【第七話】夜会編その3
しなやかなお辞儀と共に齎されたマリアのお家情報に揺らぐことなく、アイリーンは言う。
「まあ!ではあなたが、あのレオナルド様の」
「はい。先ほど、見知らぬ男性にしつこくされて困っていたところ、ジョシュア様に声をかけていただき、大変助かりました」
「マリア嬢の言う通りです。だからアイリーン、その顔をやめなさい」
ジョシュアは苦笑して、マリアに対して敵対心むき出しのアイリーンをやんわりと窘めた。
小動物が逆毛を立てるかのようにマリアを威嚇した様子のアイリーンは、明度の高い金色の巻き毛や、大きな空色の眼と相まって、マリアの目から見てもとても可愛らしかった。
「ふふ。とても素直で、可愛らしい婚約者様ですね」
「申し訳ない、マリア嬢。大分失礼ですよね」
「いいえ、宜しいのですわ」
「彼女の名はアイリーン、辺境伯のご令嬢です。私は伯爵家の次男ですから、私が婿入りする予定なのです」
腕にしがみつく小柄で華奢なアイリーンを、困ったように、しかし優しい目で見つめたジョシュアは、マリアに向き直って説明した。
知り合いではあるものの、親しいというよりは適度な距離感のある二人のやり取りを目にしたアイリーンは、自分の勘違いを反省したらしい。
あっさりと潔く、マリアに非礼を詫びた。
「マリア様、先ほどは失礼致しました。アイリーンと申します」
「私の方こそ、勘違いさせるようなことをして申し訳ございませんでした。
この度はデビュタントおめでとうございます。純白のドレス、とても良くお似合いです」
アイリーンは、素直なのだろう。
少し拗ねた様子を残したままではあったが、「ありがとうございます」と照れたようにはにかんでお礼の言葉を口にした。
大広間に流れる音楽が一旦止まって、また違う音楽が流れ始める。
その時、わっとホール中央付近からどよめきが起こる。
マリアがそちらを見ると、そこには、レオナルドの手を取る銀髪の美女の姿があった。
(旦那様が、綺麗な女の人と、一緒にいる……)
レオナルドが見知らぬ女性をエスコートしている姿を初めて見たマリアは、ショックのあまり言葉を失う。
レオナルドの表情は、マリアたちのいる位置からは見えない。
しかし彼女は、神秘的な銀色の長い髪をゆったりと複雑に結い上げ、菫色の華やかなドレスを身にまとい、アメジストのような瞳でレオナルドを見つめているのが見えた。
「お相手は王女様ですね」
ポツリと、アイリーンが言う。
銀の髪とアメジストのような瞳は、基本的に王族にのみ現れる身体的特徴だ。
「人気者の夫を持つと大変だな。マリア嬢、大丈夫ですか?」
やれやれと溜息を付き、ジョシュアはマリアを労る。
アイリーンは、マリアの気持ちを知ってか知らずか、喋ったこともないレオナルドを思わず責めるような口調で呟く。
「こんなにも独占欲丸出しの格好を妻にさせておいて、他の女の手を取るなんて許せませんね」
「アイリーン」
「酷いですよ。妻のピンチに助けに来ないどころか、他の女にうつつを抜かすなんて」
「アイリーン。王族からの誘いは断れないんだよ」
「分かっております。それでも、嫌なものは嫌なのです。
――もし、私がマリア様だったら、後ほどレオナルド様にグーパンをお見舞いします」
「だから、そういうことを言うのはやめなさい。せめてグーで殴る……いや、拳で殴るかな?」
「どれも同じですわ」
「うん、まぁそうなんだけどね」
まるで自分事のようにプリプリ怒るアイリーンに、ジョシュアはまたしても苦笑した。
アイリーンの言動に、マリアの方がハッとさせられる。
(そうか。私、旦那様が他の人と一緒にいるのが嫌なんだわ)
嫌だと認めた瞬間、マリアは、目の前が急に開けた気がした。
感情表現が豊かなアイリーンに、表向きは苦言を呈しつつも、ジョシュアはどこか楽しそうだ。
恐らくジョシュアは、アイリーンの率直さを好ましく思っているのだろうとマリアは思った。
「あの、ジョシュア様。
私、ジョシュア様とダンスがしてみたくてお探ししていたのです。
私と、踊っていただけますか?」
