人格たちの夜会
ナナミを失った衝撃は、リンの脳内で嵐となって吹き荒れていた。人格空間は、まるで記憶崩壊症に侵された久留米の街のように、秩序を失い、混沌としていた。悲しみと怒り、そして、未知の喪失感が、リンの胸を締め付ける。
「なぜだ!? なぜナナミが喰われた!? 俺の予測では、まだ喰われるはずじゃなかった!」
No.05のセツナ、天才科学者人格が、感情を露わに叫ぶ。普段の冷静な口調は鳴りを潜め、その声には苛立ちと、計算が狂ったことへの激しい動揺が滲んでいた。
「セツナの計算など、所詮はこの精神世界でのもの! 現実の王の力の前では無力だということが、これで証明されただろうが!」
No.21のジンが、感情的に反論する。彼の声には、戦闘で手応えを得られなかった悔しさと、無力感が混じっていた。口の中に広がる、鉄の味がジンが悔しがっている証拠だった。
「だから言ったでしょう? 暴力だけでは解決しないと。私たちはもっと、王の深層心理を理解すべきだったのです!」
No.10のレティシア、弁護士風人格が、静かに、しかし断固とした口調で主張する。彼女の言葉は、まるで法廷での陳述のように、理路整然としていた。
「このままでは、私たちもいつ喰われるか分からない……! みんな、パニックになるのは当然よ!」
No.41のヒヨリ、内気な少女人格が、震える声で訴える。彼女の声は、人格たちの間に広がる不安を増幅させるかのようだった。
それぞれの主張は、互いに相容れず、リンの脳内で激しい議論となって衝突していた。まるで、久留米の駅ビル、くるめりあ六ツ門の再開発を巡る住民意見のように、多種多様な意見が飛び交い、収集がつかない。リンは頭を抱えた。ナナミを失ったばかりだというのに、今度は自分の中の人格たちが争い始めている。このままでは、精神世界が本当に崩壊してしまうのではないか、そんな恐怖がリンの心をよぎった。
(やめて……! もう、誰も失いたくないの……!)
リンの心の叫びが、脳内に響き渡る。その瞬間、一際強く、しかし静かな声が、リンの意識の中心に響いた。
「静まりなさい。皆、それぞれの悲しみと、焦りを感じているのは理解できる。だが、このままでは、本体が潰れてしまう。」
それは、No.01のマリオンの声だった。彼女の言葉には、強い統率力と、冷静な判断力が宿っていた。マリオンの言葉によって、人格たちの喧騒が、少しずつ収まっていく。
リンは、マリオンの声に導かれるように、ゆっくりと顔を上げた。彼女の胸には、まだナナミを失った痛みが残っている。しかし、同時に、これ以上、誰かが傷つくのを見ていたくないという、強い願いが芽生えていた。
(私が……私が、やらなきゃ……!)
