白紙の記憶
微睡から浮上する意識は、まるで古びた書物の頁を一枚ずつ捲るような、緩やかで、しかし確かな抵抗を伴っていた。瞼の裏に広がるのは、ひび割れた琥珀色の光。それが何であるのか、リンには判然としない。指先に伝わるのは、乾いたシーツのざらつきと、僅かに湿った枕の冷たさ。鼻腔をくすぐるのは、埃と、消毒液の薄い匂い。病院? だが、その確信はない。頭の中は白い靄がかかったようにぼんやりとしており、自身の名前すら、掴みどころのない霧のようだ。
「……リン?」
掠れた声が、喉の奥で震えた。音として認識できるのに、その響きはまるで他人のもののように遠い。指先で額を探れば、汗ばんだ前髪がへばりつく。記憶を探る。だが、そこにあるのはただ広大な空白だけだった。自分が誰で、どこにいて、なぜここにいるのか。全てが抜け落ちている。まるで、重要なパズルピースがごっそり欠落した世界地図を眺めているような、得体の知れない不安が胸の奥で渦巻く。
体を起こすと、軋むような感覚が全身を駆け抜けた。視界の端で揺れるカーテンは、陽光に透けて淡い金色に輝いている。窓の外からは、遠くで子供たちの遊ぶ声が聞こえる。それは何の変哲もない日常の音のはずなのに、リンの耳には酷く現実離れして響いた。
(なぜ、私は何も思い出せない?)
無意識に、右手の甲を左手の指先でなぞる。そこには、小さな古い傷跡が一つ。いつ、どうしてできたものなのか。その問いさえ、虚空に消える。静寂が支配する病室で、リンは自分という存在が、まるで張り子の虎のように脆く、そして空虚なものに感じられた。
その時、脳裏に直接響くような、厳かで、しかし優しい声が聞こえた。
「――目覚めましたか、本体。」
リンはびくりと肩を震わせ、周囲を見回した。誰もいない。しかし、その声は確かにリンの頭の中に直接語りかけている。困惑が顔に張り付く。
「誰……? あなた、は?」
再び脳内に響く声は、どこか諦念を含んでいた。
「やはり、今回は“白紙”からか。無理もない。貴女はすでに、99回世界を繰り返してきたのだから。」
99回? 世界を繰り返す? 目の前の現実が、突然、歪み始めるような錯覚に陥る。リンの心臓が、まるで誰かに握り潰されるかのように激しく脈打つ。
「何を、言ってるの……? 意味が、分からないわ……!」
声は、ゆっくりと、しかし有無を言わせぬ響きで告げる。
「私はNo.01、マリオン。貴女の、最初の記憶を司る人格。そして、貴女の中には、貴女がこれまで経験してきた99通りの人生、99人の“私”がいる。そう――貴女は、99回、この世界で生きて、そして死んできたのだ。」
マリオンと名乗る声の言葉は、リンの意識の奥底に、まるで冷たい雫が落ちるように染み渡っていく。99回繰り返された世界。99人の私。その途方もない情報量は、リンの小さな脳にはあまりにも巨大すぎた。しかし、同時に、胸の奥で燻っていた漠然とした違和感の正体が、僅かに見えたような気がした。空白の記憶、掴みどころのない不安、そして、この異様に「静かな」病室。
(私が……99人?)
リンは、無意識に左胸に手を当てた。脈打つ心臓の音は、さっきよりもずっと大きく、そして速い。それは恐怖か、それとも、新しい真実への期待か。まだ名も知らぬ“私”たちの存在が、リンの意識の扉を、静かに、しかし確実に叩き始めていた。