10.走る衝撃
「待って!!」
カルロの声が辺りに響き渡った。
世間体など気にする余裕すらないような切羽詰まった声だった。必死に、感情を剥き出しにして彼はただ声を張り上げていた。
けれどもリリアは聞こえない振りをした。
驚いて足を止めたところで、哀れに思って振り返ったところで、今さら心が晴れ晴れする訳がない。
むしろ余計に虚しくなるのかもしれなかった。
一体足を止めたところで何になるのかと、リリアは自身に言い聞かせて足早に彼から遠ざかった。みっともない子供の言い訳など聞く気もない。これ以上無駄な時間を消費する必要はない。と。
それでもやけにはっきりとカルロの声は聞こえた。
嘆きにも似た、聞くに耐えない訴えるような声だ。
何処かあの時の彼女と似ている。カルロに見放されて必死に訴え続けた彼女を。つい最近、味わった絶望を。
(早く、早く、この場から立ち去らないと……)
無意識の内に、リリアの頭はその場から離れることでいっぱいいっぱいになった。他のことを考えることを放棄してしまった。
彼女は必死だった。拭い切れない過去が、忘れようとしていた過去が、鮮明に蘇ってしまう。その恐怖を恐れて、その場から逃げ出したくなったのだ。
が、思うように前へ進めない。早く此処から離れたいのに、視界が歪んで、思考に靄が掛かって、足取りが覚束なかった。
こんなことになるのなら、端からキッパリと拒絶しておくべきだった。突き放して置くべきだった。
無意識の内にそんな考えが脳裏を過る。
けれどもそんなことは結果論で、今更どうしようもなかった。
「お願いだ!話を、聞いて………!」
依然として、カルロは必死に叫ぶ。幾ら引き留めようと、今のリリアには決してそれが届くことはないのに。
今にも消えそうな切実な叫び声で、カルロは何かを必死に訴え続けていた。
(話を、聞いて………?)
ぴたり、とリリアが足を止める。いつの間にか頭の霧は晴れていて、胸に何かが渦巻いていた。
話を聞く気になった訳ではない。つい、その言葉に反応してしまったのだ。
「今更何を聞けというのですか!!」
リリアは大声で叫んだ。振り返ることなく、精一杯声を振り絞った。
まだ十にも満たない相手に投げ掛ける言葉ではないが、そんなことを呑気に気にしている余裕は彼女にはなかった。
いくら幼かろうが、いくら皇太子だろうが、今のリリアには関係ない。いくら前世で起こったことであろうとも、今彼女の背後にいるのは、彼女を引き留めているのは、他にないカルロなのだから。リリアの話を最後まで信じきれず、見捨てた本人に変わりないのだから。
「それは………っ」
「ほら、言えないんでしょう……?
お願いだから、期待させないで。これ以上は耐えきれないの。もう止めてっ」
間髪入れずリリアは呟いた。言い聞かせるように、突き放すように。
―――やっと静かになった。
カルロは黙り込んでいた。先程まで騒がしかったとは思えないほど静かで、緩やかな風がサワサワと草木を揺らしていた。
リリアはぽっかりと空いた胸を撫で下ろした。呆然と、しかし落ち着いたように。
そんな時。
「……君の母君に、危険が迫っている」
彼はそうハッキリと言い放ったのだ。不意に、淀みない声で。そこに先程までの悲痛さは微塵も感じられなかった。
思わずリリアは振り返った。決して振り返るものかと決めていたのに、つい振り返ってしまったのだ。
今だけは他の感情を除け者にして、驚きと動揺だけが彼女の心を支配した。
(何で、知ってるの……)
開いた口が塞がらない。目を見開いて、リリアは呆然とその場に立ち尽くしていた。
彼の言葉は余りにも抽象的だ。もし彼女が何も知っていなければ、きっと意味も分からなかったことだろう。
けれど、彼女には十分だった。十分過ぎた。たったそれだけでどれだけ心が揺さぶられたことか。
過去を知っている彼女にとって、彼の台詞は爆弾だったのだ。
「急にこんなことを言って困惑するかもしれない。けれども私は、君を守りたいだけなんだ」
黙り込むリリアを余所に、カルロは言葉を続けた。
「私に最後の機会を与えて欲しいんだ。貴女の望みなら、事が済んだらもう関わらないと約束しよう。だから、………お願いだ」
「貴方は、一体……」
リリアの呟きは虚空へと消えた。風の音に吸い込まれて消えていった。
きっとこれが、今の彼が告げることのできる精一杯の言葉だったのだろう。
リリアは、これ以上問い詰めることが出来なかった。まだ、聞いてはいけない気がした。
「………好きになさって下さい。けれど、それっきりです。先程申されたことが嘘か真かは存じませんが、出来る限り私と関わらないようにして下さい。それだけ守ってくだされば十分です。事が済んだら―――」
「ありがとう。私に機会を与えてくれて」
すかさず、カルロはパッと顔を上げた。救われたように微笑んで、リリアを見つめていた。
そんな彼に、リリアは視線をそらした。慌ててその場から立ち去り、あらぬ可能性を考えていた。
まさか彼も前の記憶を持っているのか。そんな疑念が頭にぼんやりと浮かび上がる。不思議と、自然に。
その事が分かるのはカルロ本人だけであるが。
それでも、一つだけ気に掛かることがある。
―――彼の婚約破棄である。
あんなにも強い意志を持って彼女を突き放した人物が、どうしてリリアを守り、救おうとするのか。
もう一つ考えられる可能性。それはやはり、リリアのタイムリープだ。彼女の巻戻りが何らかの形で過去を変えてしまったのかもしれないし、それによってズレが生じた可能性も否めなかった。
最悪の場合、理由は分からないが彼が主犯と関わりを持っている可能性すらも考えられるのだ。100%ないとは言い切れない。
兎に角、過去が大幅に変わってきている今、次に何が起こるのか予測出来ない。
リリアは頭を悩ませて、ひとり静かに部屋へと戻っていった。