2.視察先
4つになるころ、彼女は起き抜けに夢の内容をぽろぽろと話すことがあった。体を起こしてからはっきりと動き出すまでの微睡みのなか変に確信を持った声を、朝の支度をする侍女らがしばしば耳にしていた。
「もう1人いるのよ。そっちが本当のナターシャ」
「あの子を傷つけたって、そんなこと。わたし、しなかった」
もう1人いる。自分はナターシャ・ドイクロフではない。全てあの子のものだった。言いがかりで奪われた、いや最初から何一つ自分のものではなかった。そのようなことを繰り返しつぶやいていた。
この時期には幼い姫の言動については知られており、またあのお話をと誰もあまり真面目にはとりあっていなかった。そうでなくとも姫本人以外が口にすれば舌が切られるほどの不敬である。否定することも同意することも彼らにとって軽い気持ちでするものではなかった。
「もう、お父様に返そう……ナターシャにも、返さなくちゃ」
しかし乳母を皮切りに使用人が1人、また1人と入れ替わり、ナターシャがたどたどしい王国語で父に誰も疑わぬよう訴えてからはそのようなことも減っていった。
以降ナターシャは真摯に様々な勉学に打ち込んだ。何人かによるとその姿には鬼気迫る雰囲気すらあったという。飼っていた小鳥が死んだ日も、熱を出して倒れた日も、乗馬の練習の影響で全身が痛む日も、誰の強制もなく欠かさず机に向かっていた。根を詰めすぎだと諌めた教師にも「このくらい平気。わたしは優秀な子になるの」と笑顔を見せた。一度本格的に体調を崩しベッドを離れられなくなった際に、汗だくで毎夜うなされながらも「偽物でも、本物が来ても、処刑されたくない!」と起き上がろうとした、という話もある。
それより後、ナターシャはめきめきと才能を伸ばしていき、同時に表に出す人柄も明るく人好きのするものになっていった。
10を目前にして、ナターシャは国内の様々な場所へ視察に出ていた。税を見直すにあたって河川や森林について直接調査したいと自ら進んで始めたことだった。
幼くも賢く朗らかな姫はどこへ行ってもどんな者たちからも歓待を受けた。土地土地の権力者たちだけでなく率先して民とも交流をしていた彼女であったが、そのころにはよく「ここにもいなかった」と口にしていたそうだった。
視察に向かった先で見かけた安価なガラス細工のブローチを買い求め、以後大事にしていたという話もあった。
彼女が身に着けるのは常に最高級品であったが、ドレスや宝石や靴は最低限の品格を保つ以外に欲しがることはなく、贅沢をしたがらなかった。持っていても意味がないものだからと時折こぼしていたそうだ。それどころか、帰りの馬車で安っぽい輝きのブローチを見て「殿下にふさわしくない紛い物でございます」と眉を下げた侍女に「なればこそ、わたしに相応しいわ」と笑って返したという。
「ここも違う」「ここにもいない」と繰り返しながら、彼女はその後5年飛び回り続けた。しかしながら公務ともいえるその仕事をナターシャはあるとき、ぴたっとやめたのである。「見つけた」と、ひどく悲し気にこぼした次の月だった。ナターシャが成人を控えた、15歳の春である。