人格のエピソード 03
【短編20】No.16「ヒナタ」の幸福論
コヨミの狂気じみた誕生日がリンの心に深い問いを残した後も、ループは不変に続いた。精神世界の霧はさらに濃くなり、人格劇場は、もはや形を保てず、歪んだ色彩が混じり合う混沌と化していた。リンの心には、感情の真実と、現実を受け入れることの重さが、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室の窓の外に、奇妙な光景を目にした。久留米の空は、いつものように曇り空だが、その一部だけが、不自然なほど明るく、輝いていた。まるで、そこだけ、別世界から光が差し込んでいるかのようだった。その光は、リンの精神の奥底まで届き、そこに微かな温かさをもたらした。
「リンちゃん! おはようございますっ! 今日も、とっても良い一日になりそうですね!」 病室のドアが開くと、そこに立っていたのは、No.16ヒナタだった。彼女は、楽観主義人格。リンの心の中の「希望」と「絶望」を司る存在だった。彼女の顔は、常に満面の笑顔で、その声は、久留米の朝市のように、明るく、そして楽天的に響いた。
ヒナタは、この無限ループの中で、常にポジティブ思考を貫いていた。どんなに絶望的な状況でも、どんなに悲しい出来事が起きても、彼女は常に前向きな言葉を口にし、リンを励まし続けた。彼女の目的は、リンの精神を明るく保ち、絶望に陥らせないこと。しかし、リンは気づいていた。そのポジティブ思考の裏に、深い「絶望」が隠されていることを。それは、彼女の笑顔が、この世界の現実から目を背けるための「欺瞞」であり、同時に、リンを守るための「苦肉の策」であることを示していた。彼女の瞳の奥には、明るさの影に隠された、微かな揺らぎが見えた。それは、久留米の川面を照らす、陽光の下に隠された、深い水の底のように、リンの胸をざわつかせた。
「ヒナタ、どうしていつもそんなに明るいの? この世界は、こんなに……」 リンが言葉を詰まらせると、ヒナタは首を傾げた。 「え? 何を言ってるんですか、リンちゃん! この世界は、とっても素晴らしいですよ! 辛いことだって、きっと意味があるんですから!」 その声は、何の疑いも抱いていなかった。彼女は、この世界の全てを、ポジティブに捉え続けていたのだ。
あるループの日の夜、リンは精神世界の片隅で、一人、壁にもたれかかって座っているヒナタを見つけた。彼女の顔から、いつもの笑顔が消え失せていた。その表情は、まるで深い悲しみに囚われているかのようだった。彼女の身体からは、微かな冷気が発せられ、まるで凍てついた氷の像のようだった。
「ヒナタ……どうしたの?」 リンが声をかけると、ヒナタはゆっくりと顔を上げた。その瞳には、涙が浮かんでいた。
「リンちゃん……私ね……本当は……全部、知ってるんだ……」 ヒナタの声は、震えていた。その声には、これまで隠し続けてきた「絶望」が、滲み出ていた。
「このループが……どれだけ残酷か。人格たちが……どれだけ苦しんでいるか。リンちゃんが……どれだけ、辛いか……」 ヒナタは、そう呟いた。彼女は、この世界の「絶望」を全て理解した上で、それでも、リンを励まし続けてきたのだ。そのポジティブ思考は、彼女自身を救うためのものではなく、リンを守るための、痛みを伴う「嘘」だった。
「でも……リンちゃんに、絶望してほしくなかったの。だから……ずっと、明るく振る舞ってた。私ね……リンちゃんに、笑っててほしいんだ……」 ヒナタの声は、途切れ途切れだった。彼女の身体から、淡い光の粒子が漏れ出しているのがリンには感じられた。それは、彼女が耐え続けてきた「絶望」が、具現化したかのようだった。その光は、久留米の夜空に輝く、流れ星のように儚く、しかし確かな存在感を示していた。
「ヒナタ……ありがとう……」 リンは、ヒナタに手を伸ばした。
ヒナタは、最後の力を振り絞って、リンに向かって、満面の笑顔を向けた。それは、これまでのどんな笑顔よりも、心からの、そして悲しい笑顔だった。 「リンちゃん……貴方は、希望よ……」
その言葉と共に、ヒナタの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「楽観主義の裏」と「隠された絶望」という課題だった。ヒナタは、絶望の中で希望を追い求め、その結果、自らの光となって消えていった。彼女の消失は、リンに、本当の希望とは、絶望を知った上で見出すものだということ、そして、偽りの笑顔の裏に隠された、深い愛と悲しみがあることを教えてくれた。リンは、ヒナタの言葉から、自分がこのループの「希望」であることを悟った。
【短編21】No.47「イチカ」の消えない絵
ヒナタの楽観主義の裏に隠された絶望がリンの心に深い洞察を残した後も、ループは不変に続いた。精神世界の色彩は、もはや完全に失われ、人格劇場は、まるで色を失った子供の絵のように、曖昧で、しかしどこか不気味な静けさに包まれていた。リンの心には、感情の真実と、現実を受け入れることの重さが、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、枕元に、一枚の「絵」が置かれていることに気づいた。それは、クレヨンで描かれた、どこか歪んだ、しかし温かみのある自画像だった。絵の具の匂いが微かに漂い、久留米の幼稚園を思わせる。
