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人格のエピソード 02

【短編10】No.83「ノエル」の空白

 キョウの悲痛な叫びと、王の孤独という真実がリンの心に刻まれた後も、ループは変わることなく続いた。精神世界の歪みはさらに進み、人格劇場の一部が、まるで絵画が崩れるように、色彩を失い、白く濁っていく。

 そんな中で、リンは、人格劇場の片隅で、一点を見つめて座っている人物を見つけた。No.83ノエル。彼女は、リンの精神世界の中で、唯一「空白」の人格だった。彼女の表情は、感情を一切持たず、まるで真っ白なキャンバスのように何も描かれていない。その瞳は、まるで久留米の、鉛色の空のように、どんな光も反射せず、ただ虚空を見つめている。

「ノエル……どうしたの?」 リンが声をかけると、ノエルはゆっくりとリンに顔を向けた。その瞳は、リンの姿を捉えているはずなのに、何の感情も宿していない。

「……分からない。」 ノエルの声は、感情の起伏を一切持たず、まるで機械音声のようだった。 「私が、誰なのか。何のために、ここにいるのか。全てが……空白だ。」

 ノエルは、自分が「誰でもないこと」に苦しんでいた。他の人格たちが、それぞれ明確な役割や感情を持っている中で、ノエルだけが、自身の「存在意義」を見出せずにいたのだ。彼女は、リンの心の中に存在する、自己認識の「空白」を具現化した存在だった。その空白は、リン自身の記憶の欠落と、深く結びついているようだった。

 リンは、ノエルに、他の人格たちの話を聞かせた。マリオンの命令、ミコトの正義、アヤカの不器用な愛、レナの切ない恋……。しかし、ノエルの表情は、何も変わらなかった。彼女は、ただリンの言葉を、感情を伴わない情報として処理しているかのようだった。

「ノエルには、何か夢はないの? 誰かになりたいとか、何かをしたいとか。」 リンが尋ねると、ノエルは、初めて、ほんのわずかに表情を歪ませた。それは、迷いと、そして、かすかな悲しみだった。

「……なりたい、なんて。した、いなんて。私には……分からない。」 ノエルの言葉は、リンの胸に突き刺さった。それは、リン自身が、記憶を失い、「自分とは何か」を問い続けてきた苦悩を、そのまま映し出しているかのようだった。

 あるループの昼下がり、ノエルは、人格劇場の中心で、真っ白な光を放っていた。その光は、周囲の人格たちの色彩を吸い取っていくかのようだった。

「ノエル! 何をしているの!?」 リンが叫んだ。

 ノエルは、ゆっくりとリンに手を差し伸べた。その手は、冷たく、そして、存在しないかのように軽かった。 「私には……何も、ない。だから……誰にでも、なれる。」

 その言葉に、リンはハッとした。ノエルは、確かに「空白」だが、それは「何にでもなれる可能性」を秘めているということだ。彼女は、王によって奪われたリン自身の「アイデンティティ」を、再び形作るための、大切な「器」だったのかもしれない。その可能性は、リンの心に、微かな希望の光を灯した。

 ノエルは、リンの手を優しく握った。その手は、冷たかったが、微かな温かさを感じさせた。 「リン……貴方は……私の、全てだ……。」

 その言葉と共に、ノエルの身体は、真っ白な光となって、精神世界に溶け込んでいった。彼女の消失は、他の人格たちのように、劇的な感情の爆発を伴うものではなかった。ただ、静かに、そして穏やかに、リンの意識の中に吸収されていくかのようだった。

 残されたのは、リンの心に、「存在とは何か」という、深遠な問いだった。ノエルは、自分が誰でもないことに苦しんだが、その空白は、リンが新たな自己を構築するための、無限の可能性を秘めていたのだ。ノエルの消失は、リンに、自己の根源を見つめ直し、新たな自分を創造することの重要性を教えてくれた。


【短編11】No.38「タマキ」のトリック

 ノエルの空白がリンの意識に溶け込み、存在の意味を問いかけた後も、ループは不変に続いた。精神世界の白く濁った部分はさらに広がり、人格劇場は、まるで未完成の舞台装置のように、色彩と形を失いつつあった。リンの心には、自己認識の深淵が広がり、どこからが自分なのか、どこまでが空白なのか、その境界線が曖昧になっていくような感覚があった。

 そんな中で、人格劇場に、乾いた笑い声が響き渡った。 「よっ! リンちゃん、今日も元気出してこーぜ! オレの特製ギャグで、腹筋崩壊させてやるよ、アッヒャッヒャッヒャ!」 声の主は、No.38タマキだった。彼は、お調子者で陽気なムードメーカー人格。リンの心の中の「ユーモア」と「逃避」を具現化した存在だった。彼の顔は、いつも笑顔で、その声は、久留米の賑やかな祭り囃子のように響く。

