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悪役令嬢に転生したので婚約破棄イベントを回避しようと領地に引きこもったら、なぜか隣国の皇太子に見初められました

作者: 藍沢 理

 目が覚めた瞬間、天蓋付きのベッドに寝ている自分に気がついた。


 豪華な部屋。見覚えのない天井。そして――


「エリシアお嬢様、朝のお支度の時間でございます」

「ぴゃあ!」


 突然声をかけられて、ベッドから転げ落ちそうになった。慌てて起き上がると、メイド服を着た女性が心配そうにこちらを見つめている。


「お嬢様? お加減でも悪いのですか?」

「え、ええと……」


 混乱する頭を必死に整理しようとしたその時、激流のように記憶が押し寄せてきた。


 前世の記憶。


 日本で普通のOLをしていたわたし。残業帰りに交通事故に遭って――そして今、乙女ゲーム『薔薇と剣の恋物語』の悪役令嬢、エリシア・タウンゼントになっている。


 血の気が引いた。


 このゲーム、わたしがハマりにハマって全ルート制覇したやつだ。そしてエリシア・タウンゼント、つまりわたしは、どのルートでも最後は婚約者であるアルフレッド王子に婚約破棄されて、国外追放か修道院送り、あるいは断頭台へのルート――


「やだやだやだやだ! 絶対にやだ!」

「エ、エリシアお嬢様!?」


 メイドのマーガレットが驚いて駆け寄ってくる。


「あ……あはは。申し訳ございません、マーガレット。少し……考え事をしていて」


 深呼吸をして、なんとか平静を装った。


 ゲームの記憶を辿る。エリシア・タウンゼントは公爵家の令嬢で、第二王子アルフレッドの婚約者。性格は高慢で、平民出身のヒロインをいじめ抜いた結果、王子に愛想を尽かされる。


 それがわたし。


 今は……そう、ゲーム開始の一年前。王立学園に入学する前だ。


 つまり、まだ間に合う。


 ゲームの記憶を整理する。婚約破棄イベントは必ず王立学園で起きる。平民出身のヒロインが特待生として入学し、アルフレッドと同じクラスになる。エリシア、つまりわたしがヒロインをいじめ、それを見たアルフレッドがヒロインを庇い、やがて恋に落ちる――


 おん?


 待って。


 王立学園に行かなければいいんじゃね?


 ヒロインと出会わなければ、いじめることもない。いじめなければ、アルフレッドに嫌われることもない。婚約破棄イベント自体が発生しない!


