異世界待ちのクズ
朝でも夜でも、彼の世界は四畳半の蛍光灯の下で同じ顔をしていた。窓の外の音は他人事。郵便物は親が折り畳んで部屋の隅に置き、冷蔵庫の賞味期限はいつのまにか親の手で更新されていた。彼は「クズ」と呼ばれるのが嫌いではなかった。むしろ、それが便利だった。責任から解放されるためのラベル。誰かに何かを求められるより、求められない方が楽だった。
布団の山の上、スマートフォンの画面には毎日のように「転生」「スローライフ」「異世界で無双」――そんな見出しが並ぶ。彼は笑う。笑いながらページをむさぼり、同時にその世界を本気で欲していた。矛盾は細い糸で両手を縛る—嘲りと渇望が同居するのを、彼は冷静に眺めていた。
「転生なんて幻想だ」と彼はしばしば吐き捨てるように言った。掲示板でもリアルでも、異世界を待つ若者たちを嘲るのがささやかな娯楽だった。だが夜になると、自分の胸の奥に小さな穴があるように感じた。その穴に光が入れば、すべてが許されると本気で思っていた。光とは、異世界でも神でも運命でもいい。ただ、今の自分から逃げられるなら何でも良かった。
日々は変わらない風景の反復だけで、彼はそこに熟成していった。メールは未読のまま、親の小言は流れる水のように受け流し、食事は皿の上の流木のように寄せられる。たまに外に出るとしたら、ゴミ捨てで息を吸いに行くくらい。外の世界は彼にとって既知の敵で、内側は言い訳の巣だった。
ある晩、彼は自分が好きだった作品の最終話を読み返していた。そこでは主人公が死ぬ間際に光に包まれ、希望の扉が開く。彼はページを閉じ、真っ暗な天井を見上げた。「ああ、俺も死ぬときには……」と呟く。誰かに許されたいわけではない。ただ、何かが変わる瞬間を見たい。それが他人の創作にすら与えられるのに、自分には与えられないことが許せなかった。
親は彼を叱るより先にため息をついた。父は仕事の合間にため息を吐き、母は夕食の支度をしながらため息を小さく切った。ため息は彼らの主張でもなく、抗議でもなく、ただ時間に溶ける音だった。彼はその音をBGMに、自分の怠慢を正当化する言葉を磨いていった。
ある夕方、母が言った。「あんた、そろそろ本気で考えた方がいいよ」
彼は笑った。笑いの中に尖った無関心を混ぜて。「考えるって何を?仕事?結婚?子供?」彼は茶化す。母は言葉を濁した。会話は終わった。二人の間に存在するものは理解でも同情でもなく、ただ時間の消費だった。
最後の一週間、彼はいつもよりも創作小説を読み漁った。転生モノ、チート、善人が褒美を得る話。どれも同じ結末を約束しているように見えた。「死ぬことで報われる」という幻想。彼はそれを現実だと信じたいわけではなかった。だが、信じたい欲望は枯れた井戸の底で水を探す泥だ。
当日の朝、彼はいつも通りにベッドの中で時間を溶かしていた。光は薄く、外からは隣人のテレビの音だけが漏れている。彼はスマートフォンを握りしめ、最後のメッセージを作り始めた。誰に向けるでもなく、ただ画面に文字を打った。
「もし、あったら——異世界へ」
それだけを残して、画面を閉じた。手は震えてはいなかった。どこか清々しさが混ざっていた。「願って死ぬ」という所作は、彼にとって最後の意志表示だった。現実に対する吐き捨て。
親が部屋に入ったとき、そこにあったのは動かなくなった彼と、枕元に開かれたスマートフォンだけだった。画面には彼の最後の言葉が映っていた。親は声を上げることはなかった。叫びではなく、ただその場で座り込み、時間と立ち尽くす。救急車が来て、外の世界は慌ただしく動いたが、その動きは彼を元に戻すことはなかった。
ニュースにもならない些細な事件だ。母は後になって、近所の誰かが口にした「まるで異世界小説みたいな終わり方だね」という無神経な冗談に殴られたように感じた。冗談は、亡くなった人間の尊厳を踏みにじる刃だった。彼の願いが文字通り何かを変えることはなかった。部屋には片付けられていない皿、本の山、スマートフォンの光だけが残り、やがてそれも消えた。
彼が最後に求めていたのは救済ではなく、変化の可能性だった。だが変化は訪れず、訪れる代わりに彼が消えた。願いは画面の中で虚しく瞬くだけで、現実はいつもの冷たさを保った。異世界転生の幻想を嘲った彼は、自分自身を最後までその幻想に縋らせたまま終わったのだ。
異世界転生は起きない。願いは叶わず、救いは訪れない。夢や幻想に縋ろうとする気持ちは理解できる。だが、現実はそんなものに合わせてくれない。残るのは、変わらない日常の重さと、淡々とした時間の流れ、そして、消えなかった渇望だけだ。人々はそれでも日々を生き、後片付けをし、顔色を変えずに歩き続ける。幻想はそこに混ざることなく、ただ静かに虚ろな光を落とすだけだ。どこにも転生はなく、奇跡もない。あるのは、繰り返される現実と、それを受け止める強さや弱さ。
僕はそれが好きでたまらない。