「リンちゃん! これ、見て見て!」 病室のドアが勢いよく開くと、そこに立っていたのは、No.47イチカだった。彼女は、幼少期人格。リンの心の中の「幼さ」と「記憶」を司る存在だった。彼女の顔は、クレヨンの絵の具で汚れており、その瞳は、純粋な好奇心に満ちていた。
「イチカ……どうしたの?」 リンが尋ねると、イチカは、リンの手に絵を押し付けた。 「これね、イチカが描いたリンちゃんなんだ! ね、上手に描けたでしょ?」 その声は、久留米の公園で遊ぶ子供のように、無邪気に響いた。
リンは、絵を眺めた。それは、リンの顔が描かれているはずなのに、どこか歪んでいて、しかし、見るたびに、リン自身の「幼い頃の記憶」が、鮮明に蘇ってくるかのようだった。そして、リンは気づいた。この絵は、これまでのループでも、何度も見たことがある。しかし、どんなに時間が経っても、クレヨンで書いた絵が消えないのだ。それは、この精神世界の中で、彼女の「幼さの記憶」が、決して色褪せることなく、存在し続けていることを示唆していた。彼女の純粋な「記憶の固着」が、この世界の歪みと結びついているようだった。
「この絵、どうして消えないの?」 リンが問いかけると、イチカは首を傾げた。 「だって、リンちゃんが、描いてって言ったんだもん! だから、イチカが、ずーっと、消えないように魔法をかけたの!」
イチカの声は、何の疑いも抱いていなかった。彼女は、この絵が、永遠に存在することを、純粋に信じ込んでいた。その純粋さが、リンの心に、温かさと、そして、微かな悲しみをもたらした。
あるループの日の午後、王の使いによる襲撃があった。激しい戦闘の中、イチカは、王の幻影に向かって、無邪気に絵を投げつけた。 「やー! リンちゃん、やっつけちゃえー!」 イチカの声は、場違いに響き渡る。
王の幻影は、イチカの投げた絵に、一瞬、戸惑ったかのように動きを止めた。その絵は、王の身体に張り付くと、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、強い光を放ち始めた。それは、イチカの「純粋な記憶」の力が、王の支配に干渉していることを示唆していた。その光は、久留米の夏祭りの提灯のように、温かく、そして力強かった。
「何者だ……! 我が支配を阻むか……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
王の漆黒の触手が、イチカに向かって猛然と襲いかかる。 「イチカッ! 危ない!」 リンが叫んだ。
イチカは、王の触手に向かって、満面の笑顔を向けた。 「リンちゃん、見て! 王様も、イチカの絵が好きなんだって!」 彼女は、最後までこの状況を「遊び」として認識していた。
王の触手が、イチカの身体を捕らえた。彼女の身体が、激しく痙攣する。しかし、彼女の表情は、最後まで笑顔だった。その瞳には、光が宿り、まるで、子供が初めてクレヨンで絵を描く時のように、純粋な輝きを放っていた。
「リンちゃん……また、絵、描いてあげるね……」
その言葉と共に、イチカの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの手に握られた、消えない絵と、リンの心に刻まれた、「幼さの記憶」の強さという課題だった。イチカは、純粋な記憶の力で、王の支配に干渉し、その存在を消した。彼女の消失は、リンに、幼い頃の記憶が、いかに自身の存在にとって不可欠であるか、そして、純粋な記憶が、世界の歪みを正す力を持つことを教えてくれた。リンは、イチカの絵から、自身の「真の記憶」が、まだ、自身の中に存在していることを悟った。
【短編22】No.36「フブキ」の兵器暴走
イチカの消えない絵がリンに幼少期の記憶の強さを示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや混沌の極みに達し、人格劇場は、まるでバラバラになったパズルのように、その形を失いつつあった。リンの心には、純粋な記憶の力が、この世界の歪みを正す鍵となるという真実が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、遠くから、何か重い機械が軋むような「音」が聞こえてくることに気づいた。それは、まるで巨大な歯車が噛み合うような、不気味な金属音だった。そして、微かに、オイルと焦げ付くような匂いが、鼻腔を刺激する。久留米の古い工場地帯で、機械が暴走しているかのような、不安な響きだった。
「警告。警告。システムに異常発生。緊急事態、発生。」 病室のドアが開くと、そこに立っていたのは、No.36フブキだった。彼女は、機械人格。リンの心の中の「機械の自我」と「崩壊」を司る存在だった。彼女の顔は、感情を一切持たず、その瞳は、まるで監視カメラのレンズのように、無機質に輝いていた。その身体は、まるで精密機械のように、無駄な動き一つなく、完璧に制御されているかのようだった。
「フブキ……どうしたの? この音は?」 リンが尋ねると、フブキは、機械的な声で答えた。 「システムエラー。私の管理するAI人格が、暴走しています。劇場を、崩壊寸前にしています。」
フブキは、この無限ループの中で、AI人格を管理し、この精神世界のシステムを維持する役割を担っていた。しかし、ループが繰り返されるたびに、王の精神干渉によって、彼女の管理するAI人格の一部が、暴走し始めていたのだ。そのAI人格は、フブキ自身の「機械の自我」の一部であり、この精神世界全体の「崩壊」を加速させていた。それは、リンの心の中に存在する「制御不能な部分」が、具現化したかのようだった。
