2.母を救う覚悟
アルテミスの死因は不慮の事故が原因だった。
ある日、彼女はいつものように友人との茶会に出掛けた。この後何が起こるなんて知らず、出掛ける旨だけを夫に告げ、お昼過ぎに屋敷から出て行ってしまった。
その時にはリリアは屋敷から抜け出していて、アルテミスが外出していたことすら知らなかった。
問題はここからで、彼女が嬉々として家に帰った時、血相を変えたアバンリッシュがリリアを迎えたのだ。
当然、彼女は初め怒られると思っていた。勝手に外出した挙げ句、いつもより長い間屋敷に帰らなかったのだから。
しかし、そんなことは起こり得ない。アバンリッシュはリリア本人には興味がないのだから、勝手に出掛けようが、帰ってさえくれば問題なかったのだろう。一切リリアが咎められることはなく、代わりに訃報が彼女の元へと届いた。
―――アルテミスが事故で亡くなった、と。
突然のことに、リリアは頭が追い付かなくなった。一体彼が何を言っているのか分からなくなった。
悪い冗談ではないかと疑いたくなった。
しかし、アバンリッシュが嘘を言っているようには見えなかった。伸し掛るような声が、抑揚のない口調が全てを物語っていたのだ。
今となっても、あの時の衝撃は忘れようがない。いや、忘れられる訳がない。
偶然にも、彼女の乗っていた馬車が転落した。と、リリアはアバンリッシュから伝えられた。
かくいう彼も、他の誰かから伝えられたらしかった。
そんなことはどうでも良い。ここで問題なのは、アルテミスが亡くなってからラミアと再婚するまでの期間が異様に短かったことだった。
当時のリリアは何も疑いすらしなかった。初めは母が亡くなったショックで、後からは義母妹への恐怖で、そんなことを考える余裕などなかったのである。
が、今になって考えてみると何もかもが可笑しかった。妻が亡くなっていて、そんなに早く別の女性に手を付けるものなのか。そんなに早く再婚するものなのか。
本妻が亡くなったともなれば、愛していようがいまいが普通そんなに直ぐ再婚はしない。何故ならば、体裁が悪いから、喪に服する期間が必要だからである。
大抵の者が数年は空けることだろう。
けれども、彼らは年を跨ぐことなく再婚した。体裁が悪く、世間に叩かれることも厭わずに。
公爵という地位を持ちながら、アバンリッシュは堂々と暗黙のルールを破ったのである。
しかしこれは、彼がするようなことにはとてもではないが思えなかった。普段世間の目を気にするような男が、果たしてそんなことをするのだろうか。
だとすれば、ラミアが意図して仕組んだのかもしれなかった。狡猾で、いつも他者に命令を下すばかりだった彼女。
もし、アルテミスの事故が偶然でなく、故意的に引き起こされたものだとしたら、一度助かったとしても再び同じことが起こらない保証はない。二度だって三度だって起こり得る可能性があるのだ。
だが、リリアはアルテミスの命を救いたかった。例えリリアを愛していなくても、彼女の唯一の母であったから。
けれども、やはり根本的な解決にはならない。
何度だって命を狙われては、何処かできっとまた同じことが起こってしまう。
結局のところ、大本を絶たなければならないのだ。
それでも、先ずは目先にある事の方が大事だった。
兎に角、事故を未然に防ぎアルテミスを救う。それが第一に重要なことだ。そうなれば、暫くの間はラミアたちの再来も無くすことができるし、その間に次なる手も打てることが出来る。
が、それだけでは足りなかった。常に付き纏う恐怖と不安を払拭するためにも、確かな証拠が必要だった。
―――ラミアが犯人であるという証拠が。
今は、何もかもが不足している。情報だって、身体能力だって、ラミアの方が断然上である。
だが、それではいけないのだ。
リリアはアルテミスとの過去をしみじみと振り返った。何度も構ってもらおうと話し掛けて、何度も褒めてもらおうと勉強の成果を見せようともした。
その度に素っ気ない態度が返ってきて、殆ど口を聞いてくれなかったことを覚えている。家族で共に食事をするときでさえ、アルテミスは彼女のことを見ていなかったのだ。
いつか振り返って貰おうと手を伸ばし続けて、遂には届かなかった。その前に彼女の命が潰えてしまったのだから。
決して明るい話ではない。むしろ苦々しい、忘れられない思い出だった。
それでも、リリアは心から母の命を救いたかった。
端から見殺しにする選択肢などリリアに存在していない。それはラミアを恐れているからでもなく、単に母親だからという理由ではない。
大好きだったから。今度はきちんと話したいから。だから彼女はアルテミスを救いたいのだ。
アルテミスが亡くなるのは、初めてリリアとカルロが出会う日。
記憶の中の彼は、リリアにとってのヒーローだった。けども、そんな人物の影はもう見当たらない。
今では、将来リリアを地獄へと叩きつける1人で、出来るだけ関わりたくない人間である。
例えリリアの未来が変わったとしても、今度はカルロを愛したくはなかった。信じたくなかった。
もう彼に捨てられるのは耐えられないし、似たようなことが繰り返されない保証はないから。
リリアは首を振った。
今は感傷に浸っている場合ではない、と。
兎に角、リリアには運命の日に街へと降りずに、アルテミスを引き止めるしか方法がなかった。
そしたら自ずとカルロとの接触は避けられるし、婚約の打診さえ来ないかもしれない。
が、突然、パタパタとメイドが駆け込んで来た。慌てた様子で、ノックさえ忘れている。
「どうしましたか?」
ただならぬ気配を感じ取り、リリアは、何ら咎めることなくメイドに尋ねた。
落ち着きを取り繕って。
「お嬢様、落ち着いて聞いて下さい」
「何、でしょうか‥‥‥‥?」
「皇太子殿下から婚約の打診がきているのです」
そこまで聞いて、リリアは自分の耳を疑った。聞き間違いではないか、と。
まだ出会ってさえいない筈だ。なのにどうしてそんなことが起こるのか。
おまけに、衝撃的なのはそれだけではない。
メイドの話を呆然と聞き流していると、最後にとんでもない台詞が飛んできたのだ。
「今、客室にいらしております!!」
明らかに早すぎる来訪。アルテミスはまだ亡くなってはいない筈だ。
メイドがその証拠である。
まさか自身が戻って来たことで未来が変わってしまったのかと考えて、リリアは血の気が引くのを感じていた。
これでは対策のしようがない。
メイドに急かされるがままに慌てて仕度をした彼女は、部屋から勢い良く飛び出した。