アーノルド王子
任務報告でアーノルド王子にお目にかかるため、私達は王城を訪れていた。
初めて王城に入ったけど、私の知る世界ではなかった。廊下に敷かれた分厚い絨毯は、意識せずとも足音を立てることはない。カーテンや絨毯には金糸で手の込んだ流麗な刺繍が施されていおり、廊下には様々な絵画や壺、ブロンズ像などが陳列されている。まさに豪華絢爛という言葉そのもの。
シャーリーン様の側近として恥ずかしくないよう平静を装ってはいたつもりだけど、同じ側近で先輩のオードリーに注意されてしまった。
先を歩く同期のリラに浮ついた様子はなく、平然としている。リラに負けないようにと私も気を引き締め、側近としての役割に専念する。
城の衛兵に連れられて案内された部屋に入ると、シャーリーン様に顔立ちの似た男性が、部屋の奥から両手を広げて笑顔で近づいてきた。
「良く来たね、シャーリーン。待っていたよ」
「お仕事中にお時間をいただきありがとうございます、お兄様」
「とんでもない。可愛い妹の来訪だ。私はいつでも歓迎するよ」
「まぁ、嬉しいですわ。
ところで、サロモン。お兄様のお仕事は恙なく進んでいましたか?」
「はい。滞りなく。」
「大丈夫だよシャーリーン。私は、妹との一時を無にするような駄目な兄ではないよ」
「それでしたら、今日はゆっくりとお話出来るのですね?
私との時間を大事にしてくださるお兄様で、とても嬉しいですわ」
アーノルド王子。メロヴィング王国の王子でシャーリーン様の兄君。
初めてお目にかかるが、私が所属している諜報局のトップである。今日は、先日の転生者クリストファーの処分についての報告をするため、訪れることになっていた。
聞いていた通り、兄妹の中は非常に良いらしい。
来客用のソファーにアーノルド様がシャーリーン様をエスコートする様はとても自然で、2人の呼吸がピッタリであった。
2人がソファーに着くと、間を置くことなく紅茶が置かれる。
シャーリーン様の来訪は予定されていたもではあるけど、客を待たせることなく静かにもてなす王子の礼官の仕事ぶりに目を見張る。それなのにシャーリーン様もアーノルド様も当たり前のように受け入れていらっしゃる。これが王族の側近に求められる仕事なのだろう。ファームでは様々なことで高評価を得ていた私だけど、明らかに能力に差があった。まだまだ未熟と言わざるを得ない。
それでもシャーリーン様に恥を掻かせないようにと、私は指先まで神経を張り巡らせた。
「お兄様、礼の件の報告書をお持ちしました。お受け取りください」
シャーリーン様の言葉を受け、私は封筒から報告書を取り出すと1歩前に出る。同時に王子様の後ろに控えていた、先程サロモンと呼ばれていた男性が1歩前に出て「こちらに」と促してきた。
どうやら、サロモン様が王子様の文官らしい。サロモン様も間違いなく優秀なのだろう。文官見習いとして、少しでもお手本となる姿を見ることが出来れば幸いなのだけど。
報告書を渡し終えた私がシャーリーン様の後ろに戻ると同時に、王子様がサロモン様から報告書を受け取っていた。
報告書を読む王子様の表情は変わらないけど、報告書を指差してサロモン様に何か話しかけた。それも数度。
報告書に何か不備があった?
それとも仕事の結果に問題があった?