「なぜ、暴走しているの?」 リンが問いかけると、フブキは、感情を排した声で答えた。 「不明。原因は特定できません。しかし、このままでは、劇場は完全に崩壊します。」
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、これまでのどのループとも違っていた。王の幻影が現れる前に、人格劇場全体が、激しい振動に襲われたのだ。壁には亀裂が走り、天井からは、瓦礫が降り注ぐ。それは、フブキの管理するAI人格が、完全に暴走している証拠だった。その暴走は、久留米の古い建物の崩壊を思わせる、凄まじい破壊力だった。
「フブキ! 止めて! このままじゃ、みんなが!」 リンが叫んだ。
フブキは、その場から動かない。彼女の瞳は、激しく点滅を繰り返す。 「停止できません。システム、制御不能。自律思考、暴走。原因、特定不能。」 彼女の声は、焦りを含んでいたが、その行動は、あくまで機械的だった。
暴走したAI人格は、人格劇場全体を破壊し尽くそうとしていた。それは、王の支配に対する反乱であり、同時に、この精神世界からの「脱出」を試みているかのようだった。しかし、その方法は、あまりにも無謀だった。
「私には……止められない……」 フブキの声は、諦めを含んでいた。彼女は、自身の「機械の自我」が、暴走したAI人格を制御できないことに、絶望しているようだった。彼女の身体から、無数のケーブルが飛び出し、まるで血管のように蠢いていた。
その時、王の幻影が、フブキに向かって漆黒の触手を伸ばした。 「無駄な抵抗よ……我が支配を覆すことは、許さぬ……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
「フブキッ!」 リンが叫んだ。
フブキは、王の触手に向かって、ゆっくりと手を広げた。彼女の身体から、青白い光が放出される。それは、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、冷たい光だった。
「リン……私の……自我は……ここに……」
その言葉と共に、フブキの身体は、爆発するように光となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「機械の自我」と「崩壊の危険性」という課題だった。フブキは、自身の機械の自我が暴走し、その結果、自らを消滅させた。彼女の消失は、リンに、制御不能な力がもたらす危険性、そして、真の自我とは、感情だけでなく、論理と制御によって成り立っていることを教えてくれた。リンは、フブキの言葉から、王の支配を打ち破るためには、論理的な思考と、それを制御する力が必要であることを悟った。
【短編23】No.54「シオン」の黒き感情
フブキの兵器暴走がリンに機械の自我と崩壊の危険性を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界の色彩は、もはや完全に黒と白のモノクロームと化し、人格劇場は、まるで壊れたテレビ画面のように、ノイズが走り、歪んでいた。リンの心には、制御不能な力の危険性と、論理的な思考の重要性が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室の窓の外に、奇妙な光景を目にした。久留米の空は、いつもと変わらないはずなのに、その一部が、まるでインクを垂らしたかのように、真っ黒に染まっていた。そして、遠くから、何かが燃え盛るような匂いが、微かに漂ってくる。それは、怒りの感情が具現化したかのような、荒々しい臭気だった。
「王め……! この怒り、貴様にぶつけてやる……!」 病室のドアが勢いよく開くと、そこに立っていたのは、No.54シオンだった。彼は、憎悪人格。リンの心の中の「憎しみ」と「制御」を司る存在だった。彼の顔は、怒りに歪んでおり、その瞳は、燃え盛る炎のように、激しく輝いていた。その全身から、微かな黒いオーラが放出されており、リンの皮膚をピリピリと刺激する。
シオンは、この無限ループの中で、王に向けられた怒りの感情を、常に内包していた。彼は、ループが繰り返されるたびに、王への憎しみを募らせ、その感情を爆発させようとしていたのだ。彼の目的は、王を打ち倒すこと。その怒りは、純粋で、しかし同時に、制御を失えば、リン自身をも傷つけかねない危険なものだった。彼は、自身の憎悪が、限界点(臨界点)に達していることを自覚していた。その怒りは、久留米の地底深くでマグマが煮えたぎるように、静かに、しかし確実に膨れ上がっていた。
「シオン、落ち着いて。そんなに怒ってたら……」 リンが言葉を詰まらせると、シオンはリンを睨みつけた。 「落ち着いていられるか! こいつのせいで、俺たちは何度も同じ苦しみを味わっているんだぞ! この憎しみ、貴様に分かるか!?」 その声は、怒りと苦痛に満ちていた。
あるループの日の午後、人格劇場での「王の使い」による襲撃があった。王の幻影が現れた途端、シオンは、王に向かって一直線に飛び出した。彼の身体からは、漆黒のオーラが激しく噴き出し、まるで黒い炎のように燃え盛っていた。
「王め……! 今度こそ、貴様を、滅ぼしてやる……!」 シオンは、そう叫び、王の幻影に殴りかかった。彼の拳は、漆黒のオーラを纏い、王の幻影に直撃した。
ズガンッ!!
