こうかんこ
夏休みの間、啓太は近所を探検して過ごしていた。
家に居ると「宿題は終わらせたの」と顔を見る度に訊かれるからだ。
宿題は少しずつ終わらせている。その速度が母の想定とは違うだけだ。実際、残すは漢字のドリルと自由研究だけだった。
この暑さで外に出てもさほど咎められないのは、自由研究のお陰だった。
『裏山の生態系について』
そう銘打った自由研究を進める為、啓太は暑い中今日も裏山に入る。
裏山とは呼んでいるが、啓太が歩き回るのは本格的に山路となる前までの、言わば雑木林の範囲だけだった。幼い頃から遊び慣れた場所だった。
啓太は今、雑木林の中に突然現れた池に夢中だった。
最初にその池を見た時、あれ、と思った。雑木林の中でもあまり訪れる場所ではないとはいえ、一度は通るなり見掛けるなりした場所に、なかった筈の池が出来ていたからである。
池とは、どうしようもなく魅力的なものである。
啓太は近くに落ちていた手頃な枝を拾うと、池の中に突っ込んだ。
水は濁り、底は見えない。池というよりは、水溜まりに近いだろうか。
枝を持ち上げると、枯れ葉が絡みついていた。
暫く池の中を枝で掻きまわしていると、向こう側で何かが跳ねた。
「魚いんじゃん」
啓太はぐるりと池を回り込むと、再び枝を突っ込もうとした。その間にも何かが跳ねる。
枝を向けた先で、池の中から白い手が伸び出てくると、跳ねていた何かを掴み取り、池の中に消えた。
「え……?」
啓太は自身の目を疑った。
池の中から伸び出た手。いや、そんなもの、伸び出る筈はない。
じっと動けずにいる啓太の前で、池から白い手がぬるりと伸び上がった。ゆっくりとした動作でおいでおいでと啓太を手招く。
うわぁ、と声を上げた啓太は、その場に尻もちをついた。
──怪物だ!
しかし白い手は手招くのを止めると、出て来た時と同じようにぬるりと池に沈んで見えなくなった。
啓太は、恐怖に乱れていた息を整えると、痺れたような感覚の足に力を入れて立ち上がった。
その時だった。
「こうかんこ」
ふいに声が聞こえた。
辺りを見回しても誰も居ない。
「こうかんこ」
声は、池の中から聞こえていた。
啓太は恐る恐る枝を池に差し込んだ。するすると枝は沈み、ある程度入った所で強い力で引き込まれた。
後退った啓太の前に、コロンと光る何かが転がり出た。
見たこともない透明に光る小さな石。
「こうかんこ」
声が言う。
──交換こ?
啓太は手元に落ちていた何の変哲もない石を拾い、池に投げ込んだ。
しかし、今度は石がそのまま戻ってきた。
──光る石と交換こなんだから、ただの石は駄目なのか。
地面に置いていたリュックサックから、おにぎりを取り出すと、半分だけ池に投げ込んだ。
ぼちゃり、とおにぎりが沈むと、すぐに光る石が返って来る。それは、最初のものよりも沢山の色に光る石だった。持ち上げてみると、木々の隙間から漏れた光を受けて、青や緑、黄色に色を変える。
「こうかんこ」
声が言う。
啓太はリュックサックを漁り、何か交換出来そうなものを探した。自由研究の為に出て来ているので、メモが出来るようにノートと鉛筆を持っている。
鉛筆を手のひらの上に置き、じっくりと眺めた。
それは、今クラスで流行っているキャラクターが印刷された鉛筆だった。必死にねだって買って貰ったものだった。多少書き心地が悪くても気に入っている。
もう片方の手に光る石を乗せて、交互に眺めた啓太は、鉛筆を池に投げ込んだ。
シャッという軽い音を立てて鉛筆は沈む。
一瞬だけ惜しさが湧き起こったが、返って来た光る石を見た途端、その想いはすっかり消え去ってしまった。
まるで星が宿ったかのようにキラキラと光る石に、啓太は夢中になった。
それ以来、啓太は時間を見つけては池を訪れている。
「こうかんこ」
と言われ、池に物を投げ込むと、石が返って来る。大抵はただ透明に光る石が返って来るだけだったが、たまに宝石とでも言い表せるような石が返って来るので、啓太は家に居る間は何か投げ込めそうなものはないか、と探し回っていた。
遊び飽きたおもちゃや、クラスで流行っていた小物などを投げ込んでいく。
少しずつ物が減っていく部屋に、母は流石に気が付きそれを問い質したが、「あげた」「失くした」「捨てた」「交換した」と言ううちに触れなくなった。最初こそ虐めを疑って色々と調べていたようだが、啓太にその様子がないと判ると、様子を見守るだけとしたようだった。
物が減っていく啓太の部屋は、菓子の缶に入れた光る石だけは増えていった。
光る具合だけでなく、大きさも様々なその石は、ついに二箱目を必要とするようになっていた。
啓太はこの光る石が心底気に入っていたが、何よりも友人からの羨望の眼差しが堪らなく甘美に感じられた。
運動も勉強もそこそこ出来る啓太だが、それでも飛び抜けて秀でている訳ではない。何かに選出されたり、表彰されたりということはなかった。流行りの鉛筆だって、流行ってから買ったせいで、そこまで話題にならなかった。
だが、光る石だけは違った。
いつでも好きな時に眺めていたくて、石を持ち歩くようになっていた啓太は、友人三人とプールに行った際に、防水袋に入れて持ち歩いていた。取り出して眺めていた所を、「なにしてんの」と篤弥が覗き込んだのである。
「すげー。何それ? 何処で買ったの」
