2.憑依
事件は、翌朝突然に起こった。
(………何だ?何か硬いな)
背中に痛みを感じ、カルロがハッと目を覚ます。手に意識をやり、彼の眠っていた所にそっと触れた。
(やはり、硬い……。眠っている間に床にでも落ちたか?それでも、絨毯が引かれていたはずだ)
冴えた頭でカルロは考える。眠っている間にベッドから落ちたにせよ、それで目が覚めない訳がない、と。
カルロは皇太子だ。日々襲撃に備えて鍛錬を怠った覚えはないし、これまでにベッドから落ちたことはなかった。
(それ程までに、リリアの存在は大きかったのであろうな)
自らの間抜けさに呆れつつ、カルロはそう結論付けた。自らの手で下した決断に悔いはない。けれども、彼は今後の人生でこのことを何度も思い出すのだろう。
しみじみと物思いに耽った後、漸くカルロはその目を開いた。いつまでも床で眠っている訳にはいかない、と。
しかし、何かが可笑しい。日が昇る頃であるのにやけに部屋は暗く、目を凝らしても見慣れぬ天井が視界に飛び込んでくるばかりだ。
「…………は!?ここは何処だ!!」
思わず泡を食うように跳ね起きた。控えめに掛けてあった布団がヒラリと宙を舞う。汚らしく、異臭のする布団だ。
カルロは思わず眉をひそめた。
(何だ、コレは‥‥‥‥?)
カルロが無造作にその布団を持ち上げた。いや、布団というには余りにお粗末で、紙のように薄っぺらい布。
質の悪く、よれた布は皇太子であるカルロには到底釣り合わない。それどころか、どんなに貧しい貴族でもこんなものを使わないだろう。
おまけに、よく見ると床ですらない。カルロが眠っていたのは硬くて狭いベットで、質も粗悪だ。
(誘拐された、のか?)
不愉快極まりなかった。臭いのする布も硬いベッドもそうだが、何よりも彼自身の間抜けさに呆れ返っていた。
確かに彼は、皇宮内にある彼の部屋の中眠りについた筈だ。だが、今は明らかに違う場所にいる。それも、とても貴族が住むような所とは思えない所に。
頭を切り替え、辺りを見渡して状況を把握しようとするも、部屋には窓さえなく、目を凝らさなければ周りが見えないほど薄暗い。
おまけに、迂闊に動けば音が出そうなほど散らかっていた。
そんな時、カルロはふと身体に違和感を覚えた。いつもより気怠げで、彼の思うように体が動かせなかったのである。
「…………どういうことだ、?」
つい、声を漏らしてギョッとした。口を慌てて押さえて、まじまじと視線を下にやる。嫌な気配を感じて、確認せずにはいられなかった。
カルロが思わず目を見開く。明らかに胸部に膨らみがあり、おまけに丸みの帯びた肌が服の裾から顔を覗かせていたのだ。
震える手で頬をつねると痛みが広がり、男のものとは思えない柔らかさがあった。腕は細く、今にも折れてしまいそうだ。
(ま、まさか。誘拐などではなく―――)
カルロが一つの考えに思い至ろうとした時、不意に扉が開いた。実にタイミングが悪い。
「お嬢様、起きてます?」
パッと、カルロが声のする方を見やった。
(お嬢様………?何故だ。こんな汚らしい部屋に)
カルロが小首をかしげた。突然、ノックもせずに部屋へと入って来た女はメイド服に身を包んでいて、あたかも使用人のようだった。
おまけに、彼女の着るメイド服は小汚い部屋には見合わない素材の良さで、だからこそカルロは何が起こっているのか理解できなかった。
兎に角、カルロは大人しく女の様子を観察した。状況が分からない以上、下手な行動は取る訳にはいかないのだ。
そうしていると、やがて女はゆっくりとカルロに近付いた。その手には桶が抱えられて、チャプチャプという音が辺りに鳴り響いていた。
彼女が本当に使用人であるのなら、顔でも清めてくれるのだろうか。カルロが呑気にもそう考えた時だった。
「なっ」
カルロが思わず声を上げた。身動きを取るも既に遅く、バシャンと勢いの良い音が響いて肌寒さが全身に広がった。
前触れもなく、突然だった。慣れぬ身体で避けろというには無理があり、カルロは為す術もなく桶の水を掛けられた。
ポタポタと、彼の毛先から水滴が滴る。着ていた服も湿り、すっかり透けている。
「な、貴様、何をする……!」
声を荒らげる。怒気を孕んだ声で、カルロは目の前で嗤う女を濡れた顔のまま睨みつけた。
「何を………って、決まってるじゃないですか。今のお嬢様に相応しい姿にして差し上げたのですよ?
