6.丘、あるいは夫の隣
「もし。わたしに名前をつけてくださる?」
夏の盛り、ある日現れた少女はそう言った。光を浴びて輝く髪や肌と、胸元の深緑色をしたガラスが印象に残った。
僕がその場で咄嗟にテレジアと名付けた彼女は、森の中の廃墟になっていた家を少しずつ手直しして一人で暮らしているそうであった。15歳だという話以外の素性はわからなかったが、こんな田舎では民が魔物に対抗する強力な術はなく、近辺の村々同様魔物による孤児も故郷を追われた流浪の民も多い。特に気にすることもなかった。
美しい彼女のもつ静謐さに惹かれ、僕は彼女に恋をした。森まで毎日通いつめて力仕事を手伝ったり小さな魔物を追い払ったり、反対に文字や歌を教えてもらったりして交流を深めた。数年たったころ彼女は僕の気持ちに応えてくれて、それからは夫婦として過ごした。
娘と息子という二人の子宝にも恵まれた。彼女は基本的な勉学や礼儀作法にも詳しく、優秀に育った子どもたちはいい就職先を見つけて立派に巣立っていった。つらいこともたくさんあったけれど、自由で尊い日々だった。その後、僕たちは穏やかな老後すら手に入れた。
僕がつけた名前を呼ばれるたび、彼女は花がほころぶような笑顔を見せた。一方で、あったはずの本名は誰に対しても名乗らなかった。聞いてみたこともあるが、曖昧な笑みで「隠してないわ。無いだけよ」とはぐらかされた。
それがついこの前、最後の一日は違った。
病床に伏した妻は、激しい咳の合間、息も絶え絶えといった様子で僕の手を握っていた。それを、と瞳で示された小さな箱を取って開ける。中には最初の日につけていたガラスのブローチが入っている。
「紛い物だったの。わたしは、これと……同じ、偽物」
げほ、と大きく咳を吐き出す妻。「無理をしないで」と痩せた肩を撫でたが、彼女は首を横に振った。彼女はそっと箱から手にしたブローチを指で撫で、微笑みながら心を決めた唇をまた開く。
「わたしの名前はナターシャ・ドイクロフだったわ」
その声に、一切の疑いもなかった。
「ナターシャ・ドイクロフの人生を一度生きたの。最初は、王の一人娘として暮らしていた。でもある日……もう一人王女が現れて、同じ名を名乗った。すべてが奪われ……いえ、元からわたしのものなんてなかった」
木の香りで満ちる部屋に彼女の告白が染みていく。重ねて握る手に力が入る。
「彼女を害したと……身に覚えのない罪で牢に入って、王族を騙る偽物として処刑されたわ。すり替えか、不思議な奇跡か、……何にせよわたしは王の本当の娘じゃなかった、みたい」
外を鳥が飛んでいる。ちち、と鳴く声がはっきり届いて、僕は妻の声は今そんなに静かなのかと思った。
「……次に目覚めたわたしはまた、ナターシャだった。今回の……二度目のわたしは、そんなに欲しいなら今度は先に返してあげようって、本物のナターシャを探した。見つけたから……処刑は嫌だから、逃げ出した」
窓を見ているようでどこか遠くに向けられていた視線が、ふと僕に戻ってきた。初めて耳にしたことで、これを話す気になった彼女の残りの時間を思う。目じりのしわさえ未だいとしく、知らず知らずのうちに僕は涙をこぼしていた。
「小鳥のように自由に、なって……そうしてこの地で、あなたに出会った」
洟をすすって固まる僕をよそに、彼女は……ナターシャは「愛してるわ」とつぶやいて、握る手から力を抜いた。僕も「愛してる」と返す。
「あなたの前の、……わたしは……ずうっと、本物だった……」
ほう、と吐かれた息を最後に妻は二度と胸を膨らませることはなく、穏やかな春の陽光に照らされて旅立った。
墓石の名前に迷ったが、僕は職人にテレジアと彫ることを頼んだ。
彼女はここにいた。
遠くの山々がよく見える丘で、王宮など遥か遠く見えぬ丘で妻が眠っている。そこで、僕もいずれ眠りにつけたなら。そのときはナターシャのことについてたくさん聞こうと思う。この歳でまだ楽しみがあるのは君のおかげだよと、今日も花を供えている。
以上で完結です。読んでいただきありがとうございます。感想や評価などいただけると励みになります。
わかりにくいと思いますので、そのうち活動報告かどこかに補足(蛇足)を置いておきます。