酷なものであったろう。討ち死にの誉れを捨て、屈辱の生を選べと、主はそう言っているのだ。七人の侍が膝をつき、唇を噛む。厳めしい主君の顔がわずかに柔らかさを帯びた。
「すまぬ。だが、儂の最期の我儘だ。許せ、息子よ」
息子、と呼ばれ、七人は一様に涙を流した。主と彼ら七人に血縁はない。孤児となった彼らを拾い、まるで本当の親子のように慈しみ、育ててくれた。主に、そしてその奥方には何度死んでも返せぬほどの大恩がある。
「ゆけ! 必ず生き延びよ! この無常の世に命を捧げてはならぬのだ!」
主の命を背に受け、主の妻――お方様と共に七人は燃える城を出る。奥歯を噛み締め、刀の柄を強く掴んで。
狼は業を煮やしたように扉を蹴り、手斧を玄関の取っ手に叩きつけた。取っ手は簡単に壊れ、軋んだ音を立てて扉が開く。狼は手斧を放り、じっと耳を澄ませた。家の中は薄暗く、静まり返っている。しかし狼の耳には張り詰めた気配と微かな呼吸音が聞こえた。狼はにやりと口の端を歪ませ、わざと大きな足音を立てて中へと踏み込んだ。
狼はヤギの国を滅ぼした国の大名に雇われた刺客だった。金次第で誰にでも雇われる節操のなさと必ず依頼を完遂する腕の確かさから『悪鬼』と称される凄腕の忍。目的のためには手段を選ばず、士道も矜持も嘲弄する彼の今回の標的は、先日滅びた小国の、死んだ国主の落ち延びた奥方である。乱世にふさわしくない清廉なその国主は、乱世にふさわしく暴虐に飲まれて消えたが、民は彼への尊崇を忘れず、新たな領主に面従腹背を貫いている。もし奥方が乱世に立ち、号令をかければすぐに、民は歓呼をもって出迎え、兵は集い、新たな騒乱の火種となろう。新たな国主はそう言って彼に暗殺を命じたのだ。
――愚かなことだ
狼はくだらなさそうに鼻を鳴らした。新たな国主の懸念は妄想に近い。今さら奥方が声を上げようと、従う者は多くあるまい。乱世において敗者に対する視線は冷たい。民を守る力あってこその支配者なのだ。山奥でひっそりと暮らす女一人、生きていようが死んでいようが世は何も変わらない。それでも、新たな国主は彼女が生きている事実に耐えられない。力で国を奪ったがゆえに、力で国を奪われる恐怖から逃れられないのだ。きっと新たな国主は世に人間がいなくなるまで安心することはあるまい。他者の中に敵を幻視し、勝手に怯えているのだから。
「もっとも、それで惜しげもなく大金を払ってくれるのだから、ありがたいことよな」
狼は喉の奥でクククと嗤う。愚かな権力者はいる限り、仕事がなくなることはない。ギシギシと床を軋ませ、狼はヤギの気配を辿った。
狼が最初に足を踏み入れたのはリビングだった。リビングには大きな戸棚と丸テーブルがある。そして、狼の鼻はテーブルの下に潜むヤギの臭いをすでに捉えていた。
「きぃええぇぇぇい!」
裂帛の気合と共にテーブルの下から影が飛び出し、低い姿勢から真一文字に狼の脛を狙う。狼は飛び上がってそれをかわすと、逆手に忍刀を抜いた。飛び出した影――子ヤギの長兄は逆袈裟に刀を振るう。狼はのけぞってかわす。忍び装束が浅く裂けた。さらに刀を返そうとした長兄を狼の前蹴りが襲う。胸に蹴りを受けた長兄は吹き飛び、テーブルにぶつかった。テーブルが派手な音を立てて倒れる。狼は長兄に飛びかかる。倒れたまま突き出した刀は簡単に避けられ、狼の忍刀が長兄の首を貫いた。狼が侮蔑の笑みを浮かべる――
――バン!
