王の影と初戦闘
病室の窓から差し込む夕陽は、記憶崩壊症によって変貌した久留米の街を、どこか不吉な赤色に染め上げていた。リンの脳内では、未だ人格たちの声が飛び交っている。恐怖は胸を締め付けるが、目の前の惨状と、人々の虚ろな瞳は、リンの心を強く揺さぶった。
「リン、病室にいても無駄だ。奴は扉をこじ開けてくる。逃げるなら今のうちだ!」
マリオンの切迫した声が響く。だが、リンの視線は、既に「時喰い」と化した存在に向けられていた。あの闇色のローブ、触手のような影が人々の記憶を貪る光景。 あれが、許せなかった。
「逃げない……!」
リンの口から、意志のこもった言葉が紡ぎ出された。体は震えている。だが、心には確かな熱が灯っていた。
「私は……みんなを、助けたい!」
リンのその言葉に、人格たちのざわめきが一瞬にして収まった。そして、次に聞こえたのは、No.21「ジン」と名乗る、荒々しい、しかし力強い声だった。
「ッハ! 良い度胸だ、本体! なら、てめぇの体を預けやがれ! 俺が叩き潰してやる!」
その言葉に呼応するように、リンの体が熱を帯びる。病室の扉が、ゆっくりと、しかし確実に開かれようとしていた。扉の隙間から、淀んだ、腐敗したような甘い匂いが鼻腔を衝く。それは、記憶を喰らう異形の匂いだろうか。同時に、背筋を這い上がるような、おぞましい気配がリンの肌を撫でた。
ドンッ!
扉がけたたましい音を立てて吹き飛んだ。土煙が舞い上がり、部屋の中にまで侵入してくる。視界が悪くなる中、リンは咄嗟に身構えた。そして、その土煙の中から、漆黒のローブを纏った“時喰い”が姿を現した。その顔はフードに隠され、見ることはできない。だが、フードの奥から、無数の光点が輝いているのが見えた。それが奴の「目」なのだろうか。
「リン、来るぞ!」 マリオンの警告が脳内に響く。
“時喰い”が、ゆっくりと右腕を上げた。その腕からは、影のような触手がにゅるりと伸び、リンめがけて鞭のようにしなった。
「ジン! お願い!」
リンが叫ぶと、同時に、彼女の全身に電流が走るような感覚が駆け巡った。体が、自然と動いた。いや、動かされた。しなる触手を、紙一重でかわす。リンの体は、これまで経験したことのない俊敏さで、病室の壁を蹴り、宙を舞った。
「くそっ、動きが鈍えな! 俺が手本を見せてやるぜ!」
ジンの声が、リンの脳内で響く。リンの拳が、まるでジン自身の意思を持つかのように硬く握りしめられる。触手をかわしざま、リンは“時喰い”の懐に潜り込んだ。そして、渾身の力でアッパーを放つ。
ドゴォン!
鈍い打撃音が響き渡る。だが、手応えはない。拳は、まるで空気の塊を殴ったかのように虚しく空間を裂いた。時喰いのローブの表面は、一瞬波打ったものの、すぐに元に戻る。物理攻撃が効かない? リンの脳裏に、焦燥が走った。
その時、脳内から新しい声が響いた。それは、No.31「ナナミ」の、明るく弾むような声だった。
「リンちゃん、ピンチだよ! ナナミにお任せ! みんなの希望を集めて、きらきら魔法アタック☆だよ!」
リンの体に、ふわりとした浮遊感が生まれる。そして、手のひらから、淡い光の粒子が溢れ出した。それは、まるで久留米の夜空に瞬く星の光を集めたかのように、優しく、しかし確かな輝きを放っていた。
「無駄だ。記憶なき光に、意味はない。」
“時喰い”が、初めてその重い口を開いた。低く、砂が擦れるような不快な声だった。その瞬間、リンが放った光の粒子が、まるで何かに吸い込まれるかのように、虚空に消えていく。
「え……嘘……!?」
ナナミの戸惑いの声が、リンの脳内に響いた。そして、次の瞬間だった。
“時喰い”から伸びた触手の一本が、目にも留まらぬ速さでリンの体に巻き付いた。リンは身動きが取れない。触手は、まるで蛇が獲物を締め上げるかのように、リンの体を強く締め付けた。息が、できない。
「くっ……離せ!」
ジンの声が、歯ぎしりのように響く。だが、リンの体は抵抗できない。そして、その触手は、リンの頭部へと伸びてきた。
「ナナミッ!」
リンは無意識に叫んだ。その時、リンの脳内から、微かな、しかし確かな声が聞こえた。それは、ナナミの声だった。
「リンちゃん、ごめんね……。ナナミ、もう……頑張れない、みたい……。」
声は、震えていた。そして、次第に小さくなり、やがて、消えた。
ズキンッ!
リンの頭の中に、激しい痛みが走った。それは、肉体的な痛みではない。何かが、根こそぎ引き抜かれるような、空虚で、しかし確かな喪失感だった。リンの脳内で、人格空間が激しく揺れた。まるで、これまで秩序を保っていたパズルが、一枚のピースを失って崩れ落ちるかのように。
「ば……バカな……! 人格が……喰われた!?」
マリオンの驚愕した声が、リンの脳内に響き渡る。リンの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。ナナミ。たった今、自分の中で輝いていた、あの明るい光が、消えてしまった。
“時喰い”の触手が、リンの頭部から離れた。リンは、まるで操り人形の糸が切れたように、その場に崩れ落ちる。その目に映ったのは、無関心に立ち尽くす“時喰い”の姿と、そして、彼の手の中に握られた、淡く光る、球体だった。それは、ナナミの、記憶の残滓。
「……ッ!」
リンの心臓が、激しく、しかし虚しく脈打つ。口の中に広がる、鉛のような苦い味がした。それは、恐怖か、怒りか、それとも、失われたナナミの味なのか。
「リン! 立て! ここで終わるわけにはいかないだろうが!」
ジンの声が、リンの脳内で再び響く。その声には、怒りと、そして深い悲しみが混じっていた。リンは、震える手で地面を掴む。ナナミが消えた。その事実は、リンの心に、これまで感じたことのない深い痛みを刻み込んだ。だが、同時に、彼女の心に、激しい怒りの炎が灯っていた。
(私は……もう、誰も失いたくない……!)
その感情が、リンの奥底に眠る、新たな人格たちを目覚めさせるきっかけとなることを、リンはまだ知らない。だが、彼女の心に芽生えた確かな決意だけが、崩壊していく世界の中で、小さな光を放ち始めていた。