王の言葉と、精神世界の崩壊
久留米市東区画、『記憶の泉』。 かつて多くの知識と歴史を収めていた資料館は、今や崩壊の一途を辿っていた。カエデが命を賭して引き出した情報に従い、リンたちはここに到達した。しかし、そこに待ち受けていたのは、無数の“時喰い”の尖兵、そして――。
「ようこそ、我が記憶の牢獄へ。」
低く、しかし空間の全てを支配するような声が響き渡った。その声の主は、間違いなく「王」だった。資料館の最奥、最も重要な記録が保管されていたはずの中央広間に、彼はいた。漆黒のローブは周囲の光さえ飲み込み、その姿は輪郭すら曖昧だ。フードの奥から、無数の光点がリンを射抜くように輝いている。それは、これまで喰らってきた無数の記憶の残滓だろうか。その光の奥には、底知れない飢餓と、そして、どこか諦めのような感情が渦巻いているように感じられた。
リンの脳内では、マリオンが「気をつけろ、リン! 次元が歪んでいる!」と警告の声を上げ、ジンが「これが王の本体か……! なんて圧だ!」と呻いていた。セツナは「計算不能……! これほどの精神エネルギー、観測史上初めてだ!」と狼狽していた。口の中に、ひどく乾燥した感覚が広がる。恐怖で、唾液さえ飲み込めない。
「貴様……リンに、何の用だ!」 マリオンが、警戒と怒りを込めて問いかけた。
王は、ゆっくりと、しかし確実にリンに向かって歩み寄ってきた。その足音は無く、まるで影が滑るようだった。
「用?……いや、これは再会だ。あるいは、ようやく見つけ出した、我が探し求める『鍵』との対面、か。」
王の声は、奇妙なほど穏やかだった。だが、その言葉には、リンの全身を凍てつかせるような、深い真実の響きがあった。王は、リンの目の前でぴたりと立ち止まった。そして、フードの奥から、無数の光点が一斉にリンの瞳に注ぎ込まれた。
「お前は、ここに来るべくして来た。」
王の声が、リンの脳内に直接響く。それは、人格たちの声とは異なり、リン自身の思考に深く、ねっとりとした闇を塗り込むようだった。
「お前は“自分の過去”を忘れたいから、ここにいる。この繰り返しの世界に、自ら望んで閉じこもっているのだ。」
王の言葉は、リンの心臓に直接、冷たいナイフを突き立てるかのようだった。リンの脳裏に、かつてないほどの激しい「ノイズ」が走り始めた。それは、人格たちの声が掻き消され、精神空間そのものが軋みを上げるような、不快な高音だった。まるで、壊れたラジオから流れる砂嵐のように、リンの思考を麻痺させていく。
「な……何を、言っているの……!?」 リンは、震える声で反論した。否定したい。そんなはずはないと。しかし、王の言葉には、リンの心の奥底に隠された、触れたくなかった真実が横たわっているかのような感覚があった。
「フフフ……否定するか。だが、その身体の震えが、全てを物語っている。お前は、自身の罪から逃れるため、記憶を捨て、この世界を無限に繰り返すことを選んだ。そして、その『忘れられた過去』こそが、我が食糧となるのだ。」
王が、ゆっくりと右腕を上げた。その腕から伸びた触手が、リンの頭部へと伸びてくる。リンは身動きが取れない。体の自由が、まるで絡め取られたかのように奪われていく。精神世界に走るノイズが、さらに激しさを増す。それは、久留米市を襲う激しい雷雨の音のように、リンの意識を叩きつけた。
「リン! 意識を保て! 奴の言葉に惑わされるな!」 マリオンの切迫した声が、ノイズの隙間から、かろうじて聞こえた。
「くそっ、体が動かねえ! このノイズは……精神攻撃か!?」 ジンが、歯ぎしりをしながら叫ぶ。
「解析不能! 精神世界の崩壊が始まる!」 セツナの声は、もはや悲鳴に近かった。
リンの視界が、ぐにゃりと歪んだ。目の前の王の姿が、万華鏡のように分裂し、無限に増殖していく。床が、壁が、天井が、まるで溶け出すように混じり合い、形を失っていく。それは、精神世界そのものが、王の言葉によって解体されていくかのようだった。
「お前は、私だ。そして、私は、お前だ。我々は、共に無限の時間を彷徨う宿命なのだ……。」
王の言葉が、リンの意識の核に、直接、深く突き刺さる。リンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、恐怖の涙か、それとも、触れられたくない過去の痛みの涙か。
次の瞬間、リンの全身を、強烈な光が包み込んだ。それは、王が放った記憶を喰らう光ではなかった。リン自身の精神世界が、自らを閉じ込めるように、内側から崩壊を始めたのだ。意識が、遥か深淵へと引きずり込まれていく。抵抗できない。
「リン! リンっ!」
マリオン、ジン、セツナ、そして、残された全ての人格たちの叫びが、遠く、そして小さくなっていく。リンの意識は、深く、暗い淵へと落ちていった。最後に感じたのは、乾いた空気と、焦げ付くような記憶の匂い。そして、耳に残る王の冷たい声だった。
――お前は、無限のループに囚われた。