先程シャーリーン様からお褒めの言葉をいただいたけど、目の前のやり取りで一気に不安に駆られてしまった。もし能力に問題ありと判断されてしまったら、私はシャーリーン様の側近から外されてしまう。主人はシャーリーン様であるけど、王子様は私の上司。例えシャーリーン様が望まれても、能力が足らなければ、妹の命を危険にさらすと王子様は私を解任してしまうだろう。
背筋を冷たい汗がつたう。
私はこれ以上ない緊張の中、王子様の言葉を待った。
「ふむ。ご苦労だった。私としては、事故死を装う必要があるので、半年と期間を設けたのだが。まさか10日ほどで終わらせてしまうとは。
どうやら優秀な者を手に入れたようだな」
「はい。クリスティーナにはとても期待していますの」
どうやら、王子様から合格点をもらえたようだ。張り詰めた緊張感が解ける。
ただそれよりも、シャーリーン様に「期待している」と言っていただいたことに喜びを感じてしまう。
「ありがとうございます。ご期待に添えるよう、頑張りたいと思います」
「では、褒美に私からコードネームを授けよう」
突然王子様がわけのわからないことを言い出した。
私にはファーム卒業時に諜報局から『クリスタル』というコードネームを与えられている。しかも、王族の側近になる者には、局長が直接名付けているはず。それは王子様も知っているはず・・・。私は発言を求めるべく手を挙げた。
「何だ?」
「はい。私にはすでに『クリスタル』と局長直々にコードネームを与えられていますが?」
「気にするな。私が其方に相応しい名をつけてやる。後で変更させれば良い」
「お兄様、変な名前をつけないでくださいね」
「変と何だ。失礼な。私のセンスを疑うのか?」
「ですが、お兄様はいつも髪色とお花を組み合わせているだけではないですか。趣がありません」
「むっ。そのようなことはないぞ。確かにそういう傾向はあるが、常にそうではない。
今からそれを証明してみせよう」
王子様が私の顔を凝視し始めた。最初は頭の方に目を向けたけど、シャーリーン様に指摘されたことを思い出したのか、すぐに視線を下にずらした。
王子様は私の顔をしばらく見つめると、何か確信した表情を浮かべた。その後は部屋の中を見回し始めた。私だけでなく、この場にいる全員が静かに王子様を見守り続けた。
「よし、決まった。
其方は、これから『グリーン・ジプソフィラ』と名乗るが良い」
「ジプソフィラって。やっぱり目についたお花からとっているではないですか」
シャーリーン様の指摘通り、テーブルの花瓶に生けられた花の中にカスミソウがあった。
この方、本当に目についたもので名前をつけてしまわれた。本当に名付けのセンスがない。
「それで、グリーンはどこからとられたのですか?」
「フフン。わからぬか?この者を見ていて感じたのだ。この者からはグリーンを想像させると。
どうだ?言われたことはないか?」
「もしかして、私の瞳の色でしょうか?」
皆の視線が私の目に集まる。
言ってしまった後、激しく後悔した。
シャーリーン様は可笑しそうにコロコロと笑い、側近達は表情を崩さないよう必死に無表情を作り上げる。
王子様からは恨めしそうに睨まれてしまった。
「お兄様、クリスティーナは諜報員なのですよ。見た目で正体がわかってしまうような名前はどうかと思います」
「それなら、お前はどう名前をつける?」
「そうですね。私なら・・・」
シャーリーン様が私の全身を、下から上へと舐めるように見ていく。
正直、名前など記号でしかないので『クリスタル』でも『グリーン・ジプソフィラ』でもどちらでも良い。両方ともセンスはないと思うけど。
ただ、敬愛するシャーリーン様が名付けてくれるというのなら、話は違う。これほど嬉しいことはない。
私は緊張してシャーリーン様の言葉を待った。
「はい、決まりました。
クリスティーナ、貴女のコードネームは『思えども なおぞあやしき逢うことの なかりし昔 いかでへつらむ』です」
思考が止まる。
シャーリーン様の仰ったことがわからない。主人の言葉が、主人の考えがわからないことに焦りを感じる。そもそもコードネームを考えていたはずなのに、なぜ文章で答えているのか?いや、今の文章と言って良いのだろうか?聞いたことのない言葉を口にしていた。一応、近隣諸国の言葉は話せるので、それらの国の言葉ではないことはわかる。遠く離れた異国の言葉なのだろうか?それとも滅びたという神々の言葉?
1人で考えても答えは出ず、私は助けを求めてリラとオードリーに目を向ける。
しかし、2人とも決して私を見ようとはしなかった。
「どうでしょうか?」
シャーリーン様から返事の催促が飛んできた。
同僚に見捨てられ、絶体絶命の窮地に追い込まれてしまった。
主人に嘘はつかないと誓ったけれど、喜んでもらうには心にもないことを言わなければならない。
私は何と答えれば良いのでしょう?
「ちょっと待て。
シャーリーン、今のは何だ?お前はコードネームを考えていたのではないのか?」
「はい。お兄様の仰る通りですよ。良いコードネームでしょう?
お兄様のように直接的な表現よりも、趣がありますでしょう。異世界では、このような表現を“雅”と言うそうですよ」
「待ちなさい。
え~と、1つずつ整理したいのだが、先程お前が言った――文章は何なのだ?」
「あれは、異世界の恋の詩です。『貴方に恋したことで、貴方に逢う前は日々どのように過ごしていたのか、何を考えていたのか思い出せません』という想いを込めた恋歌です。
素晴らしい詩だとは思いませんか?恋する女性の繊細な心情を、見事に表現しています」
「そ、そうか。それで、其方はどうする?今のコードネームで良いのか?」
王子様のおかげで主人の考えがわかった。いや、わかったのだろうか?
