3.事実
(やはり、リリアだ。間違いない)
カルロは、汚水の臭いなども気にせずに水溜りに顔を近づけた。
それから暫くの間、顔を触ってみたり、湿り気のある髪をつまみ上げたりと色んなことを試してみた。
少し申し訳なくはあったものの、今はそんなことを言ってられる余裕はない。
それを確信した途端、カルロに嫌な予感が押し寄せた。じわじわと、冷や汗が頬を伝っていく。
けれども彼は、リリアが今受けている扱いについて、これまでの彼女の行動を考えれば当然の仕打ちだと、無理やり自身を納得させた。彼がリリアに下した判断が、間違っていたなど考えたくもなかったのだ。
むしろ彼は、リリアが本当の悪女であって欲しかった。そうであれば、彼の行き場のない気持ちもすっかり消えてなくなってくれるだろうから。
(何故、私がこんな‥‥‥)
情けなさと、やるせなさでどうにかなりそうになる。
カルロは座り込んで、答えが出る訳もないことを延々と考え続けた。
そうしていると、再び扉が開く音がした。カルロがそちらをちらりと見る。
その人物にはよく見覚えがあった。彼女は俯いていて表情が見えない。
「アナ・ナイーゼ嬢!」
思わずカルロが叫んだ。目の前に立つ彼女はリリアの妹アナだったのだ。
ふらつく身体で立ち上がり、近付こうと試みる。彼は、アナに仔細の説明を求めたかったのだ。
が、様々な感情がごちゃまぜになっているカルロが、いつもとは違うアナの様子に気が付く筈もない。
「‥‥‥‥のよ」
アナがボソリと呟く。耳を澄ませばやっと聞こえるくらいの声量だ。
が、カルロははっきりと聞こえてしまった。
「今、何と?」
思わず聞き返す。聞き間違えだと思いたかった。いや、そうでなくてはいけないのだ。
彼女の次の言葉を待って、カルロはアナを凝視した。
それから、暫く黙り込んでいたアナが遂に顔を上げる。
薄暗い部屋からでも分かるほど、その顔は歪みに歪んでいた。
その瞬間、カルロは何かを察してしまった。
が、アナはそんなこと知るはずがない。
「なぁに、貴女なんかが、私の名前を軽々しく呼んでんのよって言ってんの!!汚らわしい!!」
口を開けたと思えば、暴言が飛び回った。
そこにカルロの知るアナなどいない。
「‥‥‥‥何故、だ…………」
カルロが思わず言葉を漏らす。
信じて疑わなかった決断が間違っていたという事実に、頭の中が真っ白になった。
自分の手でリリアを傷つけ、裏切ってしまった。
どうしてこんなことになってしまったのか。自責の念に駆られて堪らなくなる。
溢れんばかりの後悔がカルロに押し寄せてきて、今にも呑み込まれてしまいそうだ。
カルロは呆然と、その場に立ち尽くした。ぐちゃぐちゃの感情を整理しようとしているのか。
が、アナがそれを呑気に待ってくれる筈がない。
カルロの言葉の意味を勘違いしたアナは、畳み掛けるようにしてカルロの心の傷をえぐり込む。
「決まってるじゃない。軟禁された貴女を笑いに来たのよ!
うけるわぁ。頼みの綱のカルロ様さえ気付かないなんてね!!笑い堪えるのに必死だったわ」
「騙したのか・・・?」
依然として、彼女はあからさまにクツクツと嗤っている。
カルロの疑問には答えない。否、今の彼女には聞こえてさえいない。
「俺を騙したのか、って言っているんだ!!」
カルロが怒鳴り声を上げる。体を震わせ、拳を強く握りしめながら。靭やかな掌に爪の跡が出来そうなほどに。
アナへの敵意と殺気が剥き出しだ。
あまりの迫力にアナが一瞬たじろいだ。が、見る見るうちに憤怒に顔が燃えた。
遂には、こちらへズンズンと向かってきた。
「‥‥‥‥‥ッガ!?」
この身体では反応する暇もなく、突然腹部に激痛が走った。
――――蹴られたのだ。
思わぬ痛みに悲痛な声を漏らす。
痛みに腹を押さえ、地面にうずくまりながらカルロはアナを見上げた。対するアナは見下すかのような視線でリリアを眺めている。
そこに優しさなどはなく、冷ややかな怒りの感情のみが見て取れた。
「何なのその態度、気に入らないわ」
吐き捨てるように冷たく言い放った。すっかり衝動も冷めたようで、彼女は踵を返して部屋から出て行った。
バンッと、勢い良く扉が閉まる音が部屋に響き渡る。
が、既にそこには静寂しか残っていない。
「ハ‥‥ハハ‥‥、ハハハハハハ‥‥」
誰もいなくなった部屋でカルロが一人笑い出した。
笑いしか出てこなかった。何かが崩れ落ちていく音がする。
‥‥‥全て、偽りだった。上辺だけを信じて、自身の愛する人を信じてやれなかった。
(何が、皇太子だ‥‥‥‥。愛する人ひとりも守れずに)
気がつけば、一筋の涙がリリアの頬を伝っていた。そこに皇太子の姿など見る影もない。
アナが軟禁を願ったのは決して同情心からではなかった。リリアという玩具で遊ぶため――――。
(嗚呼、もう何もかもが馬鹿馬鹿しい)
全てを諦めかけたその時、扉がまた開いた。が、カルロは全く気が付かない。たとえ気が付いたとしても、抵抗する気力もないだろう。
大人しげなメイドは周囲を見渡しながら、コソコソとした様子で部屋の中へと入り、扉を閉めた。
リリアへと近付いてくる。
「お嬢様‥‥っ、大丈夫ですか?」
尋常でない様子のリリアに横から話しかける。カルロは笑うのを止め、メイドへと目を向けた。
眺めるだけで返事はしない。
リリアの様子を確認するなり、メイドは彼の傷口に何かを塗りつける。塗り薬だろうか。
「今日はいつもよりましで良かったです‥‥。
昨夜のことで溜飲が下がっているのでしょうか」
「だれ、だ、貴様、は」
メイドの言葉に、やっとカルロが反応した。
「お嬢様‥‥‥‥。やはりショックを受けてらっしゃるのですね。ずっと信じていらっしゃった皇太子殿下にまで捨てられたのですもの。無理もありません」
「‥‥‥‥‥」
いきなり図星を突かれ、カルロは再び黙り込んだ。他人に言われることは、自分で思うよりも遥かに堪えた。
心臓を貫かれたような気持ちになる。が、
「ですが、私だけはあなたの味方です」
突然のことだった。手が汚れることも厭わず、彼女はリリアの手を包み込んだ。その瞳に一切の淀みはない。
(良い、味方を側に持ったのだな)
染み染みと思う。自分のような愚か者でなく、心から信頼できる人間に。
自然と頬が緩んだ。糸が切れたかのように安らかな表情になる。
彼女は何も言わずにリリアを介抱した。涙を堪えているようで、表情が強張っている。
「‥‥‥名前は?」
ふと、そんなことを尋ねる。これまでリリアを支えてくれた恩人のことを知りたくなったのだ。
「『アリー』です」
何も聞かずに答えてくれる。リリアのことを考えて、気持ちを汲んでいるのだろう。
「アリー、か。いい名前だな‥‥。ありがとう」
穏やかに微笑んだ。
アリーも優しく微笑み返してくれた。