 タマキは、ループが繰り返されるたびに、リンや他の人格たちに、様々なギャグやジョークを仕掛けていた。彼のギャグは、時に下品で、時に場違いだったが、そのおかげで、殺伐としがちなループ世界にも、微かな笑いが生まれていた。彼の目的は、リンの精神的な負担を軽減すること。しかし、リンは気づいていた。その毎回仕掛けるギャグの裏に、深い「恐怖」が秘められていることを。それは、彼の道化師の仮面が、この世界の現実から目を背けるための「逃避」であることを示していた。彼の瞳の奥には、笑いの影に隠された、微かな震えが見えた。それは、久留米の古いお化け屋敷の、薄暗い奥から響く、子供の悲鳴のように、リンの胸をざわつかせた。

「タマキ、また変なこと言って……」 ジンが呆れたように言った。

「なんだよ、ジン! お前も笑っとけよ! 笑っときゃ、嫌なことなんて忘れられるんだからさ!」 タマキは、わざとらしく明るい声で言い返した。だが、その声には、どこか無理をしているような響きがあった。

 あるループの日の夜、リンは精神世界の片隅で、一人静かに空を見上げているタマキを見つけた。彼の顔から、いつもの笑顔が消え失せていた。その表情は、まるで深い絶望に囚われているかのようだった。

「タマキ……どうしたの?」 リンが声をかけると、タマキはビクリと肩を震わせた。 「……リンちゃんかよ。やめろよ、そんな真面目な顔で話しかけんなって。冗談抜きで、オレの魂が縮みあがっちまうぜ。」 タマキは、いつもの調子に戻そうと、わざとらしく笑った。しかし、その笑いは、すぐに途切れてしまう。

「タマキ。あなたは、何を恐れているの?」 リンの問いに、タマキはゆっくりと顔を伏せた。 「……このループが、終わらないことだよ。何度、ギャグを言っても、何度、笑っても……また、明日には、何もかも元通り。オレのギャグが、誰も救えないこと……それが、一番怖いんだ。」

 タマキの声は、震えていた。彼の身体から、微かな光の粒子が漏れ出しているのがリンには感じられた。それは、彼が耐え続けてきた「恐怖」が、具現化したかのようだった。その光は、久留米の川面を照らす、月明かりのように儚く、しかし確かな存在感を示していた。

「オレは……リンちゃんに、笑っててほしいんだ。どんな時でも、笑っててほしい。だから……オレは、道化を演じ続ける……。」 タマキは、そう呟いた。その言葉は、彼の「笑いと逃避」というテーマの真髄だった。彼にとって、ギャグは、恐怖から逃れるための手段であり、同時に、リンを笑顔にすることで、自分自身の存在意義を見出そうとする、切ない祈りでもあったのだ。

 その時、人格劇場の空間に、ノイズが走った。タマキの身体が、激しく明滅を繰り返す。 「やべぇな……そろそろ、限界か……」 タマキは、苦しそうに顔を歪ませた。

「タマキ! ギャグなんていいから、ここにいて!」 リンが叫んだ。

 タマキは、最後の力を振り絞って、リンに向かって、満面の笑みを向けた。それは、これまでのどんなギャグよりも、心からの笑顔だった。 「リンちゃん……最後に、最高のギャグ、聞いてくれよ……」 その言葉は、ノイズに掻き消された。

「……この世界は……オチがねぇんだよ……アッヒャッヒャッヒャ!」

 タマキは、そう言い残すと、光の粒子となって、精神世界に霧散した。彼の消失は、リンに、笑いの裏に隠された悲しみ、そして、ユーモアが、時に最も深い「逃避」となることを教えてくれた。リンは、タマキのギャグが、彼の恐怖から生まれた、切ない「祈り」だったことを悟った。


【短編12】No.31「ナナミ」の再登場

 タマキの笑いと恐怖が消え去った後も、ループは不変に続いた。精神世界の色彩はさらに薄れ、人格劇場は、まるで色褪せた写真のように、過去の残像を映しているかのようだった。リンの心には、失われた記憶の断片が、より鮮明に浮かび上がり始めていた。

 あるループの日の午後。リンは、人格劇場の片隅で、見覚えのある少女の姿を見つけた。長い黒髪を揺らし、どこか儚げな雰囲気を纏った少女。彼女は、リンがこの精神世界に囚われるきっかけとなった、死んだはずの人格、No.31ナナミだった。リンの記憶では、ナナミは王の攻撃からリンを庇い、その命を散らしたはずだった。その時の、血の匂いと、冷たくなったナナミの肌の感触が、鮮明にリンの脳裏に蘇る。

「ナナミ……?」 リンが、震える声でその名を呼ぶと、少女はゆっくりとリンに顔を向けた。その瞳は、リンを捉えているのに、どこか遠くを見ているかのようだった。彼女の顔には、微かな微笑みが浮かんでいたが、その笑顔は、どこか寂しげで、久留米の夕暮れのように、切ない影を落としていた。

「リンさん……久しぶり、ですね。」 ナナミの声は、まるで風鈴の音のように透き通っていた。しかし、その声には、リンの知るナナミのような、溌溂とした響きはなかった。

 ナナミの再登場は、リンにとって大きな衝撃だった。彼女は、王の攻撃によって消滅した人格のはず。それなのに、なぜここにいるのか? それは、この世界の「死」が、単なる終わりではないことを示唆していた。ナナミは、リンの心の中に残された、「消えた記憶」の具現化だったのだ。

