2章:第7話 この程度命を懸ける内に入りません
「でもどうしよう、カイ! かなり離されちゃったよ~!」
木々の隙間、かろうじて覗く複数の影。
わたしたちは草原地帯を抜け、森林地帯に差し掛かっていた。
朝陽は完全に昇り、きらきらした日差しが辺りを照らす。
この森以外の全てを。
まるで巨人が植えた木々。
この森の木々は、そう思えるほどに高く太い。
天を支える柱かと見まがうほど、コース上には大きな樹木が立ち並んでいた。
それらの葉は頭上を覆い、この森の中だけ夜みたいに暗い。
だからこの森を『黒衣の森』と呼んでいるんだってカイから聞いた。
わたしは狼の亜人。
かろうじて見えるけど、それでもこの集中力を維持するのは大変だ。
目前の参加者は、順位で言うと真ん中くらい……。
わたしのせいで完全に出遅れてしまった!
うう、こっからわたしの足で間に合うのかな?
「お気になさらず、フェナリアさん♪ このレースは十日以上の走行を想定した長丁場。ゆるりと行きましょう!」
いつも通り能天気な調子のカイ。
きっと小鳥だって無警戒になるに違いない。
それくらいには、争いとは無縁な雰囲気を漂わせる。
けど、
わたしは知っている。
人畜無害なように見えて、さっきみたいに非情な作戦を思いつくヤツなんだって。
あのカス賢者の罠も、カイなら簡単に解決だったと思う。
でも彼は手出ししなかった。
それって、わたしのことを信じてたからだもんね?
だとしたらきっと──
「今わたしたちが後れを取ってるのも、何かの作戦なんでしょ? カイ」
「いや、普通にピンチですよ。困ったなあ」
「わたしの期待を返して!」
一体この人、どこまでがホントでどこまでがウソなんだろう。
わたしは呆れながらも、木々の合間を駆け抜ける。
「でも、フェナリアのがんばり次第で、逆転する方法はあります」
「がんばり次第?」
「ええ♪」
瞬間──
背中のカイが何かを取り出すと、進路を明かりが照らした。
カンテラでも取り出したのかな。
この森の暗闇の中だと、こんな少しの光でも少し安心を覚える。
わたしは一人で走ってるワケじゃないんだ。
『二人でいる』ということが、視覚化されたみたいで。
「選択肢は二つです。『安定』か『博打』か──どちらのプランがお好きですか?」
安定と博打……!
「そりゃあ、博打で簡単に勝てるならそうしたい。でも──」
今のわたしたちはただでさえ逆境。
博打を選んだとして、失敗してしまえばそれまで。
次のチャンスはもう無いかもしれない。
それに、
博打を選んで失敗したら、またカイの足を引っ張ることになる。
カス賢者のせいで今、カイは商人として退路が無い。
この大会で優勝を逃せば、未来が閉ざされるんだ。
だったら安定の方がいいのかな?
でも、それでどこまで通用するのか分からない。
わたしは次の言葉が出てこないまま、森の闇を駆ける。
「迷っているようですから補足説明いたしましょう!」
「めちゃ助かる」
「安定を選んだ場合、アナタの眼を活かして戦います」
「眼?」
「この森は暗い。参加者のほとんどはスピードを落とさざるを得ません。この闇でトップスピードを出せるのは、亜人であるアナタの強みです」
そっか!
わたしにとって、この森はボーナスステージ。
このまま全力で進めば、今までの遅れを取り戻せるかもしれないんだ!