「マーガレット、父上はいらっしゃる?」

「旦那様でしたら執務室に」

「すぐに会いに行きます。支度を手伝って」


 決めた。


 王立学園には行かない。領地に引きこもって、ヒロインとの運命の出会いを完全に回避する。これが最も確実な生存戦略だ。



 執務室のドアをノックすると、中から低い声が響いた。


「入りなさい」


 タウンゼント公爵、レジナルド・タウンゼントは、銀髪に鋭い青い瞳を持つ壮年の男性だ。ゲームでは娘かわいさに甘い設定だったはず。


「父上、お願いがあります」

「なんだね、エリシア」

「領地に帰りたいのです」


 父の手が止まった。ゆっくりと顔を上げ、わたしを見つめる。


「理由を聞かせてもらえるかな」

「王都の生活に疲れました。領地でゆっくりと過ごしたいのです」

「王立学園への入学はどうするつもりだ」

「行きません」


 今度こそ、父の表情が険しくなった。


「エリシア、君は王子殿下の婚約者だ。学園に通わないなど――」

「父上」


 真っ直ぐに父の目を見た。


「わたしは、アルフレッド殿下にふさわしい婚約者ではありません」

「何を言っている」

「殿下は優しく、正義感の強い方です。きっと、もっと相応しい女性が現れるでしょう。その時、わたしが邪魔になるくらいなら、最初から身を引いた方が良いと思うのです」


 嘘ではない。ゲームの設定通りなら、アルフレッドは正義感が強く、弱い者いじめを許さない性格。そして、ヒロインの純粋さに惹かれていく。


 父は長い沈黙の後、深くため息をついた。


「本当にそれでいいのか」

「はい」

「……分かった。だが、一つ条件がある」

「なんでしょう」

「領地の経営に真剣に取り組むこと。遊び半分は許さん」


 即座に頷いた。


「もちろんです」


 これで第一段階はクリア。あとは領地に引きこもって、ひっそりと暮らせばいい。


 そう思っていた。



 王都から馬車で三日。タウンゼント領は王国の北部に位置する、それなりに大きな領地だった。


 ただし、ゲームではほとんど描写されていない。せいぜい「辺境の領地」程度の扱いで、詳細は不明。


 実際に来てみると――


「ひどい」


 思わず呟いてしまった。


 領主館は立派だが、城下町は活気がない。人々の表情も暗く、市場も閑散としている。


「申し訳ございません、お嬢様」


 領地の執事を務めるバーナビー・ウィザースプーンが頭を下げた。白髪の老執事は、申し訳なさそうな表情を浮かべている。


「ここ数年、不作が続いておりまして」

「不作?」

「北の気候は厳しく、作物が育ちにくいのです。交易も、これといった特産品がなく……」


 なるほど。ゲームで描写されなかったのは、単に貧しい領地だったからか。


 でも、これはチャンスかもしれない。


 前世の知識を使えば、この領地を豊かにできるかも――


「バーナビー、領地の詳しい状況を教えてください。人口、産業、地形、気候、すべて」

「は、はい。しかしお嬢様、そのようなことを――」

「領主代理として領地経営をするのです。当然でしょう?」


 老執事の目が丸くなった。



 翌日から、わたしの領地改革が始まった。


 まず気候の調査。北の地は確かに寒冷だが、それゆえに適した作物もあるはず。


 前世の記憶を頼りに、寒冷地でも育つ作物を思い出す。ジャガイモ、ライ麦、そして――


「ハーブ」

「は?」


 バーナビーが首を傾げた。


「ハーブです。薬草。この地の気候なら、特定のハーブがよく育つはずです」


 特に思い出したのは、ラベンダーとカモミール。寒暖差のある気候で、独特の香りと薬効を持つものが育つ。


「でも、ハーブなんて売れるのでしょうか」

「売り方次第です」


 前世で学んだマーケティングの知識をフル活用。まず、ハーブティーとして売り出す。次に、乾燥ハーブを都市部の薬剤師に卸す。さらに――


「エッセンシャルオイル」

「えっせん……?」

「香油です。ハーブから香りの成分を抽出したもの」


 蒸留器の作り方を思い出しながら図面を描く。これがあれば、高品質な香油が作れるはず。


 領民たちは最初、若い領主代理の突飛な提案に戸惑っていた。


 でも、わたしは諦めなかった。


 自ら畑に出て、ハーブの植え付けを手伝った。ドレスの裾を泥だらけにしながら、領民たちと一緒に汗を流した。


「お嬢様、そんな、わたくしどもがやりますから!」

「いいえ、一緒にやります。これはわたしたちの領地の未来のためですから」


 最初は遠慮していた領民たちも、次第に心を開いてくれるようになった。



 三か月後。


 最初のハーブが収穫できた。


 ラベンダーの紫の花が、畑一面に広がっている。風に乗って、独特の甘い香りが漂ってきた。


「きれい……」


 領民の一人、メアリーが呟いた。


「本当ね」


 微笑みながら、花を摘む。


 こうして収穫したハーブで、最初の製品を作った。ラベンダーティー、乾燥ハーブ、そして少量の香油。


 問題は販路だった。


 辺境の領地から、どうやって都市部に売り込むか――


 その時、思いがけない訪問者が現れた。



「隣国ヴェルディアからの使者?」


 バーナビーの報告に、首を傾げた。


 ヴェルディア王国は、北の国境を接する隣国。ゲームではほとんど描写されていなかった国だ。


「なぜうちに?」

「それが……よく分からないのです。ただ、領主代理にお会いしたいと」


 嫌な予感がした。


 まさか婚約破棄イベントを回避したせいで、別のルートに入ってしまったのでは――


 でも、会わないわけにもいかない。


 急いで身支度を整え、謁見の間へ向かった。


 そこで待っていたのは――


「初めまして、タウンゼント公爵令嬢」


 銀髪に、深い紫の瞳。


 長身で、凛とした雰囲気を持つ青年が、優雅に一礼した。


「ヴェルディア王国第一王子、セオドア・レイヴンクロフトと申します」


 王子!?


