1.王宮
姫が消えた。
王国の城下ではそんな噂が瞬く間に広がった。
主を失った王女の私室から丁寧に封蝋の捺された手紙が一通発見された。
宛名は国王の名、ヴィルヘルム・ドイクロフ。
憔悴した彼は、姫の侍女に恭しく差し出されたそれを慌てて手に取り封を切った。
親愛なる国王陛下
王女としてこの王宮で育ててくださったことに心から感謝を申し上げます。それから、黙ってそばを後にする不敬をお詫び申し上げます。
わたくしは、あなたの一人娘ではありません。
本物のナターシャはヒントス村におり、今はぺネロペ・ソージュと名乗っています。
彼女を迎えに行かれ、親子として、王と後継者として、末永く幸福にお過ごしくださることを願います。
王国の繁栄と皆様の幸せを祈って。どうかわたくしの祈りが災いとならぬことを。
──そう、几帳面な筆跡で記されていた。
ナターシャ・ドイクロフという王女がいた。国王ヴィルヘルムとその后ゾフィアの、たった一人の娘として知られていた。后は産後の肥立ちが悪く天にのぼり、母の顔も温もりも知らずして育ったにもかかわらず、彼女は快活で人懐っこく物怖じしない少女だった。建国祭などの催しでは毎度花が咲いたような笑顔を見せ民衆へ大きく手を振り、その姿が話題になっていた。
ナターシャは聡明でもあった。父である国王が王子だったころよりも早く学び始め、国政にも異例の若さで関わり、大臣たちからも信頼を得ていた。
そんな彼女の唯一の欠点として宮中でささやかれたのは、妄想癖だ。
「わたしは、ナターシャじゃないの」
乳母が姫の口から初めて聞いた文だった。このころ実に生後2年である。
どういうわけか王女殿下は、自分はナターシャ・ドイクロフではないという妄想の世界で生きている。使用人たちはそう風説を立てていた。
何せ母親の幼少期と瓜二つの顔立ちをしていながら、「自分は本物のナターシャではない」と主張していたのだ。
証拠も証人もない世迷言として、国王ヴィルヘルムは誰が吹き込んだのかと調査した。何人もの疑わしい使用人を辞めさせ、入れ替えたが、それでも彼女の言葉は変わらなかった。それどころか幼い王女は父王に彼らは何も悪くない、自分がこの先いくらでも王家や国のためになるからもうやめてほしいと嘆願すらしていたのである。