「ナナミ、どうしてここにいるの? あなたは、あの時……」 リンが言葉を詰まらせると、ナナミは首を傾げた。 「あの時……? 私、ずっとここにいましたよ。リンさんのそばに。」

 ナナミの言葉に、リンは戦慄した。彼女には、リンとの死別の記憶が、一切ないのだ。それは、リンの記憶が曖昧になっているのか、それとも、このループが、ナナミの記憶までも改変しているのか。不安が、リンの胸を締め付ける。久留米の古い時計台の鐘が、リンの心臓のように重く響いた。

 その日の夜、王の使いによる襲撃があった。激しい戦闘の中、ナナミは、まるで導かれるように、王の幻影に近づいていく。

「ナナミ! 何をしているの!?」 リンが叫んだ。

 ナナミは、リンを振り返り、優しく微笑んだ。その笑顔は、リンが記憶するナナミの、慈愛に満ちた笑顔だった。 「リンさん……私、リンさんの記憶の、一部なんですよね。」

 ナナミの言葉に、リンは息を呑んだ。彼女は、自身の存在が、リンの「消えた記憶」であることを自覚していたのだ。 「私……リンさんの、大切な記憶を、守りたいんです。」

 ナナミは、王の幻影に向かって、両手を広げた。彼女の身体から、淡い光が溢れ出す。それは、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの光だった。その光は、久留米の夜空に輝く、花火のように美しく、しかし儚かった。

「ナナミッ! やめて! また消えちゃう!」 リンが叫んだ。

 ナナミは、リンに、最後の言葉を投げかけた。 「消えても……また、会えますよ。だって、私は……リンさんの、記憶ですから……。」

 その言葉と共に、ナナミの身体は、光の粒子となって、王の幻影の中に吸い込まれていった。彼女の消失は、以前のように悲劇的なものではなく、どこか穏やかで、まるで、記憶のピースが、元の場所に戻っていくかのようだった。

 残されたのは、リンの心に刻まれた、「消えた記憶」の謎だった。ナナミの再登場と消失は、この世界の「死」が、単なる終わりではないこと、そして、記憶が、形を変えて存在し続けることをリンに示唆した。リンは、ナナミの言葉から、自身の記憶の奥に、まだ多くの「真実」が隠されていることを悟った。


【短編13】No.60「ココロ」の不在

 ナナミの消えた記憶がリンの意識に新たな謎を残した後も、ループは変わらず続いた。精神世界の白く濁った部分はさらに広がり、人格劇場は、まるで古い廃墟のように、静かで、そして重い空気に包まれていた。リンの心には、記憶の断片が、より混沌とした形で浮かび上がり始めていた。

 このループは、どこか奇妙だった。いつもの賑やかさがない。マリオンの冷静な指示もない。ジンの怒鳴り声も聞こえない。そして、最も異常なのは、主人格であるはずの「No.60ココロ」が、どこにも見当たらないことだった。ココロは、リンの心の中の「感情」と「核」を司る、最も重要な人格のはずだった。彼女の不在は、まるで久留米の街から、突然「心臓」が消え去ったかのような、言いようのない不安をリンにもたらした。

「ココロ……どこにいるの?」 リンは、何度もココロの名を呼んだ。だが、返事はない。人格劇場の中をいくら探し回っても、ココロの姿は見当たらない。他の人格たちも、ココロの不在には気づいているようだったが、そのことについて言及しようとはしない。まるで、触れてはいけない禁忌であるかのように、皆、顔を伏せている。

 リンは、ココロの不在が、このループの「異常」であることを直感した。彼女の不在は、リン自身の「感情の喪失」を意味しているかのようだった。リンは、自分の感情が、どこか遠くに行ってしまったかのような、薄い膜に覆われている感覚があった。喜びも、悲しみも、怒りも、全てが遠い。それは、リンが自身の「感情の核」に到達するための「不在の試練」だった。

「ココロ……出てきてよ。私、不安だよ。」 リンは、一人、人格劇場の中心で呟いた。だが、答えはない。

 その日の王の使いによる襲撃も、どこか違っていた。王の幻影は、いつもより弱々しく、攻撃も散漫だった。まるで、王自身も、ココロの不在によって、その力を弱めているかのようだった。王は、どこか淋しげな、久留米の曇り空のような雰囲気を纏っていた。

 戦闘中、リンは、ふと、自分の心の奥底に、微かな「空洞」があることに気づいた。そこは、リンの感情が、本来宿るべき場所だった。そして、その空洞のさらに奥に、微かな、しかし確かな「声」が聞こえた。

「……リン……」 それは、ココロの声だった。だが、弱々しく、か細い。

 リンは、自身の心の奥底へと意識を集中させた。すると、その空洞の奥に、ココロの姿が見えた。彼女は、まるで繭に包まれているかのように、光の粒子に覆われていた。彼女の表情は、苦痛に歪んでいた。

「ココロ! どうしたの!?」 リンが叫んだ。

「リン……私の……感情が……バラバラに……」 ココロの声は、途切れ途切れだった。彼女は、王の精神干渉によって、その「感情」を細かく砕かれ、精神世界のあちこちに散らばっているようだった。彼女の身体は、崩れ落ちる砂のように、少しずつ形を失いつつあった。焦げ付くような精神エネルギーの匂いが、空洞の中に充満する。

