2章:第4話 速いんだねキミって
「それでは、ワタシが手続きをしますので、フェナリアは自由にしてて良いですよ」
カイは笑顔でそう言うと、係の大人と話を再開した。
でも、なんか不思議な感じだな。
体が痒くなるって言うか……。
わたしは自分の耳を撫でながらぐるぐると考える。
今まで、わたしは好きなことをやれなかった。
窓の外に見えるものは全部、遠い世界のお話。
だからわたしは、それに何の気持ちも持たないようにしてた。
けど、今は──
賑やかな表通りを見て、わたしは心に風が吹き抜けたように感じた。
焼けたパンの香ばしいニオイ。
熟れた果実の甘いニオイ。
笑い合う婦人。駆け回る子どもたち。
広場の方からは打楽器の跳ねるような音が聴こえる。
視界に映る人々はみんなどこか楽しそうで、数日後のお祭りへのドキドキが伝わってきた。
この都って、こんなにも楽しげなものでいっぱいだったんだ……!
昨日までのわたしにとって、この石造りの街はどこか冷たくて、よそよそしい場所だった。
今までのわたしは、こんなにもしっかり街を見たことはなかった。
見ないようにしていた。
だってそれはわたしにとって手の届かない世界で、焦がれたって仕方がなかったから。
でも、
今は違うんだ。
そう思うと、自然と涙が頬を伝い落ちた。
こんなとこで立ち止まって泣いてちゃ、時間がもったいないよね。
カイの手続きが終わるまで、楽しく時間を使わなきゃ!
わたしは彼から渡された数枚の銀貨を握りしめた。
刹那──
わたしの体は何かにぶつかった。
「わ、ごめんね」
地面に転がるわたしに手を貸す女の子。
真っ白な髪に真っ赤な目。
身に纏うのは赤と黒のドレス。
彼女はまるで、おとぎ話のお姫様だった。
おとぎ話と少し違うのは──
「私の角に当たってないといいけど……」
そう言って女の子は、自分の頭を撫でる。
頭に生えた二本の角。
それが真っ先に目につく、彼女のシンボルだった。
竜……の亜人……?
亜人と言っても、わたしとは全然違う。
選ばれた血筋の亜人だ。
優遇はされても、差別はされないような。
キレイな子。
わたしと同じくらいの歳なのに、わたしよりずっと大人びてる。
「立てそう?」
「あ、うん」
わたしは彼女の手に引かれるまま立ち上がる。
近付く顔。
この子、まつ毛もすごく長いんだ。
真っ赤な瞳は深くて暗くて、ずっと見ていたら、わたしの何もかもが溶けてしまうと思った。
わたしは怖くなって、思わず目を逸らす。
夜の海みたいな子だ。
気を抜いたらわたしをどこかに攫っていってしまいそうで、冷ややかだけど体を委ねてしまえば心地良いような。
「よそ見しててぶつかっちゃった。気をつけるね」
「よそ見って、何を気にしてたの?」
「人を探してたんだ。私の相棒なんだけど、すぐどこかへ行っちゃうから」
竜のお姫様は無表情のまま、辺りを見回す。
その顔はまるで絵画みたいで、完成された状態で何も移ろわない。
でも、だからこそわたしは、この子のことを知りたいと思った。
すると──
「あ! あそこ!」
お姫様は人混みの向こうを指差す。
そこには、藍色の甲冑に身を包んだ男が歩いていた。
「じゃあ、私は彼を追いかけ──」
「待ってて、わたしが呼び止めてくる」
その子が言い終わる前に、わたしは駆け出していた。
この人混みで狼になったらみんなを驚かせちゃう。
けど、
わたしは速い。
人の姿のままでも、大人に追いつくくらいならできる。
それにそもそも、狼の亜人は他の人の何倍も足が速いんだ。
変身しなくても、わたしの速さについてこれる人がいるとは思えない。
それはドン底の人生だったわたしの、唯一の取り柄でもあった。
「何? 風?」
「違う、子どもが走ってるんだ」
「最近の子どもは速いのねえ……」
「【悲報】ワイ将ガキのかけっこ未満」
ざわめく人を横目に、
わたしは人混みの合間を縫い、甲冑の男の跡を追う。
このまま追いつけそう!