リンは震える声で、しかし、強い意志を込めて言った。
「みんな……。確かに、ナナミが喰われて、怖い。どうすればいいか、分からない。でも……でも、私は、もう誰も失いたくない。だから……お願い。力を貸して。私に、この状況を乗り越えるための知恵を、勇気を、教えてほしい。」
リンの言葉は、完璧な演説ではなかった。だが、そこには、彼女自身の純粋な願いと、仲間を思う気持ちが込められていた。その言葉は、バラバラになりかけていた人格たちの心を、一つに繋ぎ止める力を持っていた。リンが“まとめ役”として、一歩、踏み出した瞬間だった。
その時、再び街から悲鳴が聞こえた。今度は、より近く、より切迫している。複数の“時喰い”の尖兵が、リンのいる病院へと向かってきているようだった。
「来るぞ! 複数だ! 今のリンでは……!」 マリオンが、警戒の声を上げる。
「ジン! 戦うわ! 私を、動かして!」 リンは迷いなく叫んだ。体の奥から、ジンの闘志が燃え上がるのが感じられる。リンの肉体が躍動し、病室を飛び出した。
廊下に出ると、既に数体の“時喰い”の尖兵が、病院の職員や患者たちを襲っていた。その光景に、リンの胸に再び怒りが込み上げる。
「邪魔だてさせはしない。」
低く、響くような声が、リンの脳内に響いた。それは、No.44「レイ」の声だった。寡黙な守護者、近接防衛のエキスパートである。レイはこれまで、あまり多くを語らない人格だった。
「リン、彼らの動きを読め。奴らの触手は、精神エネルギーを狙っている。だが、物理的な質量も持つ。一点に集中させれば、突破口は開ける。」
レイの声は静かで、しかし確かな指示を与えた。リンの視界が、一瞬にしてクリアになる。まるで、スローモーションのように、時喰いたちの動きが見える。複数の触手が、様々な角度からリンめがけて伸びてくる。
「くそっ、これじゃ囲まれる!」ジンの焦燥した声。
その瞬間、リンの体が、まるで意思とは関係なく、自動的に動いた。それは、レイの意思だった。リンは床を滑るように移動し、複数の触手の攻撃範囲から外れる。そして、一瞬の隙を突き、時喰いの一体の懐に飛び込んだ。
「ここだ! ジン!」
レイの静かな声。リンの拳が、再び硬く握りしめられる。ジンとの連携は、先ほどよりも格段に精度が上がっていた。拳が、時喰いのローブを掠める。だが、やはり手応えはない。
「レイ! 効かない!」
「焦るな、ジン。彼らの弱点は、“中心核”にある。このローブは、精神エネルギーの防護膜だ。それを破るには……」
レイの言葉が、脳内で途切れた。その時、時喰いたちが、リンの背後から迫っていた。リンは振り返る。しかし、間に合わない。複数の触手が、リンの体を絡め取ろうと迫る。
「リン!」
マリオンが叫んだ。その時、リンの体が、信じられないほどの速度で逆方向に跳躍した。それは、レイの捨て身の行動だった。
「私が、防ぐ。」
レイの声は、どこか遠く、そして悲しい響きを持っていた。リンの体が、時喰いたちの触手を自ら迎え撃つように、間に割って入る。リンの全身から、眩いばかりの光が迸った。それは、 No.44「レイ」の能力、自己犠牲による絶対防御だった。
ゴォォォォ……!
光が、時喰いたちの触手を弾き飛ばす。空間が歪み、あたりに衝撃波が広がる。リンの体が、そのまま壁へと叩きつけられた。全身に、骨が軋むような激しい痛みが走る。口の中に、血の味が広がった。
「レイッ!?」
リンは叫んだ。体中に走る激痛よりも、大切なものが失われた予感に、リンの心臓は締め付けられた。光が収まると、リンの背後には、まるで嵐が過ぎ去った後の廃墟のように、大きくへこんだ壁があった。そして、その壁の前に、リンは一人、呆然と立ち尽くしていた。
レイの、静かで、しかし確かな存在感が、リンの脳内から、ゆっくりと、しかし確実に薄れていく。
「……リン……。私を……使ってくれて、ありがとう……。」
レイの最後の言葉が、リンの意識の奥底で、木霊のように響いた。声は、弱々しく、消え入りそうだった。リンの目から、再び涙が溢れ出した。ナナミに続き、レイまで。
(また……また、私を守ってくれた人が……!)
失われた感覚が、リンの心を深く抉る。しかし、同時に、彼女の心に、ある感情が芽生えていた。それは、恐怖ではない。怒りでもない。
――この痛みを、無駄にはしない。
リンは、ゆっくりと立ち上がった。体中の痛みは、まだ引かない。しかし、彼女の瞳には、以前よりも強い光が宿っていた。彼女は知った。一人ではないこと。そして、この痛みが、自分を強くするのだと。その日、リンは、また一つ、自分の「痛み」と「喪失」を、力へと変えるための、最初の覚悟を決めたのだった。




