目覚める声
病室の白い壁は、まるでリンの記憶と同じくらい無機質で、何の色彩も持たなかった。マリオンと名乗る声が告げた「99人の私」という現実を、リンはまだ咀嚼しきれずにいた。だが、意識を集中すると、頭の奥でざわめくような、無数のささやきが聞こえてくる。それは、まるで久留米の夏の祭り、西鉄久留米駅前のロータリーを埋め尽くす人々のざわめきのように、多様で、しかし一つ一つの声は個性を主張しているようだった。
「やれやれ、また最初からかよ。いつになったらこのループから抜け出せるんだ?」
どこか粗野で諦めを含んだ声。
「データが消失しているわ。このパターンは……第38回目の試行と類似しているけれど、決定的な差異がある。」
冷静で分析的な声。
「お腹、空いたぁ……。リンちゃん、何か甘いもの食べたいよぉ……。」
幼く、無邪気な声。
「静かにしろ! 本体が混乱しているだろうが! 我々の役目は、彼女を導くことだ!」
威厳があり、統率のとれた声。
それはまさに、マリオンが言った通りの「人格」たちの声だった。リンは恐る恐る、しかし確かな好奇心を持って、その声たちに問いかけた。
「あ……あなたたちは……本当に、私なの?」
すると、先ほど「静かにしろ!」と怒鳴った声が、少しだけトーンを落として答えた。それは、No.01のマリオンだった。
「そうだ、リン。我々は貴女だ。そして、貴女が経験してきた過去の“死”の記憶を、それぞれが保持している。たとえば私、マリオンは、かつて王の尖兵との戦闘で、仲間の盾となり命を落とした記憶がある。」
マリオンの言葉に続き、他の人格たちも次々と自身の「死に方」を語り始めた。
「私は、不意の奇襲を受けて、一瞬の内に意識を刈り取られた。体が鉛のように重くなって、視界が薄暗く染まっていく感覚……。」
「私は、最後の力を振り絞って魔法を放った後、魔力枯渇で倒れた。口の中に広がる鉄の味と、燃え尽きるような熱が、まだ舌に残ってる。」
「あたしは、愛する人を庇って。胸に剣が突き刺さる瞬間、彼の絶望した顔が見えたわ。でも、後悔はしてない。」
彼らの言葉は、リンに直接的な痛みや苦しみを与えるわけではない。だが、まるで自分が体験したかのように、風の音、土煙、魔法のエフェクト音、そして、血の匂いまでもが、リンの意識の奥底でざわめいた。それは、単なる情報ではなく、感情の伴った記憶の断片だった。リンは戦慄した。彼らは、本当に「リン」なのだ。そして、その一つ一つの死は、確かにリン自身が経験してきたものなのだと。
その時、遠くから聞こえていた子供たちの声が、突如として途切れた。代わって聞こえてきたのは、街の人々の悲鳴、そして、何かが崩れ落ちるような、鈍く重い破壊音。
「どうしたの……!?」
リンが窓に駆け寄ると、目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。久留米の活気ある街並みが、まるで何かに喰い荒らされたかのように変貌していたのだ。近代的な機械の機能美が生活に溶け込んでいたはずの街は、今や鉄骨が剥き出しになり、ガラスが砕け散っている。人々の表情には、混乱と恐怖が色濃く浮かんでいた。彼らは互いに顔を見合わせ、自分の大切なものを忘れてしまったかのように呆然と立ち尽くしている。
「あれを見てくれ、リン! “記憶崩壊症”だ!」
マリオンの声が、リンの脳裏に響く。リンの視線の先では、人々が次々と意識を失い、その場に倒れ伏していく。その瞳は虚ろで、まるで魂が抜け落ちた人形のようだった。記憶を失った者たちは、まるで過去そのものを失ったかのように、生気のない肉塊と化していた。街には、悲しみと絶望の瘴気が立ち込め、微かな土の匂いすら、死の気配を帯びているように感じられた。
そして、その混沌の中心に、奴はいた。
闇色のローブを纏い、顔は深くフードに隠れて見えない。しかし、その手から伸びる触手のような影が、倒れた人々の頭部に突き刺さるのがはっきりと見えた。影が引き抜かれるたびに、人々の体はさらに生気を失い、まるで古びた新聞紙のようにくしゃりと縮んだ。
「あれが……王の使い、“時喰い”だ……!」
マリオンの声に、強い警戒の色が宿る。リンの体は、恐怖で震えが止まらなかった。だが、同時に、マリオンや他の人格たちがリンの存在に力を与えようとしているのが感じられた。
「リン、逃げろ! あいつは、記憶を喰らう!」
「無駄だ! 逃げても奴は追ってくる! 戦うしかない!」
「だけど、今のリンじゃ……」
リンの脳内では、人格たちの声が怒号のように飛び交い、混乱の渦が深まっていく。しかし、その中にあって、リンは確かな決意を固めていた。このまま、目の前で人々が記憶を喰われていくのを黙って見ているわけにはいかない。たとえ自分が誰で、なぜここにいるのか分からなくても。
(私は……彼らを、助けたい!)
それは、99人の「私」の総意なのか、それとも、この「本体」リン自身の純粋な感情なのか。今はまだ、その区別もつかない。だが、目の前の惨状が、リンの内に眠っていた何かを確かに揺り起こしていた。