たぶん、この直線を走り切る前に──
刹那──
「驚いちゃった。急に走り出すんだもん」
囁くような声が、わたしの背後から聴こえた。
「速いんだね、キミって」
そしてその声は、今度は前から聴こえてくる。
え?
わたしは両足にブレーキをかけ、立ち止まろうとする。
けど──
「わ、とと……」
勢いのあまり、前に倒れ込んだ!
しまった!
このままだと顔から落ちちゃう。
何やってるんだ、わたし。
数日後にはレースだって言うのに、怪我するようなことして……。
カイに顔向けできないよ。
瞬間──
わたしの体は長い何かに包まれた。
それはザラザラとしていて、氷のように冷たい。
けど、どこか優しさを感じる触り心地だった。
「辞めるんだ、街中でその姿になるのは」
わたしの頭上で低い声が響く。
カイとは真逆。
聞いてるだけで心臓を掴まれるような、ヒヤリとした声だ。
恐る恐る目を開くと、わたしの体は竜の背中に乗っかっていた。
その傍らには甲冑の男の人(さっきの声はこの人のものだろう)。
馬車ほどもある、鋭い輪郭の飛竜。
そのトゲトゲとした翼は、きっと風を切り裂くためにあるんだ。
手足の爪は大地を強く蹴るために。
彼女の姿を見れば、それがどんな速さを産むのか、簡単に想像できた。
「変身した姿を見せたかったんだよ、この子に」
くすくすと、
楽しげに笑う赤黒い竜。
それはわたしを降ろすと翼を翻し、瞬く間にさっきの少女へと姿を変えた。
「私は竜の巫女ニル。貴方のお名前は?」
「わ、わたしは……」
勘違いしてた。
わたしは速い?
ついてこれる人はいない?
全部間違い。
わたしは見えてなかったんだ、
知らなかったんだ、
この世界の広さを。
怖い。
昨日までは何となくレースに出たら夢が叶うと思ってた。
でも、ホントはわたしよりも速い人なんて当たり前にいて、優勝だって簡単じゃない。
せっかく世界が広がったと思ったら、また行き止まりだ。
わたしは何だか泣きそうで、思わず拳を握り締めた。
すると何かが、わたしの手のひらを押し返した。
それは──
銀貨だ。
カイが渡してくれた、数枚の銀貨。
今までわたしは、命を削らないと銀貨どころか銅貨すら手に入らなかった。
なのにあの人は、何の見返りも無いのに、数枚の銀貨をわたしにくれた。
「これはアナタの未来への投資なんですよ」
そう言って。
カイはわたしを信じてくれたんだ!
昨日今日出会ったばかりのわたしを!
なら、
わたしが勝手に一人落ち込んだり諦めたりするのは違うよね。
だってわたし、まだ何も彼の信頼に応えてない!
「わたしは、数日後のレースに参加します。あなたもッ──ニルちゃんも出ますか?!」
すると彼女は楽しげに微笑み、わたしの手を取った。
「そうだよ、狼ちゃん。隣の男は私の騎手。二人一組でこのレースに挑む相棒なんだ」
「わたしも同じレースに出ます!」
拳を握り締め、ニルの瞳を見つめる。
今度は目を逸らさない!
昨日の夜、カイはわたしを助けてくれた。
それはあの人が、わたしに可能性を感じてくれたからだ!
だからわたしも、戦う前から諦めたくない!
「このレースでわたしは、ニルちゃんに勝ちたいッ!」
この子から名前を聞かれて、少しうれしかった。
なんていうか、わたしを認めてくれたみたいで、わたしに興味を持ってくれたみたいで。
でも、
今のわたしに名乗る名前なんて無い!
だから、
次はわたしがニルの背中を追いかけて、その時に改めて名乗るんだ!
「楽しみにしとくね、狼ちゃん」
ニルは妖しげに微笑み、わたしの前から立ち去った。
圧倒的な身体能力を持つ狼の亜人。
純血種ともなれば一人で数千単位の軍を滅ぼし、一夜で千里を駆けるとも言われる。
そして、
竜の亜人は、
それよりも遥かに優れた能力を持つ。