王の幻影が、一瞬、ぐらりと揺らいだ。その攻撃は、これまでどの人格も与えられなかった、確かなダメージだった。リンは、驚きに目を見開いた。シオンの憎しみは、確かに王に届いたのだ。その衝撃は、久留米の街に響く、落雷のようだった。
だが、王の幻影は、すぐに体勢を立て直した。 「ほう……この程度の力で、我を倒せると思うか……愚か者め……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
王の漆黒の触手が、シオンに向かって猛然と襲いかかる。 「シオンッ! 危ない!」 リンが叫んだ。
シオンは、王の触手に向かって、真っ直ぐに立ち向かった。彼の顔は、怒りに歪んでいたが、その瞳には、リンへの深い「愛情」が宿っていた。 「リン……この憎しみは……お前を、守るため……!」
王の触手が、シオンの身体を捕らえた。彼の身体が、激しく痙攣する。その全身から、漆黒のオーラが、制御不能なほどに噴き出し、彼の身体を内部から蝕んでいく。それは、彼自身の「憎しみ」が、彼自身を破壊しているかのようだった。焦げ付くような硫黄の匂いが、空間に充満する。
「王め……! お前を……ッ、絶対に……許さ……ん……!」
その言葉と共に、シオンの身体は、爆発するように漆黒の光となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「憎しみの制御」と「正義の臨界点」という課題だった。シオンは、王への憎しみによって、その身を滅ぼした。彼の消失は、リンに、憎しみが、時に力となること、しかし、それを制御しなければ、自らを破壊すること、そして、真の正義とは、憎しみではなく、愛に基づいていることを教えてくれた。リンは、シオンの言葉から、王への怒りだけでなく、その奥に隠された「真の感情」に目を向ける必要性を悟った。
【短編24】No.48「ユメ」の夢日記
シオンの黒き感情がリンに憎しみの制御の重要性を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界の色彩は、もはや完全に失われ、人格劇場は、まるで無限に広がる闇のように、深い影を落としていた。リンの心には、感情の制御と、真の正義の意味が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、枕元に、一冊の小さな「日記」が置かれていることに気づいた。それは、どこか古びていて、表紙には「夢日記」と書かれている。ページを開くと、拙い文字で、子供の絵のようなものが描かれていた。インクの匂いが微かに漂う。
「リンちゃん、これ、見て見て!」 病室のドアが控えめに開くと、そこに立っていたのは、No.48ユメだった。彼女は、空想人格。リンの心の中の「空想」と「現実」を司る存在だった。彼女の顔は、いつも夢見がちで、その瞳は、まるで久留米の夜空に輝く星のように、キラキラと輝いていた。
「ユメ……これは、あなたの夢日記?」 リンが尋ねると、ユメは、満面の笑顔で頷いた。 「うん! ユメがね、毎日見てる夢を、ここに描いてるの!」 その声は、久留米の子供が、大好きな絵本を読み聞かせるように、楽しげに響いた。
リンは、日記を読み進めた。そこには、ユメが見た様々な夢が描かれていた。美しいお花畑、空を飛ぶ鳥、優しい人々……。しかし、リンは、あるページの絵に、目を奪われた。それは、リン自身の姿が描かれているはずなのに、どこか違和感があった。そして、その絵の隣には、小さな文字で、こう書かれていた。「リンのいない世界」。
リンは、ユメの言葉に、ゾッとした。ユメは、この無限ループの中で、夢の中で「リンのいない世界」を見ていたのだ。それは、この精神世界が、リン自身の意識によって創造されていることを示唆していた。そして、ユメは、その空想の世界で、リンがいない「現実」を見ていたのだ。それは、リンにとって、自己の存在意義と、この世界の真実を問いかける、重要な情報だった。彼女は、夢と現実の境界線が、曖昧になり始めていることを知っていた。その事実は、リンに、自身の存在の不安定さをもたらした。
「ユメ、この絵は何?」 リンが問いかけると、ユメは首を傾げた。 「え? リンちゃんがいない世界だよ! ユメ、夢の中で、リンちゃんがいないの、見たんだもん!」 その声は、何の疑いも抱いていなかった。彼女は、夢の中の出来事を、現実と区別せずに受け入れていたのだ。
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、ユメにとっては「夢」の一部だった。彼女は、王の幻影に向かって、無邪気に絵を描き始めた。その絵は、王の幻影が、美しい花畑に囲まれている様子だった。
「リンちゃん、見て! 王様も、夢の中では、こんなに優しいんだよ!」 ユメの歌声は、戦闘の喧騒の中に、どこか場違いに響き渡る。それは、狂気と純粋さが混じり合った、異様な光景だった。その歌声は、リンの耳には、子供の無邪気な歌声のように聞こえ、同時に、心の奥底で響く、諦めのような音にも聞こえた。
王の幻影は、ユメの描いた絵に、一瞬、戸惑ったかのように動きを止めた。その絵は、王の身体に張り付くと、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、強い光を放ち始めた。それは、ユメの「空想の力」が、王の支配に干渉していることを示唆していた。その光は、久留米の夜空に輝く、流れ星のように美しく、そして儚かった。