戸棚が激しい音を立てて開き、中から次兄が飛び出して狼に迫る。鞘走る刀が鈍く光り、狼は身体を後ろに倒すことで辛うじてそれをかわした。そのまま後ろに一回転し、狼は体勢を立て直す。次兄は踏み込んで鋭い突きを放った。突きは半身を引いた狼の腹の薄皮を掠め――狼は忍刀を振りかぶって次兄の背に突き立てた。
「残念、無駄死にだ」
次兄の口から血が溢れる。しかしその目は死なず、顔は笑みを形作った。
「いや、そうでもない」
次兄は刀から手を離し、素早く懐から小さな袋を取り出すと。中身を狼の鼻に向かってぶちまける。ガチャンと刀が床を打った。狼は鼻を押さえ、苦しげに咳き込む。
「……貴殿の『嗅覚』、貰い受ける」
次兄はそうつぶやき、ゆっくりと床に斃れた。
鈍く疼く鼻に顔をしかめながら、狼はリビングを出る。しばらくは鼻が利くまい。臭いで敵を探ることができないのは痛手だが、耳も聞こえ、目も見える。任務の遂行に大きな支障はない。
狼は扉を蹴破り、隣の部屋に入った。そこは応接間で、大きな柱時計がカチカチと時を刻んでいる。部屋の中央に机が置かれ、それを左右に囲んでソファがある。狼は不快そうに鼻にシワを寄せた。臭いを感じることができず、敵の潜む場所が絞り切れない。身を低くして慎重に歩みを進める。すると、
――カタ
柱時計から、時を刻むのとは別の音が聞こえた。狼は厭な笑みを浮かべ、足音を殺して柱時計に近付く。カチカチと柱時計が音を立てる。狼は忍刀を構え――
――バスッ
柱時計の中から刃が突き出されて狼を襲う。反射的に忍刀で刃を弾き、狼は怒りに任せて柱時計に忍刀を突き立てる。引き抜いた忍刀は鮮血に濡れていた。狼は柱時計を力任せに開ける。荒く息を吐き、三男が狼をにらんでいた。
「浅知恵だったなぁ。隠れるんなら音を立てちゃダメだぜ?」
三男はうつむき、皮肉げに口の端を歪ませる。
「……ああ、そうだな」
三男はそう言うや否や、手を伸ばして柱時計の振り子を掴むと、思い切り下に引っ張った。ガコン、と何かの外れる音がして、柱時計が狂ったような轟音を放つ。間近でそれを聞いた狼が両耳を押さえて身悶えた。
「……貴殿の『聴覚』、貰い受ける」
そうつぶやき、三男の瞳から光が消えた。
よろめき、頭を押さえながら狼は隣室の扉に手を掛ける。耳は聞こえず、平衡感覚が奪われて足元が覚束ない。苛立たしげにうなり声を上げ、狼は扉を開けた。そこは寝室で、真っ白なシーツが掛かった寝台と、床に伏せられたたらいが目を引く。シーツは不自然に盛り上がっており、たらいは動かした跡が見て取れた。いかにも「そこに隠れているぞ」という擬態――あるいは、そう思わせておいて本当に隠れているか。狼は苦無を取り出し、無造作に寝台へと放った。危険がある可能性を知りながらわざわざ近付いてやる義理はない。
――バサッ
苦無が寝台を貫く寸前、シーツがめくれあがって影が飛び出してくる。同時にたらいが持ち上がってそちらからも鋭い光が走った。左右からの挟撃――だが、いささか距離が遠い。狼は右に踏み出して寝台から来る一撃を強く弾き、返す刀で斬り伏せた。四男の顔に無念が滲む。一瞬遅れて振り下ろされる五男の斬撃をかわそうと身をひねり――狼の足がもつれて身体が傾く。狼が血走った目を見開いた。五男の刃が狼の左の太ももを深く切り裂き床を穿った。狼はそのまま床に倒れる。五男は刀を逆手に持ち替え、狼の心臓を狙う。狼は寝たまま忍刀を突き出し――五男の刀の切っ先が狼に届く寸前、狼の忍刀が五男を貫いた。
「貴様ら如きが、俺を殺せると思うな!」
激しい憎悪を込めた狼の叫びに五男は静かに答える。
「我にできぬことが、我らにはできるのよ」
狼の手が震え、握った柄から滑り落ちる。狼の顔に驚愕が浮かんだ。
「この痺れ……毒か!?」
どこか憐れみを宿した瞳で、五男はつぶやいた。
「……貴殿の『触覚』、貰い受ける」
忍刀に貫かれたまま、五男の身体が後ろに倒れた。
口を使って細く裂いた布を強く引き、狼は忍刀を右手に縛り付ける。握る手に感覚はほとんどなく、何層もの分厚い何かが間に挟まれているようなぼやけた感触だけがあった。壁に背を預け、荒く息を吐く。左ももの止血もままならず、血を失いすぎている。
「クソッ! あんな雑魚どもに、俺が!」
歯をむき出しにして狼が唸る。音の消えた世界で耳鳴りがする。鼻は利かず、世界の輪郭がぼやけて見える。頭の芯がしびれ、浮遊した意識が着地点を失っている。
簡単な仕事のはずだった。落ち延びた女一人とその護衛を始末するだけ。負け犬どもの処理など片手間で充分に可能なはずだったのだ。それがどうだ、標的を見つけるどころか、その護衛どもにこうも追い詰められている。間違いなく状況は不利、撤退が正しい判断だが――
「冗談じゃねぇ!」
こんな仕事をしくじったとなれば、裏の世界での評判は地に落ちる。狼は女一人殺せぬのかと物笑いの種になる。それは狼にとって最も許せぬことだった。昨日まで自分を怖れ媚びてきた者どもが、半笑いでこちらを見る姿を想像するだけで腸が煮えくり返る。狼は壁に手を突き、足を引きずりながら次の部屋へと向かう。赤い足跡が床に形を残した。