 しかも第一王子って、次期国王じゃない!


「え、ええと、エリシア・タウンゼントです。この度は遠路はるばる――」

「単刀直入に申し上げます」


 セオドアは真っ直ぐにわたしを見つめた。


「貴女の領地で作られているハーブ製品を、我が国で独占的に輸入したい」

「……は?」


 思わず間の抜けた声が出てしまった。


「商談ですか?」

「その通りです」


 セオドアは微笑んだ。その笑顔が、なぜか少し楽しそうに見える。


「実は、貴女の作ったラベンダーオイルを入手しまして。その品質の高さに驚きました」


「どうやって……」

「商人の伝手です。ヴェルディアは山岳地帯が多く、良質なハーブが採れません。貴女の製品は、我が国にとって非常に価値があります」


 ビジネスの話なら大歓迎だ。


 応接室に場所を移し、詳しい話を聞いた。


 セオドアの提案は、かなり好条件だった。独占契約の代わりに、高値での買い取りを保証。さらに、輸送ルートの確保も向こうが負担するという。


「でも、なぜ王子自らが?」

「興味があったのです」


 セオドアは首を傾げた。


「王都で華やかに暮らしていたはずの令嬢が、突然領地に引きこもり、泥だらけになって領民と働いている。しかも、誰も思いつかなかった方法で領地を豊かにしようとしている」

「調べたんですか」

「ええ」


 悪びれもせずに頷く。ほほー。いい度胸だ。じーっと見つめる。


「正直に言いましょう。最初は、政略的な意図があるのかと疑いました。しかし、調べれば調べるほど、貴女は純粋に領地のために働いていることが分かった」


 セオドアの紫の瞳が、じーっと見つめるわたしを見つめ返す。


「あなたはとても興味深い」


 なんだか、逆に観察されているような気がして居心地が悪かった。


「ともかく、お話は分かりました。契約書を確認させていただいてから、正式な返答を――」

「もう一つ、提案があります」

「まだあるんですか」

「定期的に、わたしが直接この領地を訪れたい」


 は?