取りあえず1つわかったことがある。シャーリーン様も、王子様も、局長も、メロヴィング王家の方々は名付けのセンスがない。
それならば、私がすべきことは1つだけ。主人を笑顔にすること。
「シャーリーン様、素晴らしい名前を考えていただきありがとうございます。謹んで賜ります」
「喜んでくれたようで、私も嬉しいです」
「そ、其方、本当に良いのか?」
「何を言ってるのです、お兄様。恋愛話が嫌いな女性はいません。皆、恋の話が好きなのです。
お兄様もいずれお相手を決めないといけないのです。気に入った方がいたら、恋の詩を送って差し上げるべきです。恋の詩を送られて嫌な女性はいません」
「そ、そうか。覚えておこう」
「なんですかお兄様!?そのようなお顔をされて。お兄様は、もっと女性の気持ちを学んだ方がよろしいかと思います。そのようなことでは、意中の女性が現れても、想いは伝わりませんよ」
「いや、その――非常に言いにくいのだが。
お前が熱心に恋愛を語っている姿を見て、思わずマリア王妃を連想してしまって・・・」
「お兄様!?
言って良いことと悪いことがあります!私、あの方の様に愚かでも淫奔でもありません。
訂正してください」
「勘違いしないで欲しい。お前がマリア王妃に似ていると思っているわけではない。
ただ、“恋愛に夢中な王族”というと、どうしても連想してしまって・・・」
「わかりました。わかりましたから。そのような顔をしないでください。
私も、少々気持ちが高ぶってしまったようです。失礼しました」
「そう言ってくれるか。
ただ1つ忠告しておく。年配の者達の中には、マリア王妃のことを知っている者がまだいる。先程私が連想してしまったように、その者達も楽しそうに恋の話をしているお前を見たら、マリア王妃を思い起こす恐れがある。気をつけなさい」
「そ、そうですわね。ご忠告ありがとうございます、お兄様」
「いや、何と言うか、お前の楽しみを奪うような真似をして済まない」
先程までの楽しげな空気が一変して、重たく沈んだものに変わってしまった。お2人とも気落ちしてしまい、俯いてしまった。
『マリア王妃』 別名『恋狂いのマリア王妃』
お2人と血のつながりがある曾祖母で、先々代の王妃である。けれど唾棄すべき存在である。
確証はないけれど、今では転生者であったと考えられている。
3級貴族のベルガルド家の3女、末っ子である彼女は、学生時代に知り合ったジョージア王子と恋に落ち、結ばれた。それだけなら何の問題もない恋の話である。
しかし彼女の恋は王子だけに留まらなかった。軍務局、財務局、法務局などの要人とも恋愛関係を築いていた。しかも、何故か夫である王子が、その爛れた関係を許すという不可解な状態である。
このことにカロリング教会が激怒し、王家と教会の関係に大きな溝が出来てしまった。
また、彼女は『平等』と『博愛』を謳い、国庫を遣い尽くして、平民達に炊き出しをし続けた。
国を豊かにする、国民達を幸せにすることは為政者の務めであるけれど、炊き出しは王族がすべき務めではない。王族は王族にしか出来ないことをすべきである。
彼らの愚行はこれだけに収まらない。数え上げればキリがない。
結果、彼女と彼らの行為で、王家は多くの貴族の信頼を失ってしまった。
そして国が割れ、財政が傾いたことで、周辺国の暗躍を許してしまった。
こうしてメロヴィング王国はたった1人の転生者のせいで大きく乱れ、崩壊寸前までいったのだった。
他国でも、転生者のために国が滅びたという事実がある。このことから、メロヴィング王家は、国に属さない転生者は脅威と見做していた。
「アーノルド様、そろそろ次の面会が」
「そうか。もうそんな時間か。愛しい妹といると、時が過ぎるのが早いな」
「えぇ。時の精霊の悪戯には驚かされてしまいますね」
シャーリーン様と王子様が立ち上がってことで、任務報告は終わりとなった。
任務のことより、どうでも良い話が大半を占めていた気がするけど良かったのでしょうか?
「何か困ったことがあったら、すぐに先生に言うのだぞ
それと、逢いたくなったらいつでも訪ねてくると良い。シャーリーンの来訪は大歓迎だ」
「わかりました。お兄様のお仕事に差し支えないようでしたら。
お仕事頑張ってくださいね」
シャーリーン様の言葉に、王子様の口元が僅かに引きつったように見えた。
王子様の側近の方達が嬉しそうな顔をしているので、きっと見間違えではなかったのでしょう。
大変優秀な方らしいけど、それ故多忙と思われる。シャーリーン様との会合が『報酬と罰』として扱われていることがなんとなく推測出来た。
シャーリーン様の意外な一面を見せられ、とても驚かされましたけど、王子様の側近の方達と会えたりと、私にとっては価値のある会合あったと言って良いでしょう。
そうだ。後でリラにさっきのことを問いつめておかないと。