5.王宮
「本来ならあなたがナターシャとして愛されるはずだった」
保護者としてそばに戻された元侍女が囁く言葉をぺネロペは真に受けた。機密については他言無用の契約をさせられたため、ぺネロペ自身詳しい出自を聞くことはなかったが、そこで彼女は女が自らに向けた憐憫の芯を見た。
するとやはり物心ついてこのかた甘んじてきた村の暮らしが悔しく思え、彼女は姫として扱われることを望んだ。自分以外の王女はもういないし、どこの誰だか知らないがその子だってあたしが本当のナターシャだと認めている。早く返してほしい、とすら考えた。
「あたしが、ナターシャなのに」
彼女の口癖だった。
しかし不思議と、主張すればするほど人々が自分に壁を作るような感覚があった。王宮でナターシャとされた人物が何を話し、皆がどれほどそれを耳にしていたかを、彼女は知る由もない。
王を含む大臣たちの協議の末、ペネロペ・ソージュは晴れて一国の王女となった。それも彼女の主張どおり”ナターシャ”の私物も予算もそっくり手に入れる形だった。ペネロペは喜び、諸手を挙げてその立場を受け入れた。正式な書類がかわされる場でも彼女は目を爛々と輝かせ、明日からのドレスや靴、菓子のことばかりに思いをはせていた。
しかし名前と立場を変えた彼女に翌日用意されたのは大量の書籍と、書類の山だった。
「”ナターシャ”様には、政務にご復帰いただきますゆえ」
目を丸くするペネロペ──ナターシャに側近の男はそう言い放った。
吸い込んだのは紙のにおいで、彼女の頭を冷ややかに鎮めた。理解した王女は震える瞼を幾度かおろし、周囲に視線を配る。そこで初めて、自らが選んだものの重さが肩にのしかかった。
彼女に下されたのは、ナターシャとして生きることを認めるという許可にすぎなかった。つまり、それまでのナターシャと同じ振る舞いや同じ能力を求められるということ。品格を保つ以上の贅沢を好まず、来る日も来る日も政務に没頭し、貴族たちの相手をするも丸め込まれることは決してなく、たまに民に姿を見せるときには花が咲くように笑う、賢くて朗らかな姫でいることを求められるということだった。
王は愛した后の覚悟を無下にする真似ができず、かといって二人を王女として抱えようと踏み切ることもできなかった。忠実な臣下たちも王家に問題があると公表することを嫌がった。双子などいない。王女はナターシャ・ドイクロフただひとりだ、としたのである。
彼女も最初のうちは得たもののために努力を試みた。
けれども、置かれた環境は良いとは言えなかった。毎日知らぬことできぬことを責められ、立場を説かれ義務を説かれ、些細なしぐさに至るまできつく細めた目で指摘されていく。
叔母としてそばにいたはずの侍女も口を封じるために捕らえられてしまう。懇願の末処刑は免れたものの、禁固のさなかだった。それすらも4つのころの”ナターシャ”の訴えを重ねて許されたことである。
次第に気が狂いそう、おかしくなる、と嘆く日が増えていった。
新しいドレスと煌びやかなアクセサリーは、息ができないほど重かった。流行の菓子も味がまったくしなかった。一時期どのような視線を向けられても欲しがったものたちであったが、現れた王女の心を慰めることは難しかった。
「わたしは、ナターシャじゃないの!」
しばらく経ち、彼女はがなりたてるようになった。「もう一人に、ナターシャに返してあげるから」とうわごとのごとく時折漏らすように。それ以降、外部の出自を疑う者はいなくなった。──どういうわけか王女殿下は、自分はナターシャ・ドイクロフではないという妄想の世界で生きている。王宮の使用人たちはずっと昔から、口々にそう取り沙汰していたのだから。
姫が帰ってきた。
王国の城下では続きの報せが撒かれ、民たちは愛する王女の帰還を祝った。