「品質管理と、新製品の開発について話し合うためです。月に一度程度」

「それこそ使者の方で十分では」

「いいえ」


 セオドアは首を振った。


「わたし自身が確認したいのです」


 なんだか変な感じ。けれど、ビジネスパートナーとしては悪くない条件だ。


「……分かりました」


 こうして、思いがけない隣国との交易が始まった。


 そして、セオドアの定期訪問も。



 ハーブ事業が軌道に乗り始めて半年。


 領地は少しずつ豊かになっていった。領民たちの表情も明るくなり、市場にも活気が戻ってきた。


 セオドアは約束通り、月に一度領地を訪れた。


 最初は純粋にビジネスの話だけだったが――


「エリシア、新しい蒸留器の設計図を見せてもらえますか」

「いつから名前で呼ぶようになったんですか」

「もう半年も通っていますから」


 いつの間にか、距離が縮まっていた。

 セオドアは見た目こそクールだが、実は好奇心旺盛で、新しいことを学ぶのが好きな人だった。

 ハーブの栽培方法から、オイルの抽出技術まで、熱心に質問してくる。時には一緒に畑に出ることもあった。


「王子様なのに、泥だらけになって平気なんですね」

「エリシアこそ、公爵令嬢なのに」

「わたしは領主代理ですから」

「わたしは共同事業者ですから」


 こんな風に、笑い合うことも増えた。



 ある日、館の一室で新製品の試作をしていると、セオドアが言った。


「エリシア、なぜ領地に引きこもったんですか」


 手が止まった。


「本当の理由を聞きたい」


 紫の瞳が、真っ直ぐにこちらを見つめている。

 どう答えよう。前世の記憶があって、ゲームの展開を知っているから、なんて言えるわけがない。


「……怖かったんです」


 本当の気持ちを、少しだけ話すことにした。


「王都での生活が。いつも誰かに見られて、評価されて。完璧な公爵令嬢で、完璧な王子の婚約者でいなければならなくて」


 セオドアは黙って聞いている。


「でも、わたしは完璧じゃない。きっといつか、ボロが出る。幻滅される。それなら、最初から逃げてしまおうって」

「臆病ですね」

「はい」


 素直に認めた。


「でも、領地に来て良かったです。ここでは、ありのままのわたしでいられる。領民たちも、わたしの失敗を笑って許してくれる」

「わたしも……です」


 セオドアが微笑んだ。


「ありのままのエリシアが好きですよ」


 心臓が口から飛び出た。


「な、何を言って――」

「泥だらけになりながら必死に働く姿も、新しいアイデアを思いついて目を輝かせる姿も、失敗して落ち込む姿も。全部」


 顔が熱くなる。


「そんな、急に何を」

「急ではありませんよ。もう半年も見ていますから」


 セオドアは立ち上がり、そっとわたしの手を取った。


「エリシア・タウンゼント。わたしと――」

「お嬢様! 大変です!」


 バーナビーが血相を変えて飛び込んできた。


「王都から使者が! アルフレッド王子が、ご病気だそうです!」



 王都からの使者は、青ざめた顔で報告した。


「アルフレッド殿下が原因不明の病に倒れられました。高熱が続き、どんな薬も効きません」


 背筋が凍った。


 ゲームにこんな展開はなかった。もしかして、わたしが運命を変えたせいで――


「それで、なぜうちに?」

「実は、宮廷医師団が、ある薬草を探しております。『銀月草』という、非常に珍しい薬草で……」


 銀月草。


 聞いたことがない名前だった。


「王国中を探しましたが、見つかりません。それで、薬草に詳しいと評判のタウンゼント領にも、お尋ねしようと」


 使者が差し出した絵を見る。


 銀色の葉に、淡い青の花。確かに見たことがない植物だ。


 でも、どこか既視感がある。この形、この特徴――


「待ってください」


 書庫に走った。領地の植物について調べるために集めた、古い文献の山をひっくり返す。


 そして見つけた。


 古い薬草図鑑の片隅に、小さく描かれた絵。


『月光草。北方の高地にまれに自生。銀の葉と青き花を持つ。万病に効くと伝えられるが、栽培は不可能』


 名前は違うが、特徴は一致する。


 そして思い出した。


 領地の北の外れ、岩だらけの荒れ地で、この草を見たことがある。あまりに痩せた土地で、ハーブ栽培には向かないと判断した場所だ。


「バーナビー! 馬車の準備を!」


 急いで北の荒れ地へ向かった。


 なぜかセオドアもついてきた。


「手伝います」

「でも、ヴェルディアの王子が、他国の王子のために」

「エリシアが必死なら、それで十分な理由です」