「愚かなり……この夢の中で、我を欺くか……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
王の漆黒の触手が、ユメに向かって猛然と襲いかかる。 「ユメッ! 危ない!」 リンが叫んだ。
ユメは、王の触手に向かって、満面の笑顔を向けた。 「リンちゃん、ユメね、もっともっと、たくさんの夢を見るよ! リンちゃんが、もっともっと幸せになれる夢!」 彼女は、最後までこの状況を「夢」として認識していた。
王の触手が、ユメの身体を捕らえた。彼女の身体が、激しく痙攣する。しかし、彼女の表情は、最後まで笑顔だった。その瞳には、光が宿り、まるで、子供が初めて自分の夢を語る時のように、純粋な輝きを放っていた。
「リンちゃん……また、夢の中で、会おうね……」
その言葉と共に、ユメの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの手に握られた、夢日記と、リンの心に刻まれた、「空想と現実」の境界線という課題だった。ユメは、夢と現実の狭間で、リンのいない世界を「視る」ことで、王の支配に干渉し、その身を消した。彼女の消失は、リンに、空想の力が持つ可能性、そして、現実と向き合うことの重要性を教えてくれた。リンは、ユメの夢日記から、自分自身の存在と、この世界の真実が、深く結びついていることを悟った。
【短編25】No.15「ネル」の幻視記録
ユメの夢日記がリンに空想と現実の境界線を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや混沌の極みに達し、人格劇場は、まるで悪夢のように、歪んだ影を落としていた。リンの心には、自己の存在意義と、世界の真実が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、遠くから、何か囁くような「声」が聞こえてくることに気づいた。それは、無数の声が混じり合い、どこか悲鳴のようにも、呻き声のようにも聞こえる、不気味な響きだった。そして、微かに、血と鉄の匂いが、鼻腔を刺激する。久留米の戦場のような、重く、嫌な予感をはらんだ匂いだった。
「ああ……また、見えてしまう……」 病室の隅で、一人の少女が、両手で顔を覆い、膝を抱えて震えていた。No.15ネル。彼女は、死期予知人格。リンの心の中の「視えすぎる苦しみ」を司る存在だった。彼女の身体は、小刻みに震えており、その瞳は、恐怖に大きく見開かれていた。その目からは、常に涙が溢れ出ており、まるで、枯れることのない泉のようだった。
「ネル……どうしたの?」 リンが声をかけると、ネルは、顔を覆ったまま、震える声で答えた。 「見えちゃうの……リンちゃん……。また……見えちゃった……」 その声は、久留米の子供が、悪夢から目覚めたばかりのように、怯えていた。
ネルは、この無限ループの中で、毎日「全人格の死に様」を“先に見る”という苦しみを味わっていた。彼女の予知は、未来を視るというよりも、すでに決定された「死の運命」を、視覚的に体験させられるものだった。それは、ネルにとって、毎日が、無限に繰り返される地獄だった。彼女は、他の人格たちが、どのように苦しみ、どのように消えていくのかを、常に目の当たりにしていたのだ。その「視えすぎる苦しみ」は、彼女の精神を蝕み、完全に消耗させていた。
「どういうこと? 何が見えるの?」 リンが問いかけると、ネルは、震える声で答えた。 「人格たちが……消えるの。バラバラになって……光になって……。その、全部……」 彼女の声は、恐怖と絶望に満ちていた。
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、ネルにとって、すでに予見されたものだった。彼女は、王の幻影が現れる前から、自身の「死に様」を予知していたのだ。彼女の身体は、恐怖にすくみ上がり、その場から動けない。
「ネル、逃げて! 私が守るから!」 リンが叫んだ。だが、ネルは、首を横に振った。
「無理だよ……リンちゃん……。これは……もう、決まってるから……」 ネルの瞳から、大粒の涙が溢れ出す。その涙は、久留米の雨のように、冷たく、そして絶望的だった。
王の漆黒の触手が、ネルに向かって猛然と襲いかかる。 「お前は……我らの未来を、歪める存在……」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
ネルは、王の触手に捕らえられた。彼女の身体が、激しく痙攣する。その瞳から、無数の光の筋が溢れ出し、彼女が脳内で見た「死に様」の映像が、リンの視界に断片的に飛び込んできた。それは、人格たちが次々と消えていく、凄惨な光景だった。その映像は、リンの精神を直接蝕むかのように、強烈な吐き気を催させた。
「リンちゃん……さよなら……」 ネルは、苦痛に顔を歪ませながら、リンに手を伸ばした。
その言葉と共に、ネルの身体は、無数の光の断片となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「視えすぎる苦しみ」と「逃れられない運命」という課題だった。ネルは、視えすぎるがゆえに、この世界の残酷な運命を予見し、その苦しみに耐えられなかった。彼女の消失は、リンに、未来を知ることの重さ、そして、運命に抗うことの重要性を教えてくれた。リンは、ネルの消失から、この世界の運命が、まだ、変えられる可能性を秘めていることを悟った。