「私がいなければ……リンの感情は……失われる……」 ココロは、そう呟いた。彼女の消失は、リンの「感情」の喪失を意味する。それは、リンが、自身の感情と向き合い、それを統合するための、避けられない「喪失」だった。

 リンは、ココロに手を伸ばした。 「ココロ! 私が、あなたの感情を集める! 絶対に、あなたを一人にしない!」

 リンの言葉に、ココロの瞳に、微かな光が戻った。それは、リンの「意思」が、ココロの砕けた感情を集めようとしていることを示す光だった。

「リン……ありがとう……。」

 ココロは、そう言い残すと、その身体を光の粒子に変え、リンの意識の奥底に散らばっていった。彼女の消失は、他の人格たちとは異なり、肉体的なものではなかった。彼女は、リンの意識の中に、無数の「感情の欠片」として、再構築されたのだ。

 残されたのは、リンの心に、「感情の喪失」と「再構築」という課題だった。ココロの不在は、リンに、自身の感情が、いかに自身の存在にとって不可欠であるか、そして、失われた感情を、自らの手で集め、再統合することの重要性を教えてくれた。リンは、ココロの言葉から、自身の感情の核が、まだ、自身の中に存在していることを悟った。


【短編14】No.39「クレア」の魔導試験

 ココロの感情がリンの意識に散らばった後も、ループは不変に続いた。精神世界の白く濁った部分はさらに広がり、人格劇場は、まるで色を失った夢のように、不気味な静けさに包まれていた。リンの心には、感情の欠片が、より混沌とした形で散らばり、時折、唐突な感情の波が押し寄せてくることもあった。

 このループの朝、リンは病室の窓の外に、奇妙な光景を目にした。久留米の空には、いつもと同じ雲が浮かんでいるはずなのに、その一部が、まるで燃えているかのように赤く染まっていた。そして、遠くから、何かを燃やすような匂いが、微かに漂ってくる。それは、魔力特有の、焦げ付くような硫黄の匂いだった。

「ふん。ようやく、私の力が、この世界に干渉できるようになったわね。」 病室のドアが開くと、そこに立っていたのは、No.39クレアだった。彼女は、魔導師人格。リンの心の中の「力」と「知性」を司る存在だった。彼女の瞳は、鋭い知性を宿し、その指先からは、微かな魔力が放出されているのがリンには感じられた。

 クレアは、この無限ループの中で、自身の魔法の力を試すことに執着していた。彼女は、ループが繰り返されるたびに、様々な魔法の実験を行い、その「力」がこの精神世界に、どこまで影響を与えるかを試みていたのだ。彼女の目的は、この世界の構造を魔法で破壊し、ループから脱出する糸口を見つけること。その実験は、常に危険を伴っていた。彼女は、自身の知性と力を信じ、論理的な思考でこの世界に挑んでいた。

「クレア、あの赤い空は……あなたなの?」 リンが尋ねると、クレアはフンと鼻を鳴らした。 「ええ。少々、魔力を込めすぎたかしらね。この世界は、私が思っていたよりも、脆いわ。」 彼女の声には、知的な傲慢さと、微かな興奮が混じっていた。

 その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、これまでのどのループとも違っていた。王の幻影が現れた途端、クレアは、その手に巨大な炎の塊を生み出した。それは、リンの見たこともないほど強力な魔法だった。炎は、まるで生き物のように蠢き、人格劇場全体を焼き尽くす勢いで広がる。久留米の夏祭りの花火のように、壮大で、しかし危険な輝きだった。

「クレア! 何をしているの!?」 リンが叫んだ。

「見なさい、リン! 私の力で、この偽りの世界を、燃やし尽くしてやるわ!」 クレアは、冷酷な声でそう言い放った。彼女の瞳には、燃え盛る炎が映し出され、その知性が、狂気にも似た光を放っていた。彼女の目的は、この世界を破壊すること。それによって、リンをループから解放しようとしていたのだ。その強引な手段は、リンの心に、力の暴走の危険性を示していた。

 炎は、人格劇場全体を包み込み、壁や床を焼き尽くしていく。人格たちは、炎から逃げ惑い、恐怖に叫び声を上げた。炎の熱が、リンの皮膚を焼くように感じられた。焦げ付くような匂いが、リンの鼻腔を刺激する。

 王の幻影も、クレアの炎によって、少しずつその形を歪めていく。だが、完全に消滅することはない。王の力は、クレアのそれを上回っていた。

「くそっ、まだ足りないというの!?」 クレアは、歯噛みした。彼女は、さらに魔力を集中させようとした。しかし、その時だった。

 ゴオオオオオッ!!