次に入った部屋はがらんとして、奥に暖炉があるだけの何もない部屋だった。隠れる場所などありそうにない。つい先ほどまで火がついていたのだろう、暖炉の灰の中にちらちらと残り火が見える。誰もいない――視界から得られる情報を直観が否定する。部屋の中には明確な殺気が満ちていた。
「出てこい! 返り討ちにしてやる!」
狼は虚勢めいた叫びを上げる。同時に灰の中から六男が飛び出し、狼の喉を狙って身体ごとぶつかるような突きを放った。狼は左手で突きを受ける。刀の切っ先が狼の左手の甲を突き抜け、狼の喉のわずか一寸足らずの位置で止まった。
「非力な貴様の突きなぞ、何の意味もねぇんだよ!」
狼は左手を握りこんで固定すると、右手の忍刀を六男に突き刺した。六男が目を見開く。狼は忍刀を捻じって傷口を広げ、勝ち誇ったように笑った。
「この俺を、甘く見るんじゃねぇ」
六男はふと、小さく笑った。
「甘く見てなどおらぬよ」
そして懐から黒い塊を取り出し、握りつぶして狼の目に投げつけた。それは、まだ赤く火の残る炭――六男の胸は焼け爛れ、焦げる臭いが充満している。
「ぎゃあぁぁぁぁーーーーっ!!」
焼けた灰を目に受け、狼が天を仰いで絶叫する。
「……貴殿の『視覚』、貰い受ける」
口から多量の赤を吐き出し、六男は崩れ落ちた。
狼は転がるように部屋を飛び出す。目は見えず、感覚も朧げで、自分が今どこにいるのか分からない。ぶつかることで生じるわずかな痛覚を頼りに壁を伝い、移動する。もう仕事などどうでもいい。一刻も早くここを出なければ。逃げ帰れば物笑いの種だが、ここで死ねばさらなる嘲笑の的として語り継がれることになろう。それだけは避けねばならない。狼の名が『無能』の代名詞となることには耐えられない。
手を振り回し、何かに当たるまで前進する。当たったらそこを起点として周囲を探る。頭の中では、先ほどまで見えていた家の構造を必死に思い出していた。暖炉の部屋から最短で外に逃れる方向はどっちだ? 渇きを覚え、唾を飲み込む。
「どこへ行く」
静かな問いが発する殺気に、狼は動きを止めた。音は聞こえず、しかし刺すような気配が狼を貫く。冷たい汗が背を伝った。
「……どこだ。どこにいやがる!?」
壁に背を預け、狼は闇雲に両手を振り回す。位置も、距離も、何も分からない。ただ、『殺す』という意志だけが明確に伝わる。死の気配がゆっくりと狼に手を伸ばす。
「来るな! 来るなぁ!!」
半狂乱に狼が腕を振る。七男はすらりと刀を抜いた。廊下の窓から入り込む日差しを刃が反射する。もはや意味を為さぬ叫びを上げる狼に向かい、七男は鞘を捨てて刀を水平に構えると、心臓に切っ先を向けて鋭く踏み込んだ。振り回される腕を掻い潜り、刀は狼の胸を貫いた。切っ先が狼の背を抜け、壁を抉る。
灼ける様な痛みと共に、狼の顎にわずかに何かが当たる感触があった。それは本能的に狼の舌を刺激する。混濁した瞳で、反射のように口を開け、狼は何かも分からぬままにそれに噛みつく。狼の胸を貫いた、七男の首に。何かが砕ける音がして、狼の口に血の味が広がる。狼は満足げに笑い、その目から光が消えた。
穏やかな午後の日差しが降り注いでいる。昨日までと何も変わらない、穏やかな日――それなのに今日は、一人の女の嗚咽が響いている。
「なぜじゃ! なぜ、こんな――!」
七男の亡骸を抱き、母はうずくまって泣いている。七男の顔は微笑みの形をしていた。為すべきを為した、その満ち足りた表情は彼の悔いのない生を語っていた。
「お主らを失うて、私だけが生きて、何の意味があろうか――!」
母の涙は止める術なく、嗚咽は長く続いた。
七つの墓の前に、一人の女が立っている。その後ろには戦装束の武士の一団が並んでいた。侍大将と思しき男が女の背に声を掛ける。
「お迎えに上がりました」
女は反応を返さない。侍大将は言葉を続ける。
「我ら、皆この暴虐の世を憂う者にござる。そして、お方様こそこの光なき世の日輪となるにふさわしい。どうぞ我らと共にあれ。乱世を平らげ民に安寧をもたらすこそ、お方様の天命にございます」
女は振り返り、静かな怒りを湛えた瞳で侍大将を見据える。
「私に天命があるかは分からぬ。されど私は、子らが幸せに暮らせぬこの乱世を憎む」
女は一歩踏み出し、侍たちに向かって声を張った。
「ゆえに、私は立ちましょう。私を生かした子らの献身のために。私から子らを奪った無常を砕かんがために」
侍たちは一斉に膝をつく。
「我ら一同、身命を賭してお方様にお仕えする所存! 手足のようにお使いあれ! 望む未来を築くために!」
侍大将の言葉にうなずき、女は侍たちの間を割るように歩き始める。侍たちは彼女の後に続く。女の目には強い炎があった。この世の無常を焼き尽くす、意志の炎が。一度乱世に敗れ、隠棲の安寧に沈もうとしていた日輪が、今、再び天に昇ろうとしていた。