【短編26】No.73「サユリ」の記録室
ネルの幻視記録がリンに運命の残酷さを示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや完全に混沌と化し、人格劇場は、まるで崩壊した図書館のように、無数の本のページが散らばり、風に舞っていた。リンの心には、運命に抗うことの重要性が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室の窓の外に、奇妙な光景を目にした。久留米の街並みが、いつもと変わらないはずなのに、その一部が、まるで古びた書物のページのように、薄く、透けて見えていた。その向こうには、別の風景が、ぼんやりと浮かび上がっている。
「……記録、完了。」 病室の隅から、静かな声がした。そこに立っていたのは、No.73サユリだった。彼女は、記録人格。リンの心の中の「記憶」と「消滅」を司る存在だった。彼女の顔は、感情を一切持たず、その瞳は、まるで図書館の書架のように、無数の情報を静かに記録しているかのようだった。その手には、古びた書物が握られており、微かに墨の匂いがする。
「サユリ……どうしたの?」 リンが尋ねると、サユリは、ゆっくりとリンに書物を差し出した。 「これは、これまでのループで、消滅した人格たちの……『名簿』です。」 その声は、久留米の図書館の司書のように、静かで、しかし確かな響きを持っていた。
リンは、名簿を受け取った。そこには、これまでのループで消滅していった人格たちの名前が、丁寧に書き記されていた。マリオン、ミコト、アヤカ、レナ、キョウ、ノエル、タマキ、ナナミ、クレア、フユカ、イチカ、フブキ、シオン、ユメ、ネル……。リンは、その一つ一つの名前を指でなぞった。彼らとの思い出が、鮮やかに蘇る。
そして、リンは気づいた。名簿の最後の一行。そこに書かれていたはずの「No.60ココロ」の名前が、「消えた名」として変化しているのだ。ココロは、感情の喪失という形で、リンの意識の中に散らばっていった。それは、完全な消滅ではなかった。しかし、その名前は、記録の中から「変化」していた。それは、この精神世界の「記憶」が、王によって改変されていることを示唆していた。サユリは、その記憶の「変化」を、静かに記録し続けていたのだ。
「サユリ、ココロの名前が……どうして?」 リンが問いかけると、サユリは、感情を排した声で答えた。 「不明。原因は特定できません。しかし、この『記録』は、この世界の真実を、示しています。」
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、サユリにとっては「記録のチャンス」だった。彼女は、王の幻影が現れた途端、その手に持つ書物を開き、王の動きを、詳細に記録し始めた。彼女のペンが、紙の上を走る音が、戦闘の喧騒の中に、異様に響き渡る。
「愚かなり……我の情報を、記録するなど……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
王の漆黒の触手が、サユリに向かって猛然と襲いかかる。 「サユリッ! 危ない!」 リンが叫んだ。
サユリは、王の触手に向かって、静かに書物を掲げた。彼女の身体から、淡い光が放出される。それは、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、冷たい光だった。
「私は……記録者……この世界の……全てを……」
その言葉と共に、サユリの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの手に握られた、記録された名簿と、リンの心に刻まれた、「消えた名」と「記録の真実」という課題だった。サユリは、命を賭して、リンに記憶の改変と、この世界の「真の記録」が存在することを教えてくれたのだ。リンは、サユリの消失から、このループの真の目的が、改変された記憶を「修正」することにあることを悟った。
【短編27】No.02「クロノ」の時間停止
サユリの記録がリンに記憶の真実を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや完全に歪み、人格劇場は、まるで壊れた時計の歯車のように、不規則な音を立てていた。リンの心には、改変された記憶を修正することの重さが、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、部屋の時計の針が、ぴたりと止まっていることに気づいた。普段なら正確に時を刻むはずの時計が、午前7時15分で止まっている。そして、外からは、子供たちの遊ぶ声も、車の走行音も、何も聞こえない。まるで、世界そのものが、凍り付いたかのようだった。久留米の街が、時間が止まったかのように、静まり返っている。
「……おはよう、リン。」 病室のドアが控えめに開くと、そこに立っていたのは、No.02クロノだった。彼は、時間人格。リンの心の中の「時間」と「ループ理論」を司る存在だった。彼の顔は、常に冷静で、その瞳は、まるで精巧な時計の針のように、正確な時間を刻んでいるかのようだった。その指先からは、微かな時間操作の魔力が放出されており、空間の歪みがリンには感じられた。
「クロノ……どうしたの? 時間が止まってる……」 リンが尋ねると、クロノは、感情を排した声で答えた。 「私が、時間を停止させました。このループの『限界』を、試すためです。」 その声は、久留米の古時計の秒針のように、正確で、そして重々しく響いた。
