ルート22「カエデの欺き」
レイを失った痛みは、鉛のようにリンの心に重くのしかかっていた。脳内の人格空間は、以前にも増して重苦しい空気に満ちている。マリオンやジンといった戦闘人格たちは警戒を強め、セツナは新たな計算式を脳内で必死に構築しようとしていた。失われた命の重みが、リンの胸に焼き付いていた。
「このままでは、ジリ貧だ。奴らの数が多すぎる。しかも、物理攻撃はほぼ無効……何か、奴らの行動原理を逆手に取る方法はないのか?」
マリオンの声には、明確な焦りが滲んでいた。久留米の市街地では、記憶崩壊症がさらに深刻化し、人々の絶望が濃い霧のように街を覆い尽くしていた。遠くで聞こえるサイレンの音は、もはや誰も助けられない絶望の響きに聞こえた。
その時、リンの脳内に、どこか飄々とした、しかし有無を言わせぬ声が響いた。
「へぇ、そんなに困ってるんだ? じゃあさ、アタシに任せてみない? ちょっとばかし、悪い子ちゃんだけど、こういうのは得意なんだよねぇ。」
それは、No.22「カエデ」の声だった。詐欺師人格。その声には、人を食ったような、しかし妙に魅力的な響きがあった。
「カエデ!? お前、何を企んでいる!?」 ジンの声に、警戒の色が宿る。カエデは普段から他の人格をからかうような言動が多く、その真意を掴みかねる部分があった。
「企むなんて人聞きの悪い。ただ、ちょっとした『情報交換』ってやつさ。あのスカポンタンな“時喰い”どもを騙して、とっておきの情報、引き出してやるって言ってんの。」
カエデは楽しげに言う。リンの胸に迷いが生まれた。詐欺師、という響きに、本能的な嫌悪感を覚える。しかし、この絶望的な状況で、何か打開策があるのなら……。
「……カエデ。本当に、できるの?」 リンは、半信半疑で問いかけた。
「もちろん。アタシは詐欺師だよ? 嘘を真実に、真実を嘘に変えるのが仕事。あいつらが何を求めているか、その隙を突けばいい。」
カエデの声には、確かな自信があった。リンは決断した。この状況を打破するためには、どんな手段でも試さなければならない。
「……分かったわ、カエデ。お願い。」
リンの言葉に、カエデは満足げに笑った。
「そんじゃ、ちょいと失礼。」
リンの体が、カエデの意思によって動かされる。リンは、近くの倒壊したビルの影に身を潜めた。そして、通りかかった“時喰い”の尖兵の一体に、わざと足音を立てて気づかせた。
“時喰い”がリンの方に振り向く。触手が、リンめがけて伸びてくる。リンは、まるで恐怖に怯えたかのように震えながら、しかし、不敵な笑みを浮かべて見せた。
「あ、あなたたち、まさか……『王の真実』を知りたいの? だって、私、それ、知ってるんだよねぇ……」
カエデの声は、震えながらも、挑発的に響いた。リンの脳裏では、マリオンが「バカな! 正面から挑発するとは!」と焦りの声を上げ、セツナが「計算外だ!」と叫んでいる。しかし、カエデは意に介さない。
“時喰い”の動きが、ぴたりと止まった。フードの奥の無数の光点が、リンを凝視している。奴は、確かにリンの言葉に反応したのだ。
「……貴様、何を戯言を。」 “時喰い”の声が、冷たく響いた。
「戯言じゃないよ? 私はね、この世界の『記憶の管理者』なの。王様が何を喰らってるのか、何が目的なのか、全部知ってる。……もし知りたければ、ちょっとだけ、情報と交換してあげてもいいけど?」
カエデの言葉は、嘘と真実を巧妙に織り交ぜたものだった。リンの脳内では、人格たちが混乱し、ざわめいていた。
「おい、カエデ! 王の真実なんて、俺たちだって知らねえぞ!」 ジンの怒鳴り声。
「だから詐欺師なんでしょ? いいから黙って見てなさいって。」 カエデは、ジンの声を遮るように答えた。