とーーってもお似合いです!!………!と、言うか、」
女がクスクスと笑い、カルロの長い髪を力任せに持ち上げた。
カルロは抵抗することも出来ない。華奢で、柔い腕でどうやって抵抗することができようか。
「何ですか?その、生意気な態度は!?
貴方ごときが反抗的な態度を取るなど、到底許される行為ではありません!!ご当主様方に報告されたいのですか!??」
先程の様子から一変して、女はカルロに怒鳴り散らした。
言っている意味は理解できるのに、何を言っているのかまるで理解できない。カルロは苦痛で顔を歪めつつ、上手く回らぬ頭で必死に考えた。
「ハッ、いい気味ね」
そうしていると、女が嘲るように笑った。満足したのか無造作に手を離し、地べたに転がった彼を見つめて意地の悪い笑みを浮かべた。
地面に溜まった水は汚水であった。カルロはようやく痛みから開放されたものの、辺りは臭く、今にも鼻が曲がりそうだった。
女が濡れた手をパタパタと払う。「汚らしい」と呟いて踵を返し、部屋から足早に出て行こうとした。
カルロは頭が追いつかず、それを呆然と眺めることしか出来なかった。
あっという間のことだった。扉が閉ざされたのは。再び、訳も分からず薄暗い空間に放り出されたのは。
無情にも閉ざされた扉は一向に開く気配もなく、部屋の中には彼一人がその場に佇んでいた。
(嗚呼、静かだ)
喧騒は去り、漸く訪れた静寂の中カルロは昔のことをしみじみと思い出した。そうでもしないと、この現実かも夢かも分からない状況に向き合えそうになかった。
厳しかった両親、擦り寄ってくる貴族の人々、仕事を淡々とこなす使用人も、今となっては何処か懐かしく思えた。
―――カル!
突如として、覚えのある声が彼の頭に響いた。懐かしの、汚れを知らぬ彼女の声だった。
(何と女々しいことか……。幼い頃の儚い恋心に胸を痛めるなど)
何故今、幼少期に出会った頃のリリアの顔を思い浮かべるのだろう。カルロは顔を顰めつつ、昔のことをそっと思い出した。
カルロがまだ幼かった頃、勉強が嫌になって、何度も何度も隙を見つけては王宮から抜け出していた時期があった。
ひたすら知識を詰め込んで実践しては、事ある毎に注意される毎日。取るに足らない灰色の世界。
そんな窮屈な場所から逃げ出したくなったのだ。
皇宮から出さえすれば、少しの間だけでも自由になれた。街に降りれば、殆ど誰も皇太子など気付かない。
その時だけは自分に翼が生えたかのような気分になれた。何処へでも行けそうな、そんな気持ち。
両親だけでなく、使用人からも手に負えなかったと今では自覚している。
カルロが真剣に勉強を取り組むようになったのは、些細な事がきっかけだった。
ある日、皇宮から抜け出したカルロは、何を思ったのかいつもより遠くの街へと向かった。
その先で出会ったのがリリアだった。
初めて行く街で土地勘のないカルロ。そんな彼に、無邪気な笑顔を浮かべて「街を案内してあげる」とリリアは言った。彼の手を優しく引いて。
少女に流されるがままに街の中を歩き回った。肩書など関係なく、まるで友人のように。
感情を惜しみなく全面に出し、明るく、心優しい彼女。
彼女が貴族の令嬢だと知ったときは大層驚いたものだ。
同時に、何故彼女が一人なのか疑問に思った。
その時は聞けなかったが、時々見せる彼女の物憂げな表情には心が締め付けられた。
いつかリリアを迎えに行こう。その気持ちは、まだ年端も行かない彼にやる気を与えるには十分だったのだ。
あの頃のリリアは純粋で、優しく、天真爛漫な女の子だった。
それが、あんな―――――。
嫌なことを思い出しそうになり、カルロは過去を振り返るのを一旦止めることにした。
兎に角、今はこの状況を把握する必要がある。
そんなことを考えていると、偶然にも濁った水溜りへと目が行った。
薄暗い中、自分の姿が水面に浮かぶ。見たことのある顔つきだ。
「‥‥‥‥!?」
再び衝撃が走った。見たことがあるどころではない。
愕然として声が出なくなる。なぜならば水面に映る女性は‥‥‥‥、
――――カルロのよく知るリリアだった。