2章:第5話 この可能性に賭けます
「本当に良かったんですか? ワタシがフェナリアにまたがるだなんて」
「そ、それは──」
もちろん、少し恥ずかしい。
いや、
相当恥ずかしい……!
だってわたしは、今まで誰にも気を許さず生きてきた。
誰も信頼できないような世界で、背中を預けるだなんて一度も無かった。
だから昨日、
一人で戦ったわたしは、ニルちゃんに負けた。
でもそれは、単純な足の速さの問題だけじゃないと思う。
あの時までのわたしは、どこか軽く考えていたんだ。
自由になりさえすれば、わたしの足は誰にも負けないんだって。
けど、
一人じゃダメだったんだ。
わたしはまだ、この世界に飛び出したばかりの雛みたいなもの。
知らないことがたくさんある。
だから、
わたしにはカイが必要だ。
呼吸を落ち着けながら辺りを見回す。
陽も出ていない早朝。
ここはリーヴベルテ城下町の郊外。
農村から少し外れた、何も無い草原地帯だ。
レースの参加者はみんな横一列に並び、
暗闇の中スタートの合図を待ち望んでいる。
見渡す限り、参加者の中にわたしみたいな年代の子はいない。
屈強な出で立ちの男の亜人や純血種の人間ばかりだ。
それぞれが馬やその他様々な動物にまたがっている。
商人みたいな見た目の人はゼロ。
つまり、わたしとカイは完全に浮いた存在だった。
わたしは狼だけど、むしろ逆だ。
狼の群れに紛れ込んだ羊。
それが今のわたしの心境だった。
とにかく、気持ちを切り替えなきゃ!
「関係無いです、恥ずかしいかどうかなんて!」
「ワタシはこれでも常識人。年端もいかない少女に重荷を背負わせるのは気が引けるんですけどね」
カイは渋々といった様子でわたしの上に乗る。
狼になったわたしの背中に。
それは、
「アナタの心なんて見透かしてます」
とでも言うような表情だった。
そう思うと、途端に顔と耳が熱くなったような気がする。
なんか悔しい。
ってか、毛並みとか汚く無いかな?
レース中の時とか、ふとした拍子に気になって集中力奪ったりしない?
ダメだ。考え出したらキリがない。
「重くないですか、フェナリア。鞍は軽さと耐久性を考え、クルミの木をベースにした物を選んだのですが」
「うん。大丈夫だよ、カイ」
背中が少しだけ痒い。
けど、わたしはそれを我慢して答えた。
だって恥ずかしいし、あんまり子ども扱いしてほしくなかったから。
顔を隠すように俯くわたし。
その時だった。
「なんだ、お前らは。亜人の商人と犬の参加者ァ? 散歩にでも行くのか?」
隣の大男が揶揄うと、彼の取り巻きも笑い声を上げた。
「イッヌいて草」
「犬畜生で国土一周ww」
「開幕十割」
「この祭りは国一番の俊足を決めるレースだぞ? 十日以上もかかる長距離移動なんだ、商人なんかの体が持つワケもねェ! ましてや亜人風情の根性じゃあ優勝なんて無理だね!」
優勝が無理?
わたしは牙を噛みしめ、地面に爪を突き立てる。
違う!
昨日、わたしを助けてくれたカイはすごかった!
冷たくて仕方がなかった心が、彼のお陰であったかくなった。
だからッ──
口を開こうとしたその時、
彼はわたしの頭に優しく手を置いた。
「──ッ!」
荒ぶったわたしの心を落ち着けるみたいに。
「何も考えなくていいですよ、フェナリア。ただ、頭に置かれたわたしの手の感触だけに集中してください」
優しい声で囁くカイ。
それはわたしのささくれ立った心を柔らかく包み込んでくれた。
大きくて、温かい手だ。
あの時、落ちて死ぬだけだったわたしを、助けてくれた手。
今だって、わたしのことを考えて行動に起こしてくれてる。
この恩は絶対に返さなきゃ、だ。
そうだよね。
この場に立ってるのは、口喧嘩に勝つためじゃない。
わたしは大きく深呼吸して、コースの向こう──
朝陽が昇る前の地平線を見つめる。
夢を叶えるため、この場に立ってるんだ。
視線の向こう。もっともっと遠くまで走って、そしてニルちゃんに勝つ。
わたしはこのレースで、自由を勝ち取るために走る!
そう、意思を固めた時だった。
「反論の余地も無いってか? 商人さまよォ」
ゴロツキはまだカイを揶揄ってる。
でも、ここで怒ったりしない。
わたしは大きく息を吸い、それをゆっくりと吐き出した。
そして目を瞑ったまま、カイの手の温度を感じる。
大丈夫。
そう思ったのに──
「どうした? そんな『みすぼらしい犬』の頭を撫でたりなんかして。にしても、商人のクセに馬の一頭も用意できないなんて、笑いのセンスがあるよな」
するとゴロツキに同調して、取り巻きたちも口々に嘲笑した。
「辛辣で草」
「事 実 陳 列 罪」
「草過ぎてスタート地点が草原になった」
みすぼらしい犬……。
そっか。
カイがバカにされてたのは亜人だからとか、商人だからとか以上に……、
わたしだ。
わたしの姿が弱そうで、レースに勝てないって思われるから、カイが酷いことを言われてるんだ。
わたしが彼に騎手を頼まなければ、誰もカイを傷つけずに済んだのに……!