 荒れ地に着いて、必死に探した。


 岩の間、崖の隙間、日の当たらない場所――


「あった!」


 崖下の、岩陰にひっそりと生えていた。銀色の葉が、月光のように淡く光っている。


 慎重に、根を傷つけないように掘り出す。


 全部で十株ほど見つかった。


「これで薬が作れるでしょうか」

「分かりません。でも、やるしかない」


 領地に戻り、すぐに薬の調合を始めた。


 古い文献を参考に、煎じ方を工夫する。セオドアも、ヴェルディアの薬学書を取り寄せて手伝ってくれた。


 三日三晩、ほとんど寝ずに調合を続けた。


 そして――


「できました」


 澄んだ青色の薬液。


 これが効くかは分からない。でも、最善は尽くした。


「王都へ届けましょう」


 セオドアが言った。


「わたしも同行します」

「でも」

「エリシアだけを行かせられません」


 その目は、優しくも決意に満ちていた。



 一年ぶりの王都は、重苦しい空気に包まれていた。


 王子の病の報せは王都に広まり、人々は不安そうな顔をしている。


 王城へ直行し、薬を届けた。


 宮廷医師長は半信半疑だったが、他に手がない以上、試すしかなかった。


 薬を飲ませてから、一時間。


 二時間。


 三時間――


「熱が下がり始めました!」


 医師の叫び声に、安堵のため息が漏れた。


 よかった。間に合った。


 その時――


「エリシア?」


 振り返ると、見覚えのある顔があった。


 金髪に青い瞳。アルフレッド王子の兄、第一王子のエドワードだった。


「お久しぶりです、エドワード殿下」

「本当にエリシアなのか? まるで別人のようだ」


 無理もない。一年前の、着飾ることしか知らなかった令嬢とは、もう違う。


「弟を助けてくれて、ありがとう」


「当然のことをしたまでです」


 エドワードは複雑な表情で、わたしを見つめた。


「君が領地で素晴らしい仕事をしていることは聞いている。正直、驚いたよ」

「ありがとうございます」

「それに――」


 エドワードの視線が、隣に立つセオドアに向けられた。


「ヴェルディア王子まで一緒とは」

「共同事業者ですから」


 セオドアは涼しい顔で答える。


 エドワードは何か言いかけたが、首を振った。


「とにかく、今日は休んでくれ。部屋を用意させよう」


 断ろうとしたが、さすがに疲れを感じていた。


 素直に休むことにした。



 翌日、アルフレッドの容体は安定していた。


 まだ本調子ではないが、意識もはっきりしている。


 挨拶に行くと――


「エリシア、本当にありがとう」


 ベッドに横たわったまま、アルフレッドは微笑んだ。


 一年ぶりに見る婚約者は、少し大人っぽくなっていた。


「君がいなくなってから、色々と考えたんだ」

「殿下?」

「君の言った通りだった。僕たちは、お互いにとって最良の相手じゃなかった」


 アルフレッドは穏やかに続けた。


「婚約は、正式に解消しよう。君の幸せを、心から願っているよ」


 一年前なら、この言葉に傷ついたかもしれない。


 でも今は――


「ありがとうございます。殿下の幸せも、お祈りしています」


 心からそう言えた。


 病室を出ると、セオドアが待っていた。


「終わりましたか」

「ええ」

「良かった」


 セオドアは微笑み、そっと手を差し出した。


「さて、改めて。エリシア・タウンゼント、わたしの妃になってください」


 廊下で? だから今度は邪魔も入らない。


 でも――


「一つ、条件があります」

「なんでしょう」

「領地の仕事は続けさせてください」


 セオドアは笑った。


「もちろんです。むしろ、ヴェルディアの農業改革も手伝ってもらいたいくらいです」


 差し出された手を、しっかりと握った。


「よろしくお願いします、セオドア」



 王都から領地に戻って一週間。婚約の報せは瞬く間に広まり、領民たちは大喜びだった。


「お嬢様がヴェルディアの王妃様に!」

「しかも、ハーブ事業は続けてくださるんですって!」


 祝福の声に包まれて、幸せな日々が続いた。

 セオドアは相変わらず月に一度訪れ、今度は結婚の準備も兼ねて滞在時間が長くなった。


 ところが――


「お嬢様、一大事です!」


 バーナビーが真っ青な顔で駆け込んできた。


「どうしたの」

「銀月草のことが、王都で大騒ぎに!」


 嫌な予感がした。


 バーナビーの話によると、アルフレッド王子を救った奇跡の薬草の噂が広まり、王侯貴族たちがこぞって銀月草を求め始めたという。


 しかも――


