女上司も、恋をする。―まっすぐな部下の想いに揺れる夜―
俺の名前は田中悠真。25歳、都内の中堅企業で営業の仕事をしている。学生時代こそそこそこ充実していたが、社会人になってからは仕事ばかりで恋愛とは縁遠い生活を送っていた。そんな俺が、最近気になって仕方がない人がいる。俺の直属の上司――課長の美月葵だ。
彼女は27歳という若さで仕事の実績も十分、同僚や後輩たちから厚い信頼を寄せられる頼れるリーダー。いつも冷静で、凛とした雰囲気を纏っている。だからこそ、その背中を追うように俺も必死で頑張ってきた。
けれど時折、彼女の表情に寂しげな影が差す瞬間がある。そのわずかな変化を見逃せない自分に気づいたとき、胸がざわついた。もしかすると彼女に惹かれているのかもしれない、と。
ある日の夜、俺は残業の疲れに苛まれながらも、ふと顔を上げてデスクの向こうを見やった。すると、残業組の中に美月課長の姿がある。いつもはクールで颯爽と業務をこなす彼女が、今日はどこか疲れた表情をしているように見えた。
「課長、まだ仕事されてるんですか?」
自分でも驚くくらい自然に声をかけていた。
「……ああ、田中くん。ちょっと資料がまとまらなくてね」
いつもなら軽い調子で返してくれる彼女の声からは、いつもの余裕が感じられない。それが気にかかって、思わず俺は提案した。
「課長、今日もう遅いですし、このあと飲みに行きませんか?」
「え、飲み? 急だね」
「はい。俺も資料整理で頭がパンパンなので、少しリフレッシュしたいんです」
誘いをかける俺を見て、課長はほんの一瞬驚いたような顔をした。しかし次の瞬間、ふっと笑みがこぼれる。
「ふーん、若い後輩に誘われるなんて新鮮ね。じゃあ、ちょっとだけ付き合ってあげる」
近くの居酒屋に入ると、まずはビールで乾杯する。最初はごく当たり前に仕事の話をしていたが、次第にくだけた雰囲気になった。
「田中くんって、お酒強そうだけど、実際はどうなの?」
「よく言われますけど、そこまでじゃないですよ。ほろ酔いくらいが限界です」
「ほんとかなあ。じゃあ、どっちが先に酔うか勝負してみる?」
そう言って、課長は笑いながら俺の肩を軽く叩く。その仕草が自然すぎて、胸がドキリとする。
「ほらほら、飲んで飲んで。後輩に負けるわけにはいかないんだから」
彼女が俺のグラスを覗き込むとき、肩がふれあうほど近づいて目が合った。思わず鼓動が高まる。
「課長、ほんと強気ですね」
「だって、後輩にナメられるわけにはいかないでしょ?」
小さく舌を出して笑う彼女。いつものキリッとした雰囲気とのギャップがあまりにも可愛らしくて、思わず見とれてしまった。
時間が進むにつれ、課長の口調もさらに砕けていく。
「ねえ、田中くんって彼女いるの?」
「いや、いないですよ」
「ほんと? 優しいのにもったいないなあ」
そう言いながら俺の手を軽く叩く彼女。少しだけ身を寄せてきたようにも感じられ、ますます意識してしまう。
「でもさ、田中くんって可愛いところあるよね。真面目そうに見えて、ちょっと抜けてる感じ? そういうの、嫌いじゃない」
不意に飛び出した“可愛い”の一言に、胸が熱くなった。後輩だからといって気軽に距離を縮めているのかもしれないが、俺はもう彼女の仕草一つひとつに翻弄されてしまう。
「ほら、グラス空いてるよ。次は何飲む?」
「じゃあ……同じので」
「えー、田中くん、案外つまんない選択するんだね。もっと冒険してみなよ」
笑いながら、今度は俺の腕を軽くつかむ。小さな接触にさえ鼓動が跳ね上がる。
「でもさ……田中くんって、優しいだけじゃなくて、ちゃんと気配りできるよね。そういうの、私、結構好き」
「い、いや……そんな」
「ほんとだよ。私が保証する!」
その言葉と同時に、彼女はちょこんと俺の肩に頭を乗せるような素振りを見せた。冗談半分だとはわかっていても、その甘えたような仕草がたまらなく愛おしく感じる。