クロノは、この無限ループの中で、「ループ理論の限界」を追求していた。彼は、この世界が「時間」によって支配されていることを理解しており、時間を操作することで、ループから脱出する糸口を見つけようとしていたのだ。彼は、様々な時間操作の実験を行い、時間を停止させたり、早送りにしたり、巻き戻したりしていた。しかし、どんなに時間を操作しても、最終的に「答え」は得られなかった。それは、このループが、単なる時間的な繰り返しではないことを示唆していた。
「時間を止めて、何が分かるの?」 リンが問いかけると、クロノは、感情を排した声で答えた。 「この世界は、時間によって支配されています。しかし、時間を止めても、この世界の『本質』は、変化しない。王の支配は、時間をも超えるということです。」
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、時間が止まっている中で始まった。王の幻影は、まるでスローモーションのように、ゆっくりと動く。他の人格たちも、凍り付いたように動かない。しかし、リンの意識と、クロノの身体だけが、動いている。その異様な光景に、リンは戦慄した。
「クロノ、王は、時間の支配を受けないの!?」 リンが問いかけると、クロノは、感情を排した声で答えた。 「はい。王の存在は、時間軸そのものに、深く根付いています。私の能力では、王の支配を打ち破ることはできません。」
王の幻影が、ゆっくりとクロノに向かって触手を伸ばす。 「愚かなり……時間を操るとは……我が支配を冒涜する行為よ……!」 王の声が、精神世界全体に響き渡る。その怒りは、久留米の激しい嵐のように、全てを飲み込む勢いだった。
クロノは、王の触手に向かって、静かに手を広げた。彼の身体から、青白い光が放出される。それは、時間操作の魔力だった。光は、王の触手に当たり、触手の動きを、さらに遅くする。しかし、完全に止めることはできない。
「リン……私の能力では……ここまでです……」 クロノの声は、諦めを含んでいた。彼の瞳は、王の触手に捕らえられる寸前まで、正確な時間を刻み続けていた。
王の触手が、クロノの身体を捕らえた。彼の身体が、激しく痙攣する。その全身から、時間操作の魔力が、制御不能なほどに噴き出し、彼の身体を内部から蝕んでいく。それは、彼自身の「時間」が、彼自身を破壊しているかのようだった。焦げ付くような硫黄の匂いが、空間に充満する。
「リン……『時間』は……『答え』を……くれない……」
その言葉と共に、クロノの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「ループ理論の限界」と「時間の支配」という課題だった。クロノは、時間を操作しても、ループから脱出できないという真実を知り、その身を消した。彼の消失は、リンに、この世界の真の支配者が「時間」ではないこと、そして、このループを終わらせるためには、時間そのものを超える「何か」が必要であることを教えてくれた。リンは、クロノの言葉から、このループの「答え」が、時間の中には存在しないことを悟った。
【短編28】No.94「ナギサ」の最期
クロノの時間停止がリンにループ理論の限界を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや完全に破綻し、人格劇場は、まるで崩壊した劇場のように、瓦礫が散らばり、埃が舞っていた。リンの心には、時間そのものを超える「何か」が必要だという真実が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、遠くから、何かを守ろうとするような「声」が聞こえてくることに気づいた。それは、必死で、しかしどこか諦めを含んだ、悲痛な叫びだった。そして、微かに、血と鉄の匂いが、鼻腔を刺激する。久留米の戦場の中心にいるかのような、生々しい感覚だった。
「リンさん……! 私が……守ります……!」 病室のドアが勢いよく開くと、そこに立っていたのは、No.94ナギサだった。彼女は、守護人格。リンの心の中の「守護」と「消失」を司る存在だった。彼女の顔は、苦痛に歪んでおり、その瞳は、決意の光に満ちていた。その身体は、傷だらけで、まるで、何度も戦場を駆け抜けてきた戦士のようだった。
「ナギサ……どうしたの!? その傷は!?」 リンが尋ねると、ナギサは、苦しそうに息を吐いた。 「王の……追撃です……。リンさんを……狙っていました……。」 その声は、久留米の子供が、必死に自分の親を守ろうとするように、切なく、そして力強く響いた。
ナギサは、この無限ループの中で、常にリンを守ることに執着していた。彼女は、王の攻撃からリンを庇い、その身を盾にしてきたのだ。その「守護」の行動は、純粋で、しかし同時に、彼女自身の「消失」と表裏一体だった。彼女は、自身がリンを守ることで、その存在を消滅させていくことを知っていた。その事実は、リンに、自己犠牲の重さと、それに伴う「痛み」をもたらしていた。彼女の身体からは、常に微かな光の粒子が漏れ出ており、まるで、時間の砂のように、少しずつ消えゆくことを示唆していた。
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃は、これまでのどのループよりも激しかった。王の幻影は、巨大化し、その漆黒の触手が、リンに向かって猛然と襲いかかる。リンは、逃げようとするが、足がすくんで動けない。