空色の大きな瞳で、一生懸命にジョシュアを誘うアイリーン。
一も二もなく、ジョシュアは快諾する。
「喜んで、お姫様」
「では、早く参りましょう!」
ぱあっと嬉しそうにアイリーンは笑って、ジョシュアの腕を引く。
「わかったわかった。マリア嬢、ではまた」
ジョシュアの優しい眼差し。
嬉しそうに笑うアイリーン。
仲睦まじくホールの真ん中へと姿を消す二人が、マリアにはとても眩しく見えた。
(もし私が、もっと早くアイリーン様のように素直な気持ちを旦那様に言えていたら、何か変わったのかしら)
マリアは人混みを掻い潜り、吸い寄せられるかのように、踊る二人の姿が見える場所まで来て足を止めた。
息のあった優雅なステップに、思わず見惚れてしまう。
整った容姿と、冷たく見えるほどの美貌を持つレオナルドが、ビスクドールのように綺麗な王女と踊っている。
その様子はまるで、一枚の絵画のようだった。
(すごくお似合いだわ。私なんかより、ずっとお似合い)
謎の敗北感を受け入れた瞬間、マリアは鉛を飲み込んだような気持ちになった。
(もし、旦那様が王女様を好きになったらどうしよう)
想像した途端、急に底のない落とし穴にでも落ちたかのような感覚に陥る。
目頭が熱い。
視界で揺らめく王女様の菫色のドレスが滲む。
(――ああ、私、旦那様のことが好きなんだわ……)
自覚してしまったら最後。
マリアはもう、この状況に耐えられそうになかった。
他の人を見ないで。
他の人のところへ行かないで。
他の人に触れないで。
そんな身勝手な想いが湧き上がり、胸が締めつけられるように痛んだ。
溜まった涙を瞬きで引っ込めようと努力して、しかし失敗して、涙がぽろりと零れ落ちて頬を伝った。
マリアは慌てて俯いて顔を隠し、踊る二人に背を向けて、逃げるように歩き出した。
*****
マリアが足早に向かった先のバルコニーは、幸い無人だった。
大広間の光が漏れている以外の明かりはない。
ここならば、泣いていても誰にも気づかれないだろう。
マリアは高を括り、声を殺して、我慢していた涙をボロボロと溢れさせた。
マリアには今まで、レオナルドが他の誰かのものになるなどという発想が1ミリもなかった。
故に、本日見た光景と、そのあと覚えた危機感――レオナルドが他の女性にとられてしまうのではないかという恐怖――は、マリアにかなりのダメージを齎した。
初めての感情をうまく処理できず、マリアは肩を震わせ、息を潜めて音もなく泣いた。
「マリア」
不意に、ここにいないはずのレオナルドの声が背後から聞こえて、マリアはビクリと身を震わせる。
「マリア、やっと見つけた」
安堵の色を滲ませたレオナルドの声がする。
しかし、マリアは振り向かなかった。
正しくは、とても振り向けなかった。涙でぐちゃぐちゃになっているから。
「どうかしたのか?」
心配そうにレオナルドは声をかけ、ミントグリーンのドレスを着たマリアの隣に立つ。
バルコニーの柵を握りしめたまま俯くマリアの顔が見えず、レオナルドは少し身をかがめてマリアの顔を覗き込み、息を呑んだ。
「――どうして、泣いている?君を泣かせたのはどこのどいつだ」
思いの外、低い声が出た。
強い怒りを滲ませ、レオナルドは言った。
凍てつくような眼差しでマリアの答えを待つレオナルドは、鬼気迫る雰囲気だ。
マリアは咄嗟に答えられなくて、唇を噛み、視線を泳がせた。
レオナルドに、何をどこから話すべきか。
泣いた後の思考力が低下した頭で考えてはみるが、マリアに妙案は浮かばない。
レオナルドが、マリアではない別の女性と見つめ合い、笑い合って、愛を囁き抱きしめる。
きっとその女性は、すぐにでも魅力的なレオナルドを好きになってしまうだろう。
想像するだけでつらい。
けれど、この想像をそのまま全部を口にすることはなかなか勇気が必要で、躊躇われる。
そんな風にマリアが逡巡している内に、レオナルドが折れてきた。
「すまない。困らせてしまったな。
具合が悪いなら馬車を呼ぼう。今日はもう帰ろうか」
自嘲気味な微笑みを浮かべたレオナルドは、どこか傷付いた様子に見えた。