5.持ち出した提案
(…………ごめん?それは、何に対して?)
リリアはむず痒い気持ちを抑えることが出来なかった。そんなことを気にしている場合ではないのに、どうしても何処か引っ掛かるものがあった。
だが、それを尋ねたところで何になろうか。無駄なことに時間を割くよりも、もっと言いたいことがあるだろう。と、モヤッとした感情をリリアは頭からふるい落とした。
この機を逃す訳にはいかない。一度婚約させられてしまえば、こんなチャンス二度と来ない。
「殿下‥…。こんな時に、少し言い難いのですが」
前置きをして、リリアはじっとカルロを見つめた。何処か緊張感を帯びた声で。テコでも動きそうにない強い気持ちで。
どの道、もう直お茶を淹れに厨房へと向かったメイドが戻って来てしまう。その前に話を進めなければならない。
何かの気配を察したのだろうか。『何だろう』そう告げる彼の瞳はリリアをはっきりと射抜いていて、目にはハイライトが戻っていた。先程の情けない姿とは訳が違う、意志のある強い瞳だ。
これならば問題なさそうだと、リリアが重い口を開く。自然と、辺りにピリリと緊張が走り、空気がサァっと冷めていくのを感じた。
それを合図として、彼女は一言言い放った。
「婚約を、何とか引き延ばして欲しいのです」
「引き伸ばす……?」
眉をぴくりと動かすカルロ。想像すらしていなかったのか、思わず彼はそう聞き返した。
「はい。何としてでも」
リリアが語気を強める。本音を言うと、今すぐにでも取り下げて欲しいところではあるが、根本的に彼の力だけでは無理だ。何とか延長は出来ても、アバンリッシュと皇帝が認めるとは思わない。
(今はまだこれで十分。兎に角、引き伸ばすことさえできれば……)
これが、今の彼女に出来る最善だった。婚約さえしていなければ自然とカルロと関わる機会も減るだろうし、もしかすると彼にも大切な人が見つかるかもしれない。それこそ、リリアと婚約しようとしていたことなんか忘れて。
それを願ってのことだった。
だが、それも彼が頷かなければ意味がない。
リリアは賭けに出たのだ。少しばかり歪んでしまっているけれども、幼き頃の彼ならば頷いてくれるかもしれないと。
リリアはチラと彼の様子を伺った。恐る恐る、腫れ物に触れるように。
彼は俯いていた。だが、先程のような不穏な気配は感じない。どうやら心配はないようで、単に何かを考えているようだった。無意識なのか口元に手を当てて、ポツポツと何かを呟いている。
「‥‥‥分かった。父にはそう言い聞かせておこう」
程なくして彼は顔を上げた。何処か憂いの帯びた眼で彼女を見つめて、コクリと小さく頷いた。
「ありがとうございます」
単調な声で礼を告げる。一先ず、彼の言葉を信じてみることにした。だからといって安心はできないが。
結局、親が頷くかどうかであるし、きちんと伝えてくれなければ何ら意味はないのだ。
「けれども私から、一つだけお願いがあるんだ」
「はい?何でしょう」
リリアが小首を傾げる。身体が強張って、言葉も辿々しい。完全に不意打ちを食らった気分で、自然と警戒心が漏れ出た。
一体何を言い出すつもりなのか、彼女には全く想像もつかない。もう既に彼女の知る過去とは状況が違うし、何よりリリア自身これ以上話すことはないと思っていた。
だからこそ、余計に警戒してしまったのだ。
「婚約はしていない。していないけれども、何度か君の家に行かせてはくれないか」
「何故‥‥‥‥?」
リリアは僅かに眉を顰めた。声を僅かに荒らげた。それ程までに、目の前の少年の考えていることがイマイチよく分からない。言葉の理解が追い付かないのだ。
婚約者ですらないのに家を行き来するなど、これまでリリアが生きてきた中で一つも聞いたことがない。それが皇太子なら尚更だ。
そんなリリアを余所に、カルロは言葉を続けた。
「君に会わなくてもいい。会ってくれなくてもいい。けれども、私にはしなければならぬ事があるんだ」
またしても訳が分からない。そんな抽象的なことを並び立てられて、承諾しろというのかと呆れ返る。いっそのこと、それらしい理由を言ってくれた方がまだマシだった。会って仲を深めたいだとか、兎に角他に何かあるだろう。
「……それは一体何でしょう」
呟きを漏らすように、リリアが淡々と告げた。せめて理由くらい教えてもらっても良いだろう、と。
「ごめん。まだ言えない」
しかし、彼は首を振った。隠し事をするほど重要なことである訳がないのに、カルロはきっぱりと拒否の意志を示したのだ。
「理由を教えてくれなければ、提案を呑むわけにはいきません」
「それは………。けれども、まだ言う訳にはいかないんだ」
先ほど素直に頷いた彼は一体どこに行ったのだろう。やけに頑なで、意見を曲げる様子が一向に見られない。
とはいえ、これが原因で計画が台無しになっても困る。例えば、カルロが約束を反故にする可能性だってないとは言い切れない。
差し引き勘定をすると、どちらが良いかなんて明白だった。
「分かりました。理由は聞きません。ですが、先ほど殿下が申し上げた通り、もし私を見かけても決して話しかけないでください。出来る限り噂にならないように気を配ってください。それが条件です」
余りにも容赦ない条件を突き付けて、リリアがじっと彼を見つめる。今世の彼には酷だが、折れる代わりに此れ位は守って欲しかった。第一、会わなくても構わないと言ったのは彼であるし、第二に、婚約者でもないのに堂々と行き来されてはやはり噂が立つ。
「―――分かった。私が出来る範囲のことはしよう」
てっきり、リリアは彼が何かアクションを起こすと思っていた。そんなことは出来ない、と否定されると思っていた。
けれども的が外れたようだった。彼は暫くの沈黙の後、これ又小さく頷いたのだ。何処か寂しそうな、何処か苦しそうな空気を纏って。
本当に何がしたいのか分からなかった。こんなに哀愁の帯びた顔をするくらいならば、いっそ頷かない方が気が楽だろうに。こんなに苦しむくらいだったら、いっそ話してしまえば良いのに。
でも彼はそうしなかったのである。
いつの間にか、メイドはその場に戻っていた。一体いつからいたのか、不意に二人に話し掛けたのである。『そろそろお戻りください』と。
だから、リリアは彼のことを一度忘れることにした。兎に角契約は成ったのだから、これ以上気にしている場合ではない。
何故ならば、リリアは今度、母親を死なせない為に動かなくてはならないから。