 クレアの身体から、制御不能な魔力が噴き出した。彼女の身体が、炎に包まれていく。それは、彼女自身の魔力に、彼女自身が焼き尽くされているかのようだった。彼女の知性は、その力の暴走を止められない。

「クレアッ!」 リンが叫んだ。

 クレアは、炎の中で、リンに顔を向けた。その表情は、苦痛に歪んでいたが、その瞳には、最期まで「知性」の光が宿っていた。 「リン……この世界を、燃やし尽くすのは……貴方しか、いない……」

 その言葉と共に、クレアの身体は、爆発するように炎と共に消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「力と知性」の限界という課題だった。クレアは、自身の力を過信し、その結果、自らを焼き尽くした。彼女の消失は、リンに、力とは、単なる破壊の道具ではないこと、そして、真の知性とは、力を使うことだけでなく、それを制御することにあると教えてくれた。リンは、クレアの言葉から、このループを終わらせるための「力」が、自分自身の内にあることを悟った。


【短編15】No.66「フユカ」の断片予知

 クレアの魔導が世界を焼き尽くし、その破壊の代償がリンの心に刻まれた後も、ループは不変に続いた。精神世界の白く濁った部分は、もはや人格劇場全体を覆い尽くし、全てが霞んだ薄墨色に染まっていた。リンの心には、力の暴走の記憶が、熱い炎の残像となって残っていた。

 このループの朝、リンは病室のベッドに座り込む一人の少女の姿を見つけた。No.66フユカ。彼女は、予知夢人格。リンの心の中の「未来視」を司る存在だった。彼女は、両手で顔を覆い、その身体は小刻みに震えていた。その震えは、久留米の冬の寒さのように、リンの心にも伝わってきた。

「フユカ……どうしたの?」 リンが声をかけると、フユカはゆっくりと顔を上げた。その瞳は、恐怖に大きく見開かれ、まるで何かに怯えているかのようだった。

「見えちゃったの……リンちゃん……」 フユカの声は、震えていた。 「未来が……このループの、未来が……崩れてる……」

 フユカは、この無限ループの中で、すでにループ内の“未来”が崩れ始めていることを予知していた。彼女の予知は、断片的なもので、具体的な内容を読み取ることはできない。しかし、彼女の目に映る未来は、これまでのループとは明らかに異なり、ノイズが走り、歪んでいたのだ。それは、このループが、王の精神干渉によって、変質し始めていることを示唆していた。彼女は、王の精神世界そのものが、不安定になり始めていることを知っていた。その事実は、リンに、新たな不安をもたらした。

「未来が崩れるって、どういうこと?」 リンが問いかけると、フユカはさらに顔を歪ませた。 「分からない……でも、人格たちが……消えたり、現れたり……これまでになかった、未来が見えるの……。王の……視線が……強くなってる……」

 フユカの声は、恐怖と混乱に満ちていた。彼女は、見えすぎることで、その精神を病んでいたのだ。彼女の身体からは、微かな電気的なノイズが放出されているのがリンには感じられた。それは、彼女の「未来視」の力が、王の干渉によって乱されている証拠だった。

 その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、予期せぬ形で現れた。王の幻影が、二つ、三つと同時に出現したのだ。それは、これまでのループではありえないことだった。王の力は、確かに不安定になっている。しかし、それが、リンにとって有利なのか、不利なのか、リンには判断できなかった。

「フユカ……これが、あなたが見た未来なの?」 リンがフユカに尋ねると、フユカは、震える声で答えた。 「うん……でも、これだけじゃない……もっと、怖いものが……見えてるの……」

 その時、王の幻影の一つが、フユカに向かって触手を伸ばした。 「フユカッ!」 リンが叫んだ。フユカは、恐怖にすくみ上がり、その場から動けない。

「お前は……我らの未来を、歪める存在……」 王の声が、精神世界全体に響き渡る。

 フユカは、王の触手に捕らえられた。彼女の身体が、激しく痙攣する。その瞳から、無数の光の筋が溢れ出し、彼女の脳内で見た「未来」の映像が、リンの視界に断片的に飛び込んできた。それは、人格たちが次々と消えていく、凄惨な光景だった。久留米の街が、炎に包まれ、人々が悲鳴を上げている。

「リンちゃん……見て……! 未来が……」 フユカは、苦痛に顔を歪ませながら、リンに手を伸ばした。

 その言葉と共に、フユカの身体は、無数の光の断片となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「未来視」の恐怖だった。フユカは、見えすぎるがゆえに、この世界の崩壊を予期し、その恐怖に耐えられなかった。彼女の消失は、リンに、未来を知ることの重さ、そして、見えない未来にこそ、希望があることを教えてくれた。リンは、フユカの言葉から、このループの「終わり」が近づいていることを悟った。


【短編16】No.98「シズカ」の手紙

 フユカの断片的な未来視がリンの心に新たな恐怖を刻んだ後も、ループは不変に続いた。精神世界の薄墨色はさらに濃くなり、人格劇場は、まるで霧に包まれた幻のように、輪郭が曖昧になっていた。リンの心には、不確定な未来への不安が募り、五感は常に張り詰めていた。久留米の霧深い朝のような、重く湿った空気がリンの精神を圧迫する。

 このループの朝、リンは病室のベッドサイドテーブルに、見慣れない「手紙」が置かれていることに気づいた。それは、普通の紙ではなく、まるで雲のように淡く、触れると微かに震えるような不思議な素材でできていた。どこか懐かしい、墨のような匂いがする。

