第3章 氷の会議室 ― 二つの理想 ―
同じ“信頼”という言葉でも、
その形は、人によって違う。
ブルームトラベル本社、特別会議室。
壁一面のガラス窓の向こうでは、
午前の陽光が街をまぶしく照らしていた。
だが室内の空気は、陽光とは裏腹に冷たい。
青葉澪がテーブルの中央に座り、
その隣には成田理沙が資料を抱えて立っていた。
向かい側には、アークシステムズの三人――
如月柊、凪陽翔、そして環。
「はじめまして、アークシステムズの如月です。」
柊が穏やかな声で頭を下げる。
凪も軽く会釈し、環は緊張した面持ちで席に着いた。
澪は短くうなずき、すぐに資料に視線を落とした。
「あなた方の再設計案、拝見しました。
……“柔軟性”という言葉が何度も出てきますね。」
「ええ。」
柊は微笑んだまま答える。
「完璧さよりも、人が使う現場で動けるシステムを目指しています。」
「現場? そんな曖昧な言葉で説明されても困るわ。」
澪の声は硬質だった。
「私たちは“信頼”を売っている会社です。
曖昧な設計では、顧客の信用を守れません。」
「たしかに。」
柊は静かに頷いた。
「でも、想定外のことが起きたとき、
“完璧な仕組み”は逆に人を追い詰めることがあります。」
「……どういう意味かしら?」
凪がすっと前に出た。
「人は間違えます。だから、間違いに気づける道を作る。
僕らの“柔軟性”は、失敗を許す仕組みです。」
澪の眉がわずかに動く。
「失敗を“許す”? そんな理想論で企業は動かないわ。」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
環は息をのむ。
心臓の鼓動が、やけに大きく響いていた。
柊が静かに口を開く。
「青葉さん。
完璧を求めるのは美しいことです。
でも、人が作る以上、そこには“感情”があります。
だから、私たちは“完全に守る”より、“立ち直れる”設計を選びます。」
「……立ち直れる?」
「はい。壊れない仕組みよりも、壊れても再生できる仕組み。
それが、アークシステムズの考える“信頼”です。」
澪は何も言わず、資料を閉じた。
ヒールの音が、静まり返った室内に響く。
「……面白い発想ね。」
短く言って、ガラスの外を見つめる。
「けれど、理想は現実を守ってはくれないわ。」
そう言い残して、会議室を出ていった。
静寂。
誰も言葉を発せなかった。
凪が小さく息を吐く。
「氷の人、ですね……」
柊は苦笑しながら首を振った。
「いや、あの人は氷じゃない。……自分を凍らせてるだけだ。」
環は膝の上で手を握りしめながら、
澪の残り香を感じていた。
カルバンクライン〈エタニティ〉。
冷たいのに、どこか切ない香り。
――この人も、きっと誰かを守るために、
完璧でいようとしている。
◇◇◇
会議が終わると、
環は立ち上がったまま動けなかった。
背中の奥に、まだ青葉澪の声が残っている。
「感情で動く者に、システムは守れない。」
それは、ずっと昔――母・ゆりの叱責と同じ響きをしていた。
息が詰まり、指先が冷たくなる。
「環。」
低くやさしい声。
柊が近づき、そっと肩に手を置いた。
その掌の温度が、氷のような震えをゆっくり溶かしていく。
「大丈夫だ。もう終わった。」
環はかすかに頷く。
「……はい。少しだけ、昔を思い出してしまって。」
柊は何も言わず、静かに環の肩を抱き寄せた。
凪が少し離れた場所で、気をつかうように言う。
「今日の会議、ほんと緊張しましたね……あの人、怖いです。」
柊が小さく笑う。
「そうだな。でも、怖い人ほど、心の奥に何か抱えてる。」
環はまだ震える手を胸の前で合わせ、
青葉の残り香――〈エタニティ〉を思い出していた。
冷たいのに、どこか哀しい香り。
その香りの向こうに、青葉の孤独が見える気がした。
氷のように冷たい理想と、
人の温度を信じる理想。
交わらないはずの二つが、
すでに同じ場所を見つめていた。