「国王陛下が、銀月草を王室の専売品にすると」

「え?」

「タウンゼント領で見つかった銀月草は、すべて王室に納めよとの命令が」


 頭が痛くなった。

 銀月草は本当に希少で、しかも栽培できない。あの荒れ地に自生していた十株がすべて。

 そのうち八株は、すでにアルフレッドの薬に使ってしまった。


 残りは二株。研究用に大切に保管していたものだ。


「もう殿下の病気は治ったのに」

「予備として保管したいそうです。また病気になった時のために」


 なんて強欲な。

 しかも、専売品ということは、わたしたちが自由に研究することもできなくなる。

 どうしよう――


「断りましょう」


 セオドアが静かに言った。いつの間にか、隣に立っていた。


「でも、王命ですよ」

「不当な命令に従う必要はありません」

「セオドア、あなたまで巻き込むわけには」

「もう巻き込まれています」


 セオドアは微笑んだ。


「それに、興味深い話を聞きました」

「話?」

「ヴェルディアの古い文献に、銀月草の栽培法が載っているかもしれません」

「本当ですか!?」

「ただし、かなり特殊な方法のようです。通常の栽培は不可能でも、ある条件下でなら……」


 期待が膨らむ。


 もし栽培できれば、王室の要求にも応えられるし、研究も続けられる。


「詳しく教えてください!」


 でも、その時――


「タウンゼント領主代理、エリシア殿!」


 王都からの使者が、再び到着した。


 今度は、武装した兵士を連れて。



 使者が館の前で朗々と語る。


「王命により、銀月草を接収に参りました」


 使者の傲慢な態度に、領民たちがざわめいた。


「お嬢様が必死で探した薬草なのに!」

「王子様を助けたのはお嬢様なのに!」

「あんたら、恩義という言葉を知らないのか!」


 領民たちの怒りを、手で制した。


「分かりました。ただし、条件があります」

「条件? 王命に条件など」

「銀月草の在処を知っているのは、わたしだけです」


 使者の顔色が変わった。


「脅すつもりか」

「いいえ。交渉です」


 深呼吸をして、続けた。


「銀月草を王室にお渡しする代わりに、研究の自由を保証していただきたい」

「研究?」

「はい。銀月草の栽培法を見つけたいのです。成功すれば、王室も、民も、皆が恩恵を受けられます」


 使者は鼻で笑った。


「栽培など不可能だ。さっさと在処を――」

「可能です」


 セオドアがわたしの横に立った。


「ヴェルディアにその方法が伝わっています」


 今度こそ、使者が狼狽えた。


「ヴェルディア王子……なぜここに」

「婚約者の危機ですから」


 さらりと言って、セオドアは続けた。


「銀月草は、特殊な環境でのみ育ちます。月光を浴びた水と、銀を含んだ土壌。そして、ある種の共生菌が必要です」


 詳しい説明に、使者も兵士たちも聞き入っていた。


「ただし、その技術はヴェルディア王家に伝わる秘伝。これをタウンゼント領に提供する代わりに、研究の自由を認めていただきたい」

「そんな権限は……」

「では、国王陛下に直接お話ししましょう」


 セオドアの提案で、急遽王都へ向かうことになった。


 今度は、国王への謁見だ。



 玉座の間。


 国王、王妃、そして二人の王子が揃っていた。


 アルフレッドは、すっかり元気になっている。


「エリシア・タウンゼント。銀月草を差し出すのだな」


 国王の威圧的な声が響く。


「はい。ただし――」


 条件を述べた。研究の自由と、栽培成功時の利益配分。


 国王は渋い顔をした。


「たかが一領主が、王に条件を出すとは」

「父上」


 アルフレッドが立ち上がった。


「エリシアの言うことは正しいと思います。彼女がいなければ、私は今ここにいません」

「アルフレッド……」

「それに」


 今度はエドワードが口を開いた。


「銀月草を独占するより、栽培法を確立する方が国益になります」


 二人の王子の進言に、国王は考え込んだ。


 そして――


「よかろう。ただし、一年以内に成果を出すこと。できなければ、すべての権利を王室に譲渡せよ」


 厳しい条件だ。けれどチャンスはもらえた。


「承知いたしました」


 深々と頭を下げた。


 謁見が終わり、退出しようとした時――


「エリシア」


 アルフレッドが呼び止めた。


「実は、君に謝らなければならないことがある」

「なんでしょう?」

「病気のことだ。原因が分かったんだ」


 アルフレッドの表情が曇る。


「毒を盛られていた」

「えっ!」

「しかも、犯人は……ラベンダーの香油に毒を混ぜていたらしい」