「……何、これ?」 リンが手紙を手に取ると、背後から、静かで、しかし確かな声がした。 「それは、貴方への……『便箋』です。」 振り返ると、そこに立っていたのは、No.98シズカだった。彼女は、外部接触人格。リンの心の中の、「世界の外」との繋がりを司る存在だった。彼女の表情は、常に穏やかで、まるで久留米の古刹の仏像のように、静謐な雰囲気を纏っていた。

「外部から……?」 リンが問いかけると、シズカはゆっくりと頷いた。 「はい。この精神世界は、王によって閉じられています。しかし、私の力は……その境界を超え、世界の外から、この便箋を届けることができました。」

 シズカの言葉に、リンは衝撃を受けた。この精神世界は、王によって完全に閉じられているはずだった。それなのに、外部からの接触が可能だというのか? それは、この世界の構造に、新たな穴があることを示唆していた。シズカの目は、静かに、しかし遠くを見つめていた。まるで、久留米の山々を見下ろす、遥かな眼差し。

「手紙の中には、何が書いてあるの?」 リンが尋ねると、シズカは首を傾げた。 「私には、その内容を知ることはできません。それは……『リン』である貴方自身が、読み解くべきものですから。」

 リンは、手紙を開いた。中に書かれていたのは、リン自身の「記憶」だった。しかし、それは、これまでのループでリンが見てきた断片的な記憶とは異なっていた。そこには、リンが「王」と出会う以前の、久留米での日常が、鮮明に描かれていた。友人との会話、学校での出来事、家族との団欒。そして、リンが、なぜこの精神世界に閉じ込められたのか、その「原因」を示唆するような言葉が、散りばめられていた。手紙の文字は、誰かの手書きで、インクの匂いが微かに鼻をくすぐる。

 それは、リンが「本来の自分」を取り戻すための、重要なヒントだった。しかし、手紙は、途中で途切れていた。まるで、何者かの手によって、強制的に中断されたかのように。

 その時、人格劇場の空間に、激しいノイズが走った。王の幻影が、シズカに向かって、漆黒の触手を伸ばす。 「許さぬ……! 我が領域に……外部からの干渉を……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。その怒りは、久留米の活火山が噴火するような、圧倒的な力だった。

「シズカッ! 危ない!」 リンが叫んだ。

 シズカは、王の触手に向かって、静かに手を広げた。彼女の身体から、淡い光が放出される。それは、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、穏やかな光だった。

「私は……貴方に、真実を、届けたかった……」 シズカの声は、静かで、しかし確かな響きを持っていた。

 王の触手が、シズカの身体を捕らえた。彼女の身体が、激しく痙攣する。しかし、彼女の表情は、最後まで穏やかだった。 「リン……この世界は……『現実』と……繋がっています……。」

 その言葉と共に、シズカの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの手に握られた、途切れた手紙と、リンの心に刻まれた、「外部接触」の可能性という課題だった。シズカは、命を賭して、リンに「外の世界」の存在と、この精神世界が「現実」と繋がっていることを教えてくれたのだ。リンは、シズカの消失から、このループの真の目的が、この精神世界からの「脱出」であることを悟った。


【短編17】No.74「トウマ」の異常観測

 シズカの手紙がリンに「外の世界」の存在を示唆した後も、ループは不変に続いた。精神世界の霧はさらに濃くなり、人格劇場は、まるで蜃気楼のように、歪んだ影を落としていた。リンの心には、現実と精神世界の境界線が曖昧になり、自身の存在が揺らいでいくような感覚があった。

 このループの朝、リンは病室の窓の外に、奇妙な光景を目にした。久留米の街並みが、いつもと変わらないはずなのに、その一部が、まるで透明なフィルターがかかったかのように、淡く透けて見えていた。その向こうには、別の風景が、ぼんやりと浮かび上がっている。

「……見えていますか、リンさん。」 病室の隅から、静かな声がした。そこに立っていたのは、No.74トウマだった。彼は、観察者人格。リンの心の中の「視点の外側」を司る存在だった。彼の瞳は、常にこの精神世界を、そして、その外側を、冷静に見つめていた。彼の表情は、感情を一切表さず、まるで久留米の古い肖像画のように、静かで、しかし確かな存在感を示していた。

「トウマ、あれは……?」 リンが、窓の外を指差して尋ねると、トウマはゆっくりと頷いた。 「あれは、この世界の『境界線』です。王は、この精神世界を、自身の『目』によって完全に支配しています。しかし、私の力は、その『目』から逃れ、王の視点の外側から、この世界を観測することができます。」

 トウマの言葉に、リンは衝撃を受けた。王は、この精神世界全てを見通しているはずだった。だが、トウマは、その「目」から逃れ、隠された真実を観測しているというのか? それは、王の支配が、完全ではないことを示唆していた。トウマの視線は、リンの意識の奥深くまで届くような、鋭い光を宿していた。