翌朝。オフィスに出勤すると、いつもの凛とした美月課長がそこにいた。昨夜のくだけた笑顔や軽いボディタッチは嘘だったかのように、まるで何事もなかったように振る舞っている。だが、俺の中では確実に彼女への印象が変わり始めていた。
それが「上司」としてではなく、「女性」として意識し始めているのだと気づいた瞬間、妙に落ち着かない気持ちになる。
そんな折、同僚たちの何気ない会話が耳に飛び込んできた。
「美月課長って、時々プライベートで会社の男たちとも飲みに行くらしいぜ」
「マジ? 手当たり次第に男を誘ってるってこと? なかなかやり手だよなあ」
胸がざわつく。昨夜あれだけ距離が縮まったと感じていた分、その噂話が余計に引っかかる。もしかして、あんなふうに楽しく飲めるのは俺だけじゃないのかもしれない――そんな不安が、心のどこかでちらつく。
それでも、彼女のことをもっと知りたいという気持ちが抑えられなくなっていた俺は、その夜、再び彼女に声をかけた。
「課長、今日も少し飲みに行きませんか?」
彼女は俺の顔を見て、何かを探るような目をしながら微笑む。
「また誘ってくれるの? 嬉しいけど……田中くん、本当は何か話したいことがあるんじゃない?」
その言葉に少しドキリとした。確かに、彼女を飲みに誘ったのは噂の真相を確かめたいという気持ちがあったからだ。ごまかしのきかない鋭い視線に、俺は素直にうなずく。
前回より落ち着いた雰囲気のバーに入り、柔らかな照明の下で彼女がカクテルを頼む。控えめにグラスを傾ける姿はどこかしっとりとしていて、普段の冷静な課長らしさも感じつつ、やはり目を離せない。
「で、田中くん。何か悩んでるんでしょ? 私に話してみなよ」
優しく問いかけられて、俺はグラスを手の中でもてあそびながら口を開く。
「悩みというほどじゃないんですけど……課長って、普段いろんな人とよく飲みに行くんですよね?」
「そうだけど……なんでそんなことが気になるの?」
「最近、同僚から課長に関する噂を聞いちゃって。その……ほかの男性ともよく飲むって聞いたんで」
自分でも情けないくらい回りくどい言い方をしているのがわかる。彼女はクスリと笑った。
「ふふっ、田中くんって意外と探りを入れてくるんだね」
「いえ……そういうつもりじゃないんです。でも……課長のことをもっと知りたいと思ったんです」
正直な思いを口にすると、彼女は少し視線を下ろしてから、穏やかな微笑みを浮かべる。
「まあ、確かにいろんな人と飲むけど……そんなに変なことかな? 私、誰かと一緒にいるのが好きなの。ひとりだと、いろいろ考えすぎちゃうから」
「考えすぎる、って?」
「うん。ひとりでいると、自分が本当に必要とされてるのかなって、不安になってくるの」
その言葉に胸が痛んだ。仕事で頼られ、クールに何でもこなす彼女がそんな弱さを抱えているなんて想像もしなかった。
「課長は、十分必要とされてますよ。職場のみんなだって課長がいるから安心して働けるんです」
「それは仕事の話でしょ? プライベートでは……誰にも必要とされてない気がするんだよね」
寂しげに笑う彼女を放っておけない。気づけば俺は言葉を続けていた。
「……俺は、課長といるとすごく楽しいです。もし課長が俺を必要としてくれるなら、いつでも力になりますよ」
正直、自分でも恥ずかしいくらい真正面からの言葉だった。それでも、彼女は目を伏せたまま小さく笑い、
「田中くんって、ほんと真っ直ぐだね。でも……ありがとう。そんなふうに言ってもらえると、少し救われる気がする」
と呟いてくれた。その夜、店を出るときに彼女は俺の腕を軽く叩いて、笑い混じりに言った。
「これからも、たまには誘ってね。君と話してると気が楽になるから」
それから、俺たちは何度か一緒に飲みに行くようになった。オフィスでは変わらず上司と部下として接しながらも、プライベートでは徐々に打ち解け始める。