 血の気が引いた。


 ラベンダーの香油。それは、うちの領地の特産品だ。


「まさか、うちの製品が」

「違う違う!」


 アルフレッドは慌てて首を振った。


「君の製品ではない。模造品だ。誰かが、タウンゼント領の香油に見せかけて、毒入りの偽物を流通させていた」

「そんな……誰が」

「調査中だ。でも、君の領地の評判を落とそうとした者がいるのは確かだ」


 セオドアの顔が険しくなった。


「エリシア、領地に戻ったら、すぐに全製品の検査をしましょう」

「ええ」


 まずいことになった。でも、今度は一人じゃない。



 領地に戻ってすぐ、全製品の検査を行った。


 幸い、うちの製品に問題はなかった。すべて正規のルートで、安全に流通している。


 問題は模造品だった。


 調査の結果、王都の一部の商人が、安い粗悪品を「タウンゼント領産」と偽って売っていたことが判明した。


 その中に、毒を混入させた者がいた。


 犯人は意外な人物だった。


 王宮の女官の一人。アルフレッド王子に想いを寄せていたが、相手にされず、その恨みを……という、なんとも身勝手な動機だった。


 タウンゼント領の香油を使ったのは、たまたま手に入りやすかったから。


 でも、おかげでうちの評判は地に落ちかけた。


「風評被害を防ぐために、品質保証の仕組みを作りましょう」


 セオドアの提案で、正規品には特殊な刻印を入れることにした。


 ヴェルディアの技術を使った、偽造困難な刻印。


 これで、模造品と区別できる。


 同時に、銀月草の栽培研究も進めた。


 セオドアが持ってきた古文書を解読し、必要な条件を一つずつ確認していく。


 月光を浴びた水――満月の夜に汲んだ水を使う。


 銀を含んだ土壌――細かく砕いた銀粉を、特殊な配合で土に混ぜる。


 共生菌――これが一番難しかった。


 古文書には「大地の精霊が宿る菌」としか書かれていない。


「大地の精霊って、なんですか」

「わかりません、が、詩的な表現ですね」


 セオドアも苦笑した。


 諦めなかった。


 領地中の土壌を調べ、様々な菌を採取した。



 銀月草の自生地を再調査していた時のことだった。


「変ですね……」


 わたしは銀月草が生えていた場所の土を見つめた。他の場所の土とは明らかに違う。


「どうかされましたか?」

「この土、見てください。銀色っぽく光っているんです」


 セオドアも膝をついて観察した。


「本当だ。まるで細かい銀粉が混ざっているような」

「でも、銀粉は別に加えているはずです。これは……」


 土を少し指に取った。湿った土の表面に、細かい銀色の糸のようなものが見える。


「カビ? いえ、違う……」


 その時、領地の老薬剤師、ホプキンスが通りかかった。


「ホプキンス、これ何か知ってる?」

「おや、お嬢様。それは銀糸茸(ぎんしたけ)の菌糸ですな」

「銀糸茸?」

「ええ、この辺りの岩場にだけ生える特殊なキノコです。普段は地中に菌糸を張っていて、年に一度だけ銀色の小さなキノコを生やします」


 セオドアと顔を見合わせた。


「それって、もしかして……ホプキンス、ありがとー!」


 急いで館に戻り、古文書を確認する。『大地の精霊が宿る菌』という詩的な表現の横に、小さく注釈があった。


『銀の糸を紡ぐもの、月光に応えて姿を現す』


「これね! 銀糸茸の菌が、銀月草と共生関係にあるんです!」


 さっそく、銀糸茸の菌糸が混ざった土を採取し、栽培実験の土に混ぜ込んだ。すると、今まで育たなかった銀月草が、ついに芽を出した。


 通常の植物には有害だが、銀月草とは共生関係にある菌。


 最初は失敗の連続だった。


 発芽しても、すぐに枯れる。


 でも、領民たちも協力してくれた。


「お嬢様が頑張っているんだ。俺たちも手伝います!」

「月光を浴びた水なら、毎晩汲みに行きますよ!」

「崖から落ちたら、あたいの浮遊魔法で助けるから!」


 みんなの協力で、少しずつ前進した。


 そして、研究を始めて半年後――


「枯れてないっ!」


 小さな銀色の芽。


 大切に大切に育てた。


 セオドアも、ヴェルディアから頻繁に通って手伝ってくれた。


「もうすぐ結婚式だというのに、デートは畑ばかりですね」

「文句ですか?」

「いいえ。これはこれで楽しいです」


 土まみれになりながら、笑い合った。


 さらに三か月後。


 ついに、銀月草の花が咲いた。


 淡い青の花が、月光に照らされて輝いている。


「やった……やったあああああああ!」


 涙が溢れた。