「王の視点の外側で、何が見えるの?」 リンが問いかけると、トウマは、感情を排した声で答えた。 「この世界の『真の姿』です。そして……王の『弱点』も。」

 トウマは、このループの中で、王の監視の目を掻い潜り、精神世界の「異常」を記録し続けていた。彼が持つタブレットには、王の視線が届かない「死角」で発生しているグリッチや、消滅した人格たちの「残滓」が、詳細に記録されていた。それは、リンがこの世界を理解し、王を打ち倒すための、重要な情報だった。彼の一挙手一投足は、まるで、久留米の古い図書館で、誰も知らない真実を探し続ける学者のようだった。

 その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、いつもと変わらないように見えた。だが、リンには分かった。トウマが、この戦闘の裏で、王の「死角」を観測し続けているのだと。王の幻影は、トウマの存在に気づいているのか、常にその視線を人格劇場全体に巡らせていた。

「トウマ、王の弱点って、何なの!?」 リンが、心の中でトウマに問いかけた。

 トウマは、王の視線がリンから逸れた一瞬、小さく呟いた。 「……王は……『鏡』……」

 その言葉は、ノイズに掻き消された。その瞬間、王の幻影が、トウマの存在に気づいたかのように、その視線をトウマに集中させた。 「見つけたり……我の目を欺く者よ……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。

 王の漆黒の触手が、トウマに向かって猛然と襲いかかる。 「トウマッ! 逃げて!」 リンが叫んだ。

 トウマは、王の触手に向かって、静かにタブレットを掲げた。彼の身体から、淡い光が放出される。それは、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、穏やかな光だった。

「私は……全てを……観測しました……。」 トウマの声は、静かで、しかし確かな響きを持っていた。

 王の触手が、トウマの身体を捕らえた。彼の身体が、激しく痙攣する。しかし、彼の表情は、最後まで穏やかだった。 「リン……貴方は……貴方自身の……『真実』を……」

 その言葉と共に、トウマの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「視点の外側」という課題だった。トウマは、命を賭して、リンに王の「真の姿」と、その「弱点」を示唆してくれたのだ。リンは、トウマの消失から、王が「鏡」であること、そして、その「真実」が、自分自身の内にあることを悟った。


【短編18】No.28「カスミ」の足音

 トウマの異常観測がリンに王の真実を示唆した後も、ループは不変に続いた。精神世界の霧はさらに濃くなり、人格劇場は、まるで幽霊屋敷のように、静かで、そして不気味な空気に包まれていた。リンの心には、王が「鏡」であるという謎が、深く刻み込まれていた。

 このループの朝、リンは病室のベッドで、奇妙な「音」に気づいた。それは、病室の廊下を、誰かが静かに歩いているような「足音」だった。しかし、その足音は、非常に微かで、まるで幻聴のように聞こえる。そして、リンが耳を澄ませても、その足音は近づいてくることも、遠ざかることもなく、ただ、そこに「存在」しているかのようだった。久留米の古い木造校舎の廊下を、誰もいないはずなのに、誰かが歩いているような、そんな錯覚に似ていた。

「誰かいるの?」 リンが声をかけると、足音はぴたりと止んだ。返事はない。

 リンは、病室のドアを開けた。廊下には、誰もいない。だが、リンには、確かに「気配」を感じることができた。それは、まるで、空気そのものが、微かに震えているような感覚だった。この気配の主は、No.28カスミだった。彼女は、忍び人格。リンの心の中の「隠密」と「存在感」を司る存在だった。

 カスミは、この無限ループの中で、一切姿を見せず、気配だけで存在感を示していた。彼女は、王の監視の目を掻い潜り、精神世界のどこかに潜んでいるのだ。その存在は、常にリンの意識の片隅にあり、しかし、その姿を現すことはなかった。彼女の目的は、リンを陰から守ること。その存在は、リンにとって、見えない「守護者」であり、同時に、この精神世界に、まだ見ぬ「真実」が隠されていることを示唆していた。彼女の気配は、風の音に溶け込み、土の匂いの中に紛れ込むように、巧みに隠されていた。

「カスミ……あなた、そこにいるの?」 リンが問いかけると、微かな「風の音」がした。それは、肯定の返事のようにも、否定の返事のようにも聞こえた。

 あるループの日の夜、リンは精神世界の最深部で、王の幻影に追い詰められていた。王の漆黒の触手が、リンに向かって猛然と襲いかかる。その時だった。

 ヒュッ!

 王の触手の一つが、突然、宙を斬り裂くような音を立てて、弾き飛ばされた。リンの視界には、何も見えない。しかし、確かにそこに、何かが「存在」した。それは、風の刃のようにも、鋭い爪のようにも感じられた。

「何者だ……!?」 王の声が、精神世界全体に響き渡る。王は、目に見えない存在に、苛立ちを隠せないようだった。その怒りは、久留米の地底を揺るがすような、重く鈍い響きを持っていた。

 再び、王の触手がリンに迫る。そして、その触手がリンに届く寸前、

 シュッ!

 またしても、何者かの手によって、王の触手が弾き飛ばされた。リンには、その動きが、まるで瞬間移動のように見えた。その時、リンの耳元で、微かな「囁き」が聞こえた。

「……リンさん……貴方を……守ります……」 それは、カスミの声だった。消え入りそうなほど微かで、しかし、確かな意志が込められていた。その声は、久留米の静かな夜に響く、虫の音のように、かすかに、しかし確かに存在を主張していた。

 そして、カスミは、王の幻影の背後に、一瞬だけ「影」として現れた。彼女は、王の背後から、王の「真の核」に向かって、何かを投げつけた。それは、目に見えない光の刃だった。

 ギュルルルルッ!