「そんな犬じゃ勝てる保証は無ェ。諦めた方がいいんじゃねえか、商人さまよォ? 何なら犬の代わりに馬を売ってやろうか? 一頭金貨百枚でどうだ?」
金貨百枚──
誰が聞いたって釣り合わないと分かる金額だ。
そんな安い挑発にカイが乗るわけないのに……。
わたしは呆れたような気持ちで、ゴロツキの言葉を聞き流した。
なのに──
「馬を買う──確かに一考の余地がありますね♪」
カイは軽やかな調子で、男の提案に答える。
えっ……と?
思わず振り向くわたし。
でも、彼はいつもの笑顔を浮かべ、わたしに目もくれなかった。
どうして?
わたしよりも馬の方が信頼できるから?
ドンドン早くなる心臓の音。
わたしは音を抑えつけるように息を止める。
けれど、鼓動は治ってくれない。
「それに『勝てる保証が無い』というのも、おっしゃる通りかと思います」
へらへらと答えるカイ。
彼の頭の中には、わたしの居場所なんて無いのかもしれない。
そう思った。
でも、
そうだよね。
わたしのせいで変な大人に絡まれて、イヤなこといっぱい言われたんだもん。
愛想をつかせるのは当然だ。
俯くと、涙は草原の土に消えた。
ニルの竜化した姿を思い出す。
あの子は、とっても鋭くて今にも風を切って走りそうな姿だった。
わたしも、ニルちゃんみたいにカッコ良かったら、カイがバカにされずに済んだのかな?
叶わないもしもを願った。
どうしてか、もっと涙が溢れた。
「後悔からかもしれないし、失敗するかもしれない。それどころかもっと状況が悪くなるかもしれない。だが──」
再び彼の手がわたしの頭に置かれる。
「ワタシはこの可能性に賭けます」
カイは不敵に笑いながら言葉を続けた。
「だってそうでしょう? 未来が輝かしい確証なんてない。でもそれは、諦める理由にはならない。彼女が諦めず踏み出した一歩は──」
彼はゴロツキどもを睨みつける。
「決して間違っていない」
──ッ!
彼の言葉を聞いて、わたしの体にグンと血が巡るのを感じる。
そっか。
わたしはさっきまで、『勝たなきゃ自由になれない』って思ってた。
『恩を返さなきゃ』だとか『バカにされないようにしなきゃ』だとか、そんなことばかり考えてた。
でも、
『自由』って何だろう。
たぶん今みたいに、思考で自分自身を縛ることじゃない。
一度全部の重荷を降ろしてみるんだ。
さっきカイが言ってたもんね、
今は何も考えなくていい──って。
伝わったよ、全部。
わたしに必要なのは、夢に向かって真っ直ぐ走ることだけだ。
背中のカイはそれを見守ってくれてる。
充分だ!
「さあ、そろそろですよ、フェナリア」
手綱を握るカイ。
地平線からは太陽が顔を出そうとしていた。
そろそろレース開始だ。
「フン! でかい口叩きやがって! お前みたいな商人、オレたちのチームがすぐに追い抜かして──」
刹那──
太陽が顔を覗かせ、スタートを知らせる銅鑼が鳴った。
「行くよ、カイ」
「ええ、信じてます」
わたしは駆け出した。
それは、決壊した水の流れだった。
加工から流れ出す溶岩だった。
わたしは草原を吹き抜けるつむじ風になって、みんなの頰を撫でた。
「って、何だ商人! お前、そんな速──」
背後から聞こえてた声も、大地を蹴る音にすぐかき消された。
振り返る必要なんて無い。
ただ、地平線の向こう──ゴールさえ見据えればいいんだ。
「ところでなんだけどさ、カイ」
わたしは気恥ずかしい心を押さえ込んで問いかけた。
「さっきどうして馬を買おうとしてたの?」
そんなにわたしより速そうだったのかな……。
うう。
振り返る必要無いって思った手前、考えるのも変な話だけど、どうしても気になる。
たぶんだけど、
ちょっとくらい振り返るのはアリだ。
「ああ、そのことですか」
カイはいつもの調子でヘラヘラ答える。
「あの馬が可哀想だったからですよ。安物の鞍と見るからに過積載な荷物量──あの様子じゃレースの半分も走り切れませんからね」
この人、優しいんだか優しくないんだか、よく分からないな……。
とにかく分かることは──
「人を食ったような商人ね」
「褒め言葉と受け取っておきます♪」
商人カイ、変だけど楽しい人だ。
わたしは彼の言葉に苦笑した。