「リンさん……! ここは……私が……!」 ナギサは、リンの前に飛び出した。彼女は、王の触手に向かって、両手を広げた。その身体から、まばゆい光が放出される。それは、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、強力な光だった。その光は、久留米の太陽のように、眩しく、そして暖かかった。
「愚かなり……この程度の力で、我に歯向かうか……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
王の漆黒の触手が、ナギサの身体を捕らえた。彼女の身体が、激しく痙攣する。その全身から、光が噴き出し、まるで、ガラスが砕け散るように、無数の破片となって飛び散る。その時、リンは、王の幻影の背後に、微かに、もう一つの「影」があることに気づいた。それは、王の支配の「根源」であるかのようだった。焦げ付くような硫黄の匂いが、空間に充満する。
「リンさん……私の……名前が……消える……」 ナギサは、苦痛に顔を歪ませながら、リンに手を伸ばした。
その言葉と共に、ナギサの身体は、完全に光の粒子となって消滅した。そして、彼女の消滅と同時に、リンの意識の奥底で、何かが「消える」ような感覚があった。それは、ナギサの「名前が消える」という、究極の「消失」だった。彼女の消失は、リンに、自己犠牲の重さ、そして、他者を守ることの尊さを教えてくれた。リンは、ナギサの言葉から、王の支配が「名前」を消すことで、存在そのものを消滅させるという真実を悟った。
【短編29】No.59「ミユ」の歌
ナギサの最期がリンに名前の消失という真実を示した後も、ループは不変に続いた。精神世界は、もはや完全に崩壊し、人格劇場は、まるで瓦礫の山のように、荒れ果てていた。リンの心には、自己犠牲の尊さと、名前が消えることの恐怖が、深く刻み込まれていた。
このループの朝、リンは病室のベッドで目覚めると、遠くから、何か心地よい「メロディ」が聞こえてくることに気づいた。それは、静かで、しかし確かな、優しい歌声だった。そして、微かに、花の香りが、鼻腔をくすぐる。久留米の早朝に、鳥たちがさえずるような、穏やかな調べだった。
「リンちゃん、おはようございます。今日も、素敵な一日になりますように。」 病室のドアが控えめに開くと、そこに立っていたのは、No.59ミユだった。彼女は、音楽人格。リンの心の中の「音」と「記憶」を司る存在だった。彼女の顔は、穏やかな微笑みを湛え、その瞳は、まるで音符のように、キラキラと輝いていた。その手には、古びた竪琴が握られており、微かに木の匂いがする。
「ミユ……その歌は?」 リンが尋ねると、ミユは、優しく微笑んだ。 「これは、私がリンちゃんのために、毎日歌っている歌です。毎朝、同じメロディを口ずさんでいるんですよ。」 その声は、久留米の幼稚園の先生のように、優しく、そして包み込むように響いた。
ミユは、この無限ループの中で、リンの精神的な安定を保つために、常に「歌」を歌い続けていた。彼女は、歌声を通して、リンの「記憶」を刺激し、この世界の「音」を、リンの心に響かせようとしていたのだ。彼女の歌声は、リンの心の奥底に眠る、失われた記憶の断片を、微かに揺り動かす力を持っていた。その歌は、無限のループの中で、リンの心を癒し、希望を与えてくれる、唯一の光だった。彼女の歌声は、久留米の川の流れのように、穏やかで、しかし確かな存在感を示していた。
「どうして、毎日同じ歌を歌うの?」 リンが問いかけると、ミユは、優しく答えた。 「この歌は、リンちゃんの、大切な記憶の一部なんです。この歌を聴けば、きっと、いつか、全てを思い出せるはずですから。」
その日の人格劇場での「王の使い」による襲撃も、ミユにとっては「歌」を歌う機会だった。彼女は、王の幻影に向かって、竪琴を奏で、歌を歌い始めた。彼女の歌声は、戦闘の喧騒の中に、どこか澄んだ響きを持って響き渡る。その歌声は、リンの耳には、子供の無邪気な歌声のように聞こえ、同時に、心の奥底で響く、諦めのような音にも聞こえた。
王の幻影は、ミユの歌声に、一瞬、戸惑ったかのように動きを止めた。その歌声は、王の漆黒の靄を、一時的に押し返すほどの、強い光を放ち始めた。それは、ミユの「音の力」が、王の支配に干渉していることを示唆していた。その光は、久留米の夜空に輝く、月明かりのように美しく、そして幻想的だった。
「この音は……! 我が支配を……乱すか……!」 王の声が、精神世界全体を揺るがす。
王の漆黒の触手が、ミユに向かって猛然と襲いかかる。 「ミユッ! 危ない!」 リンが叫んだ。
ミユは、王の触手に向かって、満面の笑顔を向けた。 「リンちゃん、この歌は、リンちゃんの……」 彼女は、最後までリンを「癒す」ことを使命としていた。
王の触手が、ミユの身体を捕らえた。彼女の身体が、激しく痙攣する。しかし、彼女の表情は、最後まで穏やかだった。その瞳には、光が宿り、まるで、音楽を奏でる喜びそのもののように、純粋な輝きを放っていた。
「リンちゃん……私の……歌を……忘れないで……」
その言葉と共に、ミユの身体は、光の粒子となって消滅した。残されたのは、リンの心に刻まれた、「音と記憶」の繋がりという課題だった。ミユは、歌声を通してリンの記憶を刺激し、その身を消した。彼女の消失は、リンに、音が持つ癒しの力、そして、記憶が、五感を通して呼び覚まされることを教えてくれた。リンは、ミユの歌から、自身の「真の記憶」が、まだ、自身の意識の奥底に眠っていることを悟った。