篤弥の家は金持ちで、大抵のものならすぐに買って貰える家庭だった。
「買ってないよ。交換したの」
「へー。誰と?」
その問いに、啓太は答えを持ち合わせていなかった。黙り込んだ啓太を、隠し立てするつもりなのだと思い込んだ篤弥の瞳が悔しそうに細められた。
啓太にはそれだけで十分だった。
その後、啓太の持つ石とよく似た作り物の石を篤弥は持って来たが、どうでも良かった。実際に篤弥の持つ石の方が作り物とはいえ価値があるのだろう。それでも、啓太にとって交換こした石の方がずっと価値があった。
足繁く池へと通っていた啓太だが、ついに池に投げ込めるものがなくなってしまった。
流石に考えも無しにあれこれと投げ込んでは、普段の生活に支障が出る。投げ込む為に物をねだる訳にもいかないし、もう要らないと思って投げ込んだ木箱は使う予定があったようで、こっぴどく叱られた。
「こうかんこ」
池に着いた啓太に、声が言った。
啓太は暫くじっと池を見つめ、息を吐いた。
石はもっと欲しい。しかし、投げ込めるものはない。
「こうかんこ」
「もう無いよ」
啓太が言うと、池の水がぶくりと泡立った。ほんの少しだけ白い手の指先が覗く。それは、すぅっと池を移動してくると、池の端に立つ啓太の足首を掴んだ。
ぐい、と強い力で引かれ、尻もちをつく。
「こうかんこ」
「ち、違う! 僕は交換しない!」
白い手が、啓太を池に引きずり込もうと強く引く。
バタバタと暴れる内、啓太の右足から靴と靴下が一緒になって脱げた。ぽちゃりという音がして池に消えると、すぐに光る石が池から転がり出てきた。
それは実に魅力的な石だった。今までに見たことのない程煌めきを湛えた石だった。
しかし、啓太はすぐに池に背を向け駆け出した。
片足だけ裸足のせいで走り辛い。剥き出しの足裏に枝や小石が当たって痛い。それでも立ち止まらずに家に向かって走った。
家に帰り着くと、靴を失くしたこと、思いのほか深い傷を負っていたことに、酷く叱られた。だが、啓太にはそれ以上に池での出来事が恐怖でならなかった。
事情を話す訳にもいかない。何と話せばいい?
残りの夏休みを家で過ごすことになった啓太は、早々に宿題を終わらせると、ゲームをしたり、本を読んだりして過ごした。石の入った箱は開けられなかった。池での出来事を鮮明に思い出してしまいそうだからだ。
そんな時、篤弥が居なくなったということを知った。
母の許に行方を尋ねる電話が掛かって来たのだ。
母は、啓太が怪我をしてずっと家に居ること。その間篤弥が訪ねて来たことは一度もないことを伝えた。
「篤弥君、今日の朝に遊んでくるって家を出たきり帰って来てないんだって。心配だね」
啓太は突然のことに何も言えなかった。しかし、うっすらと嫌な予感が頭の片隅にあるのを感じていた。
篤弥は光る石を羨ましがっていた。
もし、篤弥があの池のことを何らかの方法で知ったとしたら?
池から伸び出る手の白さと、その感触を思い出し、啓太は身震いした。
色々と考えても、池の許まで行く訳にはいかなかった。足の傷は雑木林を歩くには辛かったし、再び池を訪れることが躊躇われた。
そうして悩んでいる内に夏風邪を引いた啓太は、暫く寝込んでしまった。
篤弥は一向に見つからなかった。手掛かりも一切なく、電柱や掲示板に篤弥の行方を尋ねる紙が貼られ、それは日に日に白茶けていく。
新学期が始まっても篤弥は戻らなかった。
篤弥のことは話題に上がったが、その内誰も篤弥のことを話さなくなった。
居なくなってしまった。
そして、恐らく、啓太だけがその原因を知っている。
啓太は、少しばかり風に涼しさが混じり始めた頃、意を決して裏山へと入った。
裏山は、散々大人達や警察が調べていた。
それでも篤弥は見つからなかった。
だから、居る筈がない。
そう思いながらも、啓太は不吉な予感を抱えたまま池まで向かった。
あれ、と思った。
暫く通っていなかったとはいえ、池までの道順は覚えている。目印にしていた木や岩は変わらずあった。それなのに、肝心の池がすっかりなくなっていた。
池があったような名残はある。しかし、そこに池はなかった。
何処かホッとしたように息を吐いた啓太は、視界の端にキラリとした光を捉えた。
光る石だ。
啓太が放っていった石ではない。もっと立派な、拳くらいの大きさで、キラキラと輝く石。それが枯れ葉に埋もるようにして転がっている。
それを拾い上げた啓太は、思わずうっとりと息を吐いた。
素晴らしく、魅力的な石だった。それを手にしたまま踵を返そうとした啓太は、池のあった辺りの真ん中に、何かが埋まっているのに気が付いた。
池があったせいか、歩み寄ると水を含んだ土がぐにゃりと沈む。
黒っぽいそれを土から引き揚げようとした啓太は、すぐに手を離した。
それは、スニーカーだった。篤弥が自慢していた黒くて格好いい高級なスニーカー。
啓太も内心羨ましいと思っていたスニーカー。
──じゃあ、これは、この石は……。
急に体の中を冷たいものが走った啓太は、その場に光る石を放って駆け出した。
──来なければよかった。
知ってしまった所で、どう伝えればいい? 何と言えばいい?
それよりも、篤弥は何処へ行ってしまったのか。それは判らない。
残されたのはスニーカーと光る石だけ。
光る、石だけ。
「こうかんこ」
耳の奥で、声が蘇る。