“時喰い”が、ゆっくりとリンに近づいてくる。触手が、リンの顔のすぐそばまで伸びた。リンは、恐怖に顔を歪ませながらも、カエデの意思に従い、瞳の奥に確かな光を宿していた。
「……何を、望む。」 “時喰い”の声に、僅かな興味が滲んだ。
「簡単だよ。あなたたちが次に、どこへ向かい、何をしようとしているか。それだけ教えてくれれば、王の真実を教えてあげる。……もちろん、私の記憶からね?」
カエデは、悪魔のように囁いた。
“時喰い”は、しばらく沈黙した後、低い声で呟いた。 「……我々は、東区画の『記憶の泉』を狙う。そこに、この世界の『核』がある。それを喰らえば、記憶の崩壊は加速する。」
その情報に、リンの脳内でセツナが「『記憶の泉』!?」と叫んだ。東区画は、久留米市役所の近くにある、古くからの資料館がある場所だった。
「ふぅん、なるほどねぇ。ってことで、ごちそうさま!」
カエデはニヤリと笑うと、突然、リンの体をその場に置き去りにし、意識の奥へと引っ込んだ。
「なっ! カエデ、てめぇ!」 ジンの怒声が響く。
“時喰い”は、騙されたことに気づき、激しい怒りを露わにした。触手が、リンめがけて猛然と襲いかかる。リンは、体が鉛のように重く感じられた。カエデが、リンの意識から離れたことで、彼女の体は制御を失っていたのだ。
「カエデのやつ! 騙したのか!?」マリオンの声も、憤りに震えている。
リンは、複数の触手に捕らえられた。体が持ち上げられ、記憶を喰われる寸前だった。その時、ジンの叫びがリンの脳内に響いた。
「リン! てめぇ、何やってんだ! 馬鹿野郎、今すぐ体を動かせ!」
リンは朦朧とする意識の中で、必死に体を動かそうと藻掻いた。その時、脳内から、微かな声が聞こえた。それは、カエデの声だった。
「ごめんね、リン……。でも、こうするしか、なかったんだ……。」
カエデの声は、いつも飄々としていたはずなのに、今はひどく震えていた。リンの体に、僅かな力が戻る。それが、カエデが残した最後の意志だった。その力を振り絞り、リンは触手から脱出することに成功した。間一髪だった。
リンは地面に転がりながら、脳内に問いかけた。
「カエデ……! なぜ、そんなことを……!?」
リンの脳内は、人格たちの非難の声で満たされていた。
「嘘つき! 卑怯者め!」 「こんなやり方で、誰が信用できるものか!」
カエデは、他の人格たちからの罵声を浴びながらも、静かに、そして悲しげな声で答えた。
「……だってさ、みんな。あのままじゃ、どうにもならなかっただろ? 誰かが、汚れ役をやらにゃいけなかった。王の情報を得るには、アタシみたいな、嘘つきしか、できなかったんだ。」
カエデの声は、次第に弱々しくなっていく。
「アタシは……アタシは、ただ……『嘘でも、助けたかった』んだよ……。みんなを、そして、リンを……。」
その言葉は、カエデの真の心情をリンに伝えた。リンの胸に、激しい痛みが走る。カエデもまた、ナナミやレイと同じように、リンを守ろうとしていたのだ。その手段が、たとえ『嘘』であっても。
カエデの意識が、ゆっくりと、しかし確実に薄れていくのが分かる。
「ありがとう……リン。これで、アタシも……少しは、本物になれた、かな……。」
カエデの最後の言葉は、リンの心に深く刻まれた。詐欺師として生きてきた彼女が、最後に求めたのは、誰かに『本物』として認められることだったのかもしれない。
リンは、ただその場に立ち尽くしていた。失われた人格への悲しみと、カエデの真意を知ったことによる複雑な感情が、リンの心を支配していた。だが、カエデが残した『情報』は、確かにリンたちの未来を照らす、一筋の光となっていた。彼女は、この嘘で得られた情報を、決して無駄にはしないと、心に誓ったのだった。