囚われの時、囚われの私
目を覚ますと、そこは白い病室だった。乾いたシーツのざらつきと、僅かに湿った枕の冷たさ。鼻腔をくすぐる、埃と消毒液の薄い匂い。窓の外からは、遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる。リンには、それが久留米の、ごくありふれた日常の音だと分かっていた。だが、全てが「同じ」だった。昨日と同じ空の色、同じ雲の形、同じ鳥のさえずり。そして、部屋の壁にかけられた時計の針は、常に午後11時59分で止まっている。
「……また、この時間だ。」
リンは呟いた。王に触れ、仲間の人格――その時はナナミが喰われかけたが、リンが救おうとして失敗し、逆に王の深い精神世界へと引きずり込まれたあの日から、リンは「王に囚われている精神世界」に閉じ込められていた。ここは、夢のような空間で、“同じ1日”が、記憶を持ったリンを置いて、何度も何度も繰り返されるのだ。
毎朝、目覚めてすぐ、リンは精神世界に存在する「人格劇場」へと足を運ぶ。緞帳が上がると、そこにはリンの99の人格たちが、それぞれの席に座り、舞台に立つリンを見つめている。彼らはいつもと変わらぬ会話を交わす。しかし、リンだけが知っている。この会話が、これまでに何千、何万回と繰り返されてきた“同じ会話”であることを。
「今日も始まりましたわね、本体の『記憶再構成』の幕が。」 マリオンの言葉は、いつもと寸分違わない。だが、その声の奥に、ほんの微かな「歪み」を感じる。気のせいか。
「くっそ、またこの一日かよ! いい加減飽き飽きだぜ!」 ジンの口から出る苛立ちの言葉も、同じだ。彼の指先が、無意識に口の端に広がる鉄の味を探っていた。しかし、時折、彼の目が虚ろになる瞬間があった。リンが話しかけると、一瞬だけ、別の言葉を口にしかけるような。
このループからの脱出条件は、既にマリオンから伝えられている。「誰かの“本当の名前”を見つけること」。それは、人格の核となる「未練」を理解し、その魂の根源に触れることだった。だが、ループが繰り返されるにつれて、精神世界は次第に狂気を帯びていく。
「おかしいわ……マリオン、さっきも同じことを言わなかった?」 ある日、リンは不意に疑問を口にした。
マリオンは、瞬き一つせずリンを見つめる。 「何をおっしゃいます、本体。私は、今初めてこの言葉を口にしましたわ。」
だが、次の瞬間、マリオンの顔が、グリッチ(バグ)を起こしたかのように、一瞬だけ歪んだ。ノイズがリンの脳内に走る。誰が本物で、誰が偽物なのか。人格たちの言動は、微妙に、しかし確実に変化し始めていた。同じ会話を繰り返すはずの人格たちのセリフに、これまでになかった一言が挿入されたり、順番が入れ替わったりする。それは、この無限ループが、単なる反復ではないことの、恐ろしいルートヒントだった。
人格たちは、次第に壊れ始める。 あるループでは、リンが目覚めると、数人の人格が突然、光の粒子となって消えていた。 また別のループでは、二つの人格が抱き合うように融合し、見たこともない別人格が生まれることもあった。その度に、リンの精神世界は、ガラスが砕け散るような音を立て、視界が歪んだ。精神世界の崩壊が進んでいく演出は、リンの認知を混乱させ、読者にも「何が現実か」を問いかけているようだった。
「これ以上、誰かを忘れたくない……!」
リンは何度も叫んだ。この無限の繰り返しの中で、人格たちが一人、また一人と消えていくのは、まるで自分の記憶が、少しずつ削り取られていくかのようだった。しかし、その喪失感と絶望の先に、リンはループの「目的」を見出すことになる。これは、物語の「中盤の最大クライマックス」。王の言葉の真意、そしてリン自身の「存在」「アイデンティティ」を問う、試練の場なのだと。そして、失われていく人格たちとの別れは、リンの感情を深く揺さぶり、彼女を成長させていくための、避けられない過程だった。
リンは、この無限のループの中で、様々な人格たちとの短編エピソードを経験した。