「博打を選んだ場合、その名の通りイチかバチかショートカットを行います」
「ショートカットしていいの? レースなのに」
「ええ、このレースは四つの区画に分かれています。第1ゴールから第2第3、そして最終ゴール──それらのチェックポイントを通りさえすれば、過程は問われません」
「ならそもそも、森を通らない方が得なんじゃ?」
「一見そう思うでしょうが、これは『交易路周遊レース』。つまり、想定されたコースは整備されているものの、それ以外はリスクが伴います。特にこの森は」
確かに、こんな序盤でリスクを取る必要なんて無いもんね。
カイが最初に言ってた通り、このレースは長い。
リスクとリターンを天秤に掛けるのは最終局面──
ゴール直前でもいい。
「カイはどっちが良いと思う?」
わたしは安定の方が良いと思った。
博打なんてしなくても、先頭集団に追いつけるんだもん。
けど、カイの意見も知りたい。
だっていつも、カイは正しかったから。
「ワタシですか? ワタシみたいなしがない商人に意見なんてありませんよ~。それに──」
カイはいつもと違う、真剣な口調で言う。
「博打は『アナタの命を懸ける選択肢』です。ワタシたちは相棒同士──とはいえ、互いを尊重し合うべきだ。命とは、他人の指図で懸けるものじゃあ『ない』ですから」
それは冷たいようでいて、確かな熱を帯びていた。
変な表現かもしれないけど、わたしはそう感じる。
いままでのわたしは、見世物小屋の人生。
他人の指図で命を懸けて当たり前だった。
対等な相手なんていなくて、
自分の命なんて、チップの一つでしかなかった。
でも、
この人は違うんだ。
わたしは自分の背中にまたがった、彼の体温を噛みしめる。
カイは、わたしのことを何の色眼鏡でも見ない。
ただ、一人の個人として、話を聞いてくれてる。
わたしの意見、か。
目の前の暗闇を、カイの持つカンテラが、か細い光で照らしてくれている。
それは、闇を全て切り裂くわけじゃない。
けど、わたしの心に、確かな灯をともしてくれる存在だ。
視線の先、
このレースで、わたしが目指す場所。
それは先頭集団じゃなかったね。
わたしの脳裏に浮かぶ一人の背中。
海のように神秘的で、底知れない彼女。
ニルの顔だ。
カイはさっき言ってた。
『この闇でトップスピードを出せるのは、亜人であるアナタの強みです』って。
でもそれは、
わたしだけの強みじゃない。
きっとニルちゃんも、この闇の中で走ってる。
彼女に追いつくには、彼女と同じ速さじゃダメなんだ!
だからわたしは──
「『博打』を選ぶ! 自分の意志で命を天秤に掛けてでも、彼女に追いつきたい! 優勝を目指したい!」
「承りました、フェナリア。このプラン、決してアナタに損はさせません」
カイは自信たっぷりに、手綱で左を示す。
でも、彼が示すのは道じゃない。
そこはもはや『壁』だ。
天を貫く巨木がそびえ立ち、わたしたちの進行を妨げている。
「こんなの、通れるワケがないッ!」
「おやおや~? このプランを選んだのはアナタですよ、フェナリア。まさかいきなり契約破棄だなんて、そんなことは──」
「ええ、いいですよ! 分かってます!」
これもわたしが選んだ道!
ニルちゃんはスタート直後、カイの作戦も意に介さずトップを維持した。
そんな子に勝つんだもん。
手段なんて選んでいられないもんね。
わたしは大樹と大樹の隙間を縫い、ジグザグに進む。
まるで獣道──
否、獣だって通らないような場所。
この先、何が待ち受けてるのか分からない。
でも、
楽しい!
わたしは今、自分が自由だと実感できてる!
自分の意志で命を懸けて、道無き道を走っている。
今までの人生、これ以上に自由なことなんて無かった。
それは、カイと出会ったからだ!
彼はわたしを、知らない場所へ連れてってくれる!
そう考えると、わたしの心臓はわくわくでどうにかなっちゃいそうだった。
「ねえ、カイ! 次はどんな景色を見せてくれるの!?」
わたしの頭は、次に来る新しい刺激のことでいっぱいだった。
「次は、断崖絶壁ですね。足元に気をつけてください」
刹那──
視界が開けたかと思えば、
わたしの体は崖と崖の間を飛び越えていた!
それも、落ちたら全身がバラバラになるような高さの崖を!
「どうして早く言わない!?」
わたしの心臓はどうにかなっちゃいそうだった、
悪い意味で。
詐欺師が契約書のスミに重要事項書くような不公平さ!
しかもさっきの高さ、あの夜に突き落とされた高台の比じゃない!
「この森林地帯は起伏が激しい。交易路を少しでも逸れれば断崖絶壁です。だからこそ、そこに付け入る隙があったんですよね~」
「わたし無視されてるーッ!」
前言撤回かも。
ホントにこの人、『わたしを一人の個人として、話を聞いてくれてる』のか?
まあ、とにかくこれで博打には勝ったハズ!
あとは先頭集団と合流して──
「フェナリア! 足元ォ!」
「わああ!」
彼の号令にわたしは飛び上がる!
「何!? また断崖!?」
「ウンコ落ちてました」
「危機管理、崖<ウンコなの!?」
あまりの緊張感の無さ。
彼だけ明らかに、命懸けのテンションじゃない。
「『命懸けてもいい』って、別に『命を弄ばれてもいい』って意味じゃないんですけど!?」
わたしは張り裂けそうな心臓を落ち着かせ、彼に憤慨する。
けれど──
「なあに、心配要りませんよ。何が起きても、フェナリアはワタシが助けます」
カイはそう言ってヘラヘラ笑うだけだ。
ぐ……。
そんなこと言われたら、何も言い返せないじゃないか。
もういいや、何も考えない。
辺に気を張っても、彼に振り回されるだけな気がする。
「そろそろ次の断崖ですね。気を引き締めてください」
「大丈夫。そんなのあらかじめ分かってれば──」
瞬間──
視界が開け、目の前には断崖。
森を真っ二つに引き裂く、大きな口だ。
きっと本来のコースは、橋を渡るため迂回でもするんだ。
でも──
わたしは後ろ足で巨木に爪を立て、大きく蹴る!