ある週末、映画を観に行った帰り道、夜の街灯に照らされる彼女の横顔がどこか眩しく見えた。
「田中くん、最近よく誘ってくれるね」
「課長といると、なんか落ち着くんですよね」
「そっか。そう言ってもらえるの、嬉しいな」
微笑む彼女の顔が、前よりも柔らかくなっている気がする。そのままカフェに入り、コーヒーを飲みながら雑談をしていると、彼女がふっと真顔になる。
「私がすごく辛い思いをしてたら……田中くんは助けてくれる?」
「もちろんです。課長が困ってるなら、俺は全力で力になります」
即答すると、彼女は少し驚いたように瞬きをしてからふっと笑う。その笑顔はどこか安堵の色を帯びていた。
「ありがと。田中くんって、ほんと優しいね」
その言葉に胸が熱くなる。彼女を支えたいという思いは、俺の中で日に日に強くなっていった。
しかし、彼女が本当に俺に心を許してくれているのか、不安になる出来事もあった。
ある日、彼女のスマホに届いた通知が偶然目に入ってしまったのだ。「昨日は楽しかった。また早く会いたい」と書かれたメッセージは、まるで恋人同士のやりとりのようだった。
「あ、それ見えちゃった?」
「あ、すみません……」
「心配しないで。ただの仕事仲間だから」
そう笑顔で軽く言われても、俺の胸には小さな棘のような違和感が残る。でも、だからといって彼女を問い詰めるのは違う。何より、俺がすべきことは彼女を信じることだ。彼女が自分を必要としてくれるなら、俺は待とうと思った。
それから数日後、再び残業で遅くなったオフィスで、俺と彼女は二人きりになった。
「課長、もうこんな時間ですよ。今日はこれくらいにしましょう」
「そうね、さすがに切り上げないと。田中くんはどうする?」
「俺も帰ろうと思ってました。よかったら、一緒に駅まで行きませんか?」
彼女は少し考えた後、うなずいて立ち上がる。その姿はいつもどおり凛としているが、夜道を並んで歩くうちに、ふとした瞬間に見せる笑顔が以前よりも自然になっている。
「ねえ、田中くん」
「はい?」
「最近、君と話してるとなんだかホッとするの。ずっと仕事ばかりで、誰かと気軽に話せる時間なんて忘れてたけど……必要だね、こういうの」
彼女の口からこぼれる弱音に、胸がじんとした。
「そう言ってもらえるなら、俺としても嬉しいです。課長がしんどいときは、いつでも声かけてくださいね」
「……ありがとう。本当に、ありがとう」
夜風に吹かれながら並んで歩く帰り道。彼女と俺のあいだには、温かな空気が満ちていた。
その後も仕事終わりや休日に彼女と過ごす時間が増え、上司と部下の壁を少しずつ越えていった。彼女も素の自分をさらけ出すようになり、俺自身も自然と自分のことを話せるようになっていく。
ある日のランチタイム、彼女がぽつりと口を開いた。
「田中くん、私ってさ……会社じゃ強く見られてるかもしれないけど、本当は大した人間じゃないのよね。君にだけは、そういう私がわかってもらえてる気がするんだ」
「そんなことありません。課長は本当に努力してるし、みんなからの信頼だって厚い。俺は課長のそういうところ……好きですよ」
自分でも驚くほど素直に口をついて出た“好き”という言葉。彼女はほんの少し目を見開き、それから照れたように笑みをこぼす。
「……田中くんって、本当に真っ直ぐね」
それ以来、彼女と目が合うだけで胸が高鳴るようになってしまった。彼女もまた、俺に話しかけるとき、以前より柔らかな笑顔を向けてくれる。周囲には悟られないように気をつけながらも、二人だけの空気がどこか違い始めていた。
そんなある日の金曜、彼女から思いがけない誘いを受ける。
「田中くん、今週の金曜って予定ある?」
「金曜ですか? 特には……ないですよ」
「よかった。実はさ、新しくオープンしたレストランがあって、行ってみたくて。良かったら一緒にどう?」
