時間喰らいの王との決戦
アリアの記憶によって、リンは時間喰らいの王の正体が「忘却した自分自身」であるという、衝撃の真実を知った。そして、このループからの真の脱出条件が、99人の全ての人格を、つまり自分自身の全てを受け入れ、許すことだと告げられた。失われたセツナの記憶、そして王が「全ての人格を一斉に喰らう」と宣言した重圧が、リンの心を強く締め付けていた。久留米の街は、夜の帳が降り、静寂に包まれていたが、リンの心の中では、嵐の前の静けさが激しく渦巻いていた。
この日の夜、リンは病室のベッドに横たわっていた。しかし、眠れるはずがなかった。アリアの言葉が、脳裏を去来する。自分自身を許す。全ての人格を受け入れる。それは、簡単なことではない。しかし、リンには、もう迷いはなかった。
「……みんな……」 リンが心の中で呟くと、彼女の中に統合された99の人格たちが、一斉に答えるかのように、温かい光となってリンの精神を包み込んだ。喜び、悲しみ、怒り、絶望、希望、そして、深い愛情……全てが一つとなって、リンの心に流れ込んでくる。それは、過去の全てを肯定し、未来へと繋ぐ、途方もない力だった。
病室の窓の外から、遠くで、久留米の深夜を告げる鐘の音が、微かに響いてきた。その音は、決戦の合図のように、リンの心を鼓舞する。リンは、ゆっくりと目を開いた。視界は、これまでのような病室の風景ではない。そこは、無限に広がる、光と闇の狭間。まさに、リンの精神の最深部だった。
そこに、王がいた。漆黒の靄を纏い、巨大な影となってリンの前に立ちはだかる。その存在は、リン自身の「許されない過去」「忘却された痛み」「拒絶された感情」の全てが凝縮されたものだった。王の瞳は、リンのそれと瓜二つだったが、そこに宿るのは、深い絶望と自己否定の光。
「来たか……愚かなる私よ……」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。その声には、リンへの嘲りだけでなく、深い悲しみが含まれているように聞こえた。それは、久留米の古い呪いのように、リンの心を締め付けた。
「あなたは……私でしょう……? ならば……もう……終わりにしましょう……この戦いを……!」 リンの声は、震えていたが、その瞳には、確かな覚悟が宿っていた。彼女の身体から、まばゆい光が放出される。それは、99の人格たちの色が混ざり合った、虹色の光だった。
記憶と存在の書き換え合戦
王とリンの戦いが始まった。それは、剣と魔法がぶつかり合う物理的な戦闘ではなかった。精神の最深部で繰り広げられる、「記憶」と「存在」を巡る、壮絶な書き換え合戦だった。
王の漆黒の触手が、リンに向かって猛然と襲いかかる。それは、リンの忘却した過去の痛み、後悔、そして自己否定の感情が形となったものだった。触手がリンの心に触れるたび、リンの意識から、特定の記憶が引き剥がされそうになる。
「この記憶は……不要だ……! 貴様を苦しめるだけ……!」 王の声が、リンの頭の中に直接響く。王は、リンが自分自身を許せないように、過去の過ちや失敗の記憶を消し去ろうとしていたのだ。
「やめて……! それは……私の……!」 リンは、必死に抵抗する。彼女は、失われたセツナの記憶を思い出した。あの時、セツナの記憶は、王によって強制的に消し去られた。だが、今、リンは違う。彼女は、全ての人格を受け入れた。その一つ一つの記憶が、リンの力となっていた。
リンは、王の触手に向かって、自らの光を放った。それは、統合された人格たちの「肯定」の力だった。触手に触れる光は、過去の記憶を消し去るのではなく、その記憶に宿る「痛み」を「教訓」へと書き換えていく。
ギュルルルルルルルルル!!!!
王の触手が、リンの光によって、まるで融解するように、ぐにゃりと歪んだ。それは、王がリンの記憶を消去しようとする力と、リンがその記憶を肯定し、意味を書き換えようとする力が、真正面から衝突している証拠だった。耳元で、風がうねる音が、激しく響き渡る。土煙のように視界が霞む中、魔法のエフェクト音が、断続的に空間を震わせる。口の中には、微かに鉄の味が広がり、脳裏では、燃え尽きるような熱が、まだ舌に残っているかのようだ。
「愚かなり……どれほど抗おうとも……貴様は……弱き存在……!」 王の身体から、さらに強力な闇が噴き出す。それは、リンの「自己否定」の感情が形になったものだった。闇は、リンの周りを螺旋状に駆け巡り、彼女の存在そのものを否定しようとする。
リンは、その闇の中で、目を閉じた。彼女の脳裏に、マリオン、ジン、セツナ、ユーウツ、リツ……これまでに触れてきた全ての人格たちの姿が鮮明に浮かび上がった。彼らが、それぞれの「死に方」を語った記憶。肉体が鉛のように重く、視界が薄暗く染まっていく感覚。口の中に広がる鉄の味と、燃え尽きるような熱。愛する人を庇って胸に剣が突き刺さる瞬間の絶望した顔。全てが、リンの体験として蘇る。
そして、彼女は、それら全てを、今の自分として受け入れた。 「私は……弱い……かもしれない……でも……」 リンの声が、闇の中で、力強く響き渡った。
「……でも……!」 リンは、過去の自分を、現在の自分を、そして未来の自分を、全て肯定するかのうように、胸に手を当てた。
彼女の心臓が、力強く、そして穏やかに鼓動する。それは、99の人格たちの鼓動が、リンの中で、真に一つになった音だった。そして、その鼓動は、リンの魂の奥底から、一つの言葉を呼び覚ます。
「私が私を諦めない限り、私たちは生きている!」
リンの叫びが、精神世界全体を揺るがした。それは、王の根源である「自己否定」を打ち破る、究極の「自己肯定」の宣言だった。彼女の身体から放出される光が、王の漆黒の闇を、瞬く間に照らし出した。
バキィィィィィィィィン!!!!
王の巨大な身体に、ひび割れが生じた。そのひび割れからは、まばゆい光が噴き出している。それは、王がリン自身であることの証明。そして、リンが自分自身を許し、受け入れたことで、王という存在が、その役目を終えようとしている証だった。焦げ付くような硫黄の匂いが、清々しい光の香りに変わっていく。
王は、苦しそうに、そして、どこか安堵したように、微かに微笑んだ。 「……ああ……そうか……これが……私の……望み……だったのか……」 王の身体は、光の粒子となって崩壊し、リンの身体へと吸い込まれていった。それは、分離していた「忘却したリン自身」が、「現在のリン」へと回帰する瞬間だった。
リンの視界が、白く染まっていく。耳には、遠くで、久留米の街の子供たちの遊ぶ声が、再び、何の変哲もない日常の音として聞こえてきた。それは、もう二度と失われることのない、確かな現実の響きだった。