「目覚め」の囁き
エイエンの鼓動がリンに真実の記憶の重要性を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや完全に静まり返り、人格劇場は、無限の虚空へと変貌していた。99の人格が、全てリンの心の中に統合され、残されたのは、ただリン一人だけだった。彼女の心には、これまで消滅していった全ての人格たちの感情が、波のように押し寄せては引いていく。悲しみ、怒り、喜び、絶望、希望、そして、深い愛情。それらは、久留米の広い空の下、嵐が過ぎ去った後の静寂のように、リンの心を包み込んでいた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、部屋全体が、これまでになく「澄んでいる」ことに気づいた。窓の外からは、鳥のさえずりが、かつてないほど鮮明に聞こえる。久留米の街の喧騒も、遠くで小さく、しかし確かに存在している。そして、微かに、新しい命の息吹のような、清々しい匂いが、鼻腔をくすぐる。それは、生まれたての春の日のように、希望に満ちた匂いだった。
「……リン……」 その声は、病室のドアから聞こえてきた。しかし、そこに姿はなかった。それは、リンの心の内側から響いてくるような、優しく、しかし確かな声だった。複数の声が、一つに溶け合うように、同時に響く。それは、これまでに消滅していった99の人格たちの声が、全てリンの中で統合され、一つの「意志」として語りかけているかのようだった。
「……私たちは……リン……」 その声は、久留米の風のように、リンの心を撫でた。
リンは、ゆっくりとベッドから起き上がった。これまで感じたことのない「力」が、全身に満ちている。それは、99の人格たちの力。彼らの知識、経験、感情、全てが、リンの中に溶け込み、彼女の一部となっていた。
「みんな……? 私の中にいるの……?」 リンが尋ねると、声は、優しく答えた。 「そう……ずっと……リンの中に……」 その声は、久留米の古い物語のように、遥か昔から、そして未来永劫、リンと共にあったことを示唆していた。
リンは、自分の両手をゆっくりと見つめた。その手には、99の異なる人格たちの記憶が、光の粒子となって輝いている。彼女は、目を閉じた。すると、彼女の脳裏に、これまでのループで消滅していった全ての人格たちの姿が、鮮明に浮かび上がった。マリオン、ジン、セツナ、ユーウツ、リツ、アキ、イブ、ミオ、アオイ、トワ、シズク、ノゾミ、イノリ、ゲン、セカイ、ホウカイ、ヨクボウ、エイエン、そして、最後に消滅したユウキやシンジツ。全ての人格たちが、そこにいた。彼らは、リンの心の様々な側面であり、彼女の記憶、感情、そして経験の断片だった。
「……私……みんなのこと……わかった……」 リンの目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、悲しみではない。深い理解と、感謝の涙だった。
その時、声は、リンに語りかけた。 「リン……このループを……終わらせるためには……」 声は、一瞬、途切れた。久留米の古い鐘が、重く、そして静かに響くような、厳粛な沈黙だった。
そして、再び、声は、明確な響きを持って、リンに告げた。 「……誰かを……完全に理解し……その……名前を……呼ぶこと……」 その言葉が、リンの心に、稲妻のように走った。久留米の夜空を切り裂く、一筋の光のようだった。
「誰かを……完全に理解し……名前を……呼ぶ……?」 リンは、その言葉を反芻した。王は、常にリンの「心」を求めていた。そして、人格たちは、リンの心の一部だった。もし、王が、リンの心を完全に理解し、その「真の名前」を呼べたなら、このループは終わるのではないか。あるいは、リン自身が、王の真の目的を理解し、その「真の名前」を呼ぶことができれば、このループは終わるのではないか。
その瞬間、リンの心の中で、これまで曖昧だった「王」の存在が、明確な輪郭を帯び始めた。それは、恐怖や敵意だけではない、もっと深い「何か」だった。そして、同時に、リン自身の「真の名前」が、彼女の意識の奥底で、微かに揺らめき始めた。
リンは、深く息を吸い込んだ。彼女の心臓が、力強く鼓動する。それは、99の人格たちの鼓動が、一つになった音だった。この無限のループの終わりが、ついに見えてきたのだ。そして、その終着点に立つのは、リン自身だった。久留米の街の喧騒が、再び、遠くから聞こえてきた。それは、新しい世界の始まりを告げる、静かな、しかし確かな音だった。