彼女からの誘いに内心飛び上がるほど嬉しかったが、平静を装って返事をする。
「もちろん行きたいです。課長が誘ってくれるなんて光栄ですよ」
「そんな大げさに言わないでよ。気軽に、ね」
そう言って照れ笑いを浮かべる彼女を見ていると、早く金曜になってほしいと心から思った。
約束の金曜。待ち合わせ場所に現れた彼女は、仕事用のスーツではなく、シンプルなワンピース姿だった。いつもの凛々しさとは違うフェミニンな装いに、思わず見とれてしまう。
「どうしたの? そんなに見つめられると恥ずかしいんだけど」
「あ、すみません。ただ……課長がすごく素敵だったので」
「ふーん。田中くんって、案外口がうまいのね」
照れくさそうな彼女の笑顔に、俺の胸が一層熱くなる。二人で訪れたイタリアンレストランは落ち着いた雰囲気で、キャンドルの灯りがテーブルを優しく照らしていた。
彼女はメニューを見ながら「何がいいかな」なんて無邪気に迷っていて、仕事のときのキリッとした姿とのギャップがたまらなく愛おしい。
「こういうゆっくりした食事、久しぶり。忙しくて外食もパパッと済ませることが多かったから、なんか楽しいね」
「課長もたまには息抜きしないと、ですよ。仕事ばっかりじゃ疲れちゃいます」
「そうだね。君といると、すごくリラックスできるんだよね」
その言葉に頬が熱くなる。彼女にとって俺の存在が少しでも安らぎになっているなら、それだけで嬉しかった。
食事を終えて店を出ると、夜風が心地よい。彼女がふと立ち止まり、俺の方を向いて静かに言う。
「田中くん、いつもありがとう。仕事のこともそうだし、こうやって話を聞いてくれることも」
彼女の瞳が、ほんのりと潤んでいるように見えた。
「俺の方こそ、課長には感謝しかないです。いつも支えてもらってますから」
「ふふっ、お互い感謝し合ってばかりだね。でも……悪い気はしないな」
彼女がそう言って微笑んだ瞬間、俺の中で「もっと彼女を支えたい」「もっとそばにいたい」という気持ちがはっきりと形を成した。
その夜から、俺たちはさらに距離を縮めていった。彼女も俺も、自然にお互いの悩みや日々の出来事を話し合うようになった。上司と部下としてはもちろん、ひとりの男と女としても、少しずつ惹かれ合っているのを感じる。
そして、ある夜。また残業帰りにバーで一緒に飲んでいたとき、彼女がポツリと言った。
「田中くん、私、ずっと『頼れる上司』でいなきゃって思ってたんだ。周りからそう見られるたびに、完璧に振る舞わなきゃいけないって……誰にも甘えられなくなった」
「課長……」
「でも、君といるときだけは違うの。なんだか安心して、弱音が吐けるっていうか……甘えたくなっちゃうんだよね」
いつもはクールな彼女が見せる、その揺れる瞳。その奥にある不安を守りたいと強く思った。
だから、思い切って呼び方を変える。
「……美月さん」
「……!」
一瞬、彼女の目が見開かれたが、俺は構わず言葉を続けた。
「俺でよければ、いくらでも甘えてください。強がることだけが仕事じゃない。頼れる相手がいることは、絶対に悪いことじゃありません」
その言葉を聞いて、美月課長――いや、美月さんは小さく笑う。
「田中くんって、本当に真っ直ぐね……でも、その言葉、嬉しい」
バーを出てからの帰り道、彼女は歩きながらそっと俺の腕に触れた。驚きながらも、その手を握り返す。彼女は何も言わず、少し照れくさそうに笑っていた。
――もう、彼女を一人になんてさせたくない。俺が彼女の支えになりたい。心にそう誓う。
「田中くん、これからも私にいろいろ付き合ってね」
「はい。喜んで」
夜空を見上げると、美しい月が二人を見守っていた。静かな街に、俺たちの足音だけが響く。これから先もずっと、一緒に歩んでいきたい――そんな確かな想いを胸に、俺は彼女の手をもう一度、少しだけ強く握りしめたのだった。