 セオドアがそっと抱きしめてくれた。


「おめでとう、エリシア」

「みんなのおかげです」


 栽培に成功した銀月草は、約束通り一部を王室に献上した。


 栽培法も確立したので、これからは安定供給できる。


 王室も、民も、みんなが恩恵を受けられる。


 そして――


「陛下より、褒賞が下されました」


 なんと、タウンゼント領は「王国薬草研究所」の称号を得た。


 これで、堂々と薬草の研究ができる。



 ヴェルディアとの国境に美しい聖堂があった。


 両国の友好の象徴として急きょ建てられた、白亜の建物。


 今日は、わたしとセオドアの結婚式だ。


「緊張していますか?」


 セオドアが優しく聞いてくれる。


「少し」

「大丈夫。隣にいますから」


 聖堂の扉が開く。


 たくさんの人が集まっていた。

 タウンゼント領の領民たち。

 ヴェルディアの貴族たち。


 そして――


「おめでとう、エリシア」


 アルフレッドとエドワードも来てくれた。


 アルフレッドの隣には、可愛らしい女性が寄り添っている。王立学園で出会った、伯爵令嬢だそうだ。


 本来のヒロインとは違う人だけど、幸せそうで何よりだ。


「綺麗だよ、エリシア」


 父が涙ぐんでいる。


「もう、父上ったら」


 つられてわたしも泣きそうだった。


 一年半前、怖くて領地に逃げ込んだ時は、こんな未来が待っているなんて思わなかった。


 バージンロードを歩きながら、これまでのことを思い出す。


 泥まみれになって働いた日々。


 領民たちと一緒に笑った時間。


 セオドアと過ごした、かけがえのない時間。


 全部が、わたしの宝物だ。


 祭壇の前で、セオドアが待っていた。


 銀髪が、ステンドグラスの光を受けて輝いている。


「来てくれて、ありがとう」

「こちらこそ」


 神父様の言葉に従い、誓いの言葉を交わす。


 指輪の交換。


「これからもよろしく、エリシア」

「はい、セオドア」


 唇が重なった瞬間、聖堂中に祝福の拍手が響いた。



 結婚式の後、領地でパーティーが開かれた。


 領民総出の、盛大な祝宴。


「お嬢様、いや、王妃様!」


「まだお嬢様でいいですよ、マーガレット」


 メイドたちと抱き合った。


「これからも領地にいてくださるんですよね?」

「もちろん。ヴェルディアとタウンゼント領を行き来しながら、薬草の研究を続けます」


 新しい研究所も建設予定だ。


 両国の薬草を研究し、人々の健康に貢献する。


 それが、わたしの新しい夢。


「ねえ、セオドア」

「なんですか?」

「ありがとう」

「急にどうしました」

「あなたが来てくれなかったら、わたしはずっと領地に引きこもったままだったかも」


 セオドアは微笑んだ。


「それはそれで、幸せだったのでは?」

「そうかもしれない。でも、今の方がもっと幸せ」


 星空の下、寄り添いながら歩く。


 ラベンダー畑から、独特の甘い香りが漂ってきた。


 最初に植えた畑。


 すべての始まりの場所。


「来年は、もっと畑を広げましょう」

「いいですね。ヴェルディアにも作りましょうか」

「薬草の交易路も整備して」

「研究者の交流も」


 夢は広がる。


 やりたいことは、まだまだたくさんある。


 でも、焦らない。


 一歩ずつ、確実に進んでいけばいい。


 大切な人と、大切な場所で、大切な仕事を続けていく。


 それが、わたしの選んだ幸せ。


 ふと、前世のことを思い出した。


 ゲームでは、エリシア・タウンゼントは必ず不幸になる運命だった。


 でも、わたしは運命を変えることができた。


 勇気を出して、一歩踏み出したから。


 そして、信じてくれる人たちと出会えたから。


「エリシア、どうしました? 涙が……」

「なんでもない。ただ、幸せだなって」


 セオドアの手を、ぎゅっと握った。


 これからも、きっと色んなことがある。


 困難も、試練も、あるかもしれない。


 でも、大丈夫。


 わたしには、愛する人がいる。


 信頼できる仲間がいる。


 帰る場所がある。


 それだけで、どんな未来も乗り越えていける。


 ラベンダーの香りに包まれながら、新しい第一歩を踏み出した。



(了)


ここまで読んでいただいてありがとうございます!

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よろしくお願いします。

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