 王の幻影が、苦痛に歪んだ。王の身体から、漆黒の靄が激しく噴き出す。王は、自分自身を視認できない存在に、激しい怒りを覚えているようだった。

 その瞬間、カスミの身体は、完全に「気配」となって、精神世界に霧散した。彼女は、王に自分の存在を知られることを避け、完全に「隠密」のまま消滅したのだ。残されたのは、リンの心に刻まれた、「忍びの存在」と「見えない守護」という課題だった。カスミは、命を賭して、リンを陰から守り、王の「真の核」に傷を与えてくれたのだ。リンは、カスミの消失から、目に見えない存在の強さ、そして、真の力は、必ずしも視認できるものではないことを悟った。


【短編19】No.58「コヨミ」の誕生日

 カスミの見えない守護がリンに新たな力を与えた後も、ループは不変に続いた。精神世界の霧はさらに濃くなり、人格劇場は、まるで忘れ去られた遊園地のように、静かで、そして寂しい空気に包まれていた。リンの心には、目に見えない存在の強さという真実が、深く刻み込まれていた。

 このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、枕元に、小さな「プレゼント」が置かれていることに気づいた。それは、色とりどりのリボンで飾られた、手のひらサイズの箱だった。甘く、どこか懐かしい、ケーキの匂いがする。

「……誕生日?」 リンが首を傾げると、病室のドアが控えめに開いた。そこに立っていたのは、No.58コヨミだった。彼女は、記念日人格。リンの心の中の「喜び」と「虚しさ」を司る存在だった。彼女の顔は、満面の笑みで、その瞳は、キラキラと輝いていた。まるで、久留米の子供たちが、誕生日を心待ちにするような、純粋な輝きだった。

「リンちゃん、お誕生日おめでとう! 今日で、70回目のお誕生日だね!」 コヨミは、満面の笑顔でそう言い放った。その声は、久留米の町の祝福のように、明るく、しかし、リンにはどこか「虚しさ」を感じさせた。

 リンは、コヨミの言葉に、ゾッとした。70回目? そうか、この無限ループの中で、リンの誕生日も、70回目の“同じ誕生日”を祝っているのか。コヨミは、毎ループ、リンの誕生日を、変わらぬ笑顔で祝い続けているのだ。それは、彼女なりの「喜び」の表現であり、同時に、この無限の繰り返しの中で、次第に麻痺していく「感情」と、それに伴う「狂気」を具現化した存在だった。彼女の瞳の奥には、喜びの影に隠された、深い「虚しさ」が見えた。それは、久留米の古い写真館に飾られた、何十年も前の、色褪せた家族写真のように、切なく、そして、どこか滑稽だった。

「コヨミ……本当に、70回目なの?」 リンが尋ねると、コヨミは首を傾げた。 「もちろん! 毎年、同じ日だからね! リンちゃん、何言ってるの?」 その声は、何の疑いも抱いていなかった。彼女は、この無限の誕生日を、純粋に「喜び」として受け入れていたのだ。

 その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃も、コヨミにとっては「誕生日のお祝い」の一部だった。彼女は、王の幻影に向かって、花吹雪を撒き散らし、歌を歌い始めた。

「ハッピーバースデートゥーユー! ハッピーバースデートゥーユー!」 コヨミの歌声は、戦闘の喧騒の中に、どこか場違いに響き渡る。それは、狂気と純粋さが混じり合った、異様な光景だった。その歌声は、リンの耳には、子供の無邪気な歌声のように聞こえ、同時に、心の奥底で響く、諦めのような音にも聞こえた。

 王の幻影は、コヨミの歌声に、一瞬、戸惑ったかのように動きを止めた。しかし、すぐに、その顔に怒りの表情が浮かんだ。 「愚かなり……この状況で、歌を歌うか……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。

 王の漆黒の触手が、コヨミに向かって猛然と襲いかかる。 「コヨミッ! 逃げて!」 リンが叫んだ。

 コヨミは、王の触手に向かって、満面の笑顔を向けた。 「リンちゃん、見て! 王様も、私のお祝いに参加してくれたみたい!」 彼女は、最後までこの状況を「喜び」として認識していた。

 王の触手が、コヨミの身体を捕らえた。彼女の身体が、激しく痙攣する。しかし、彼女の表情は、最後まで笑顔だった。その瞳には、光が宿り、まるで、子供が初めて誕生日ケーキのロウソクを吹き消す時のように、純粋な輝きを放っていた。

「リンちゃん……また、来年も、お祝いしようね……」

 その言葉と共に、コヨミの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「記念日の狂気」と「純粋な虚しさ」という課題だった。コヨミは、狂気に満ちた世界で、純粋な喜びを追い求め、その結果、虚しさの中に消えていった。彼女の消失は、リンに、感情の真実と、現実を受け入れることの重要性を教えてくれた。リンは、コヨミの笑顔の裏に隠された、深い悲しみと狂気を理解した。



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