「この程度の障害。命を懸けた内に入らないわッ!」
そして、向こう岸に危なげ無く着地した。
「頼もしいですね、フェナリア」
「当然よ! あなたの相棒として、これくらいできなきゃね!」
「じゃあ、次の崖が楽しみですね」
神妙そうに言うカイ。
彼にしては珍しいな。
「それってそんな危険なの?」
「ええ、そこは『世界の傷口』とも呼ばれる断崖。誰も底に辿り着いたことが無い、未開の裂け目です。落ちれば最後。レースのリタイアどころか、生きている保証もございません」
「そ、そんな場所が……」
失敗=死、か。
って、あれ?
「カイはさっき、『命とは、他人の指図で懸けるものじゃない』って言ったよね? でも今、結果的にカイは、わたしの一存で命を懸けることになった。どうしてカイは、わたしのためにそこまでしてくれるの?」
「知りたいですか?」
「そりゃ、まあ」
するとカイは、答える代わりに前方を指差した。
「間もなくですよ。これが世界の傷口──第1ゴール直前の難所です」
暗闇の先は、新しい暗闇だった。
わたしはその光景に目を疑う。
森から出たのにッ!
そこは暗闇に包まれたままだった。
視界を横断する真っ黒な裂け目。
陽の光なんて全部、断崖の下に続く奈落に吸い込まれてしまったみたい。
空を見上げるも、そこには変わらず太陽が照る。
でも、頭上にあるのは青空なんかじゃない。
まるで夜。
闇に浮かぶ星々の一つかのように、太陽の光のほとんどは闇がかき消していた。
思わず、立ち止まってしまいたくなる深淵。
でも──
わたしは歯を食いしばり、対岸を見据える。
ここで立ち止まれば、助走が足りなくなるッ!
だから、スピードを緩めるなんて許されない。
わたしはトップスピードのまま、
断崖の淵──その漆黒を飛び越すッ!
刹那──
踏切の手前、脳裏をよぎる見世物小屋の記憶。
それは、突き落とされたあの夜だった。
何も抗えず無力で、落ちて死ぬだけだった時の記憶だ。
でもッ!
カイが助けてくれた!
だからわたしは、その恩に報いる!
こんな崖、ただのちっぽけなヒビ割れだ!
わたしなら──わたしとカイなら、飛び越えられる!
「届け……ッ!」
わたしは断崖の奈落──絶望の輪郭を蹴り上げ、
向こう岸に両の前脚を伸ばした!
なのに──
虚空を掠める手のひら。
わたしの体はあの夜みたいに、暗闇へと落下を始めた。
そんな……ッ!
「わたし、全然ダメだ」
「ダメ? いいえ、全く」
不敵に笑うカイ。
すると彼の左手の腕輪が輝いた!
──魔術師の荷縄──
刹那──
闇を切り裂く赤黒い一本の線。
彼の手のひらから伸びた鉤縄が、対岸の樹木に向かい真っすぐに伸びていた!
「さっきアナタは訊きましたね? 『どうして命を懸けてくれたのか』って。でもそれは、少し違いますね。だってこの程度、命を懸ける内に入りませんから」
シュルシュル。
彼の手から伸びた縄は、瞬時にわたしたちを巻き取る!
そして、
わたしたち二人の体は、世界の傷口の向こう──対岸に打ち上げられた!
「だから言ったでしょう? 『何が起きても、ワタシがフェナリアを助ける』って」
「あ、ありがと……」
回らない頭。
そのままわたしは彼を背に乗せ、木々の合間を縫う。
絶望と喜びと安心と──
たくさんの感情が一度に押し寄せて、もう何が何だか分からない。
とにかく、一つ言えるのは──
開ける視界。
辺りを照らす陽光。
わたしたちは森を抜けたってことだ。
「さあ、ラストスパートですよ、フェナリア」
「うん!」
わたしはゴツゴツとした岩場を下り、
大きな道(たぶん正規ルートの交易路)に合流する。
「おやおや、どうやらすぐ後ろに、先頭集団が見えますね。油断できません」
「先頭集団!」
やった!
つまりわたしたちは、賭けに勝ったんだ!
ってことは、あの視線の先にあるのはもしかして……?
「突き当たりの街が第1のゴールです。あとは言わなくても分かりますね?」
「もちろん!」
わたしは四つ足に力を込め、渾身の力で大地を蹴る!
そして──
第1のゴールを制覇した!