【第六話】夜会編その2
夢のような時間は、あっという間に過ぎる。
レオナルドは軽やかなステップで、そつなくマリアをリードした。
マリアはレオナルドに身を任せつつ、くるくると回る。
マリアは元々伯爵家のご令嬢なので、ダンスも礼儀作法も淑女教育の一環として受けてきていたが、夜会で、家族以外の異性と踊るのは初めてだった。
ニコニコと嬉しそうな顔で、楽しそうに踊るマリア。
レオナルドは愛しくて堪らない気持ちになって、腕の中の小柄な人に、より体を密着させた。
マリアはそれに気づいたのか、かっと頬を染めて視線を泳がせたものの、拒絶の色は見せず、くすぐったそうにはにかんでいる。
嫌がられていない事実に胸を撫で下ろし、レオナルドはステップを踏み続けた。
今日のマリアは、儚さと美しさが倍増だ。
エメラルドとダイヤがあしらわれた金のネックレスとイヤリングは、ミントグリーンのドレスに見事にマッチし、マリアの白い肌によく似合っていた。
編み込みと三つ編みの合わせ技で、複雑に、しかし美しく纏められたハーフアップは、マリアの癖のないサラサラのアッシュブラウン色の髪を華やかに見せ、同じくエメラルドとダイヤの髪飾りが映える。
踊りながらレオナルドが周囲に意識をむけると、マリアにうっとりと見惚れているものと、ギラギラといやらしい目で見ている者が、ちらほらと目に止まる。
(ここがもし敵地なら、ここから射るか、捉えに行くか……)
内心、相当物騒なことを考えつつ、レオナルドは、白い肘上まである手袋をしたままのマリアの手を持ち上げ、流れるような仕草でそっと手の甲に口付けた。
(――誰にも、渡さない)
レオナルドとマリアを見ていた一部のご令嬢から、きゃあっという声が上がる。
少し前までは、クールというか最低な夫に違いなかったが、そんなことを周囲が知るはずもない。
色気が滴りそうな気障な仕草も、切なげな面持ちも、イケメンが繰り出すと最高に似合っているから手に負えない。
レオナルドは、マリアと同じく、根が真面目である。
その結果、こんなにあからさまに好意を示し、恋人達のようなスキンシップをしてはいるが、マリアが懐妊して以降清い関係のままだ。
マリアの離縁希望を即日却下したその日から、レオナルドは己の中の箍を外し、自らの気持ちや愛情を言葉や行為に乗せ、分かりやすくマリアに向けてきた。
しかし、結婚当初よりも遥かにマリアの気持ちが離れてしまっていて、むしろ嫌悪されていないことが奇跡のような状態だと気付いたため、レオナルドはマリアに身体を開かせることを躊躇った。
その結果、マリアの気持ちがこちらに向くまでは、という条件付きで我慢している。
しかし、マリアを知れば知るほどに、日々、想いは募る。
淡くくすんだ緑色の豊かな布地に、金色の繊細な刺繍に絡みついた衣装を纏い、ひらひらと軽やかにホールを舞うマリアは、まるで森の女神のようだ。
レオナルドは、しなやかに踊るマリアから目が離せなかった。
二人はそのまま、続けて3曲踊った。
それは、レオナルドにとってもマリアにとっても特別な時間で、とても良い時間だった。
「マリア、楽しかった?」
「ええとても。ありがとうございます。すごく素敵な思い出ができました。旦那様は楽しかったですか?」
「私は、そうだな。生まれてはじめて、夜会が楽しいと思えた。君のおかげだ」
少し息が上がった様子で、マリアは嬉しそうに笑う。
かたやレオナルドは、息一つ乱れていない。
優雅に微笑んで、感想のくせに甘やかな台詞を吐く。
「そんな……旦那様は大袈裟です」
困ったようにはにかむ想い人に、レオナルドは胸が一杯になった。
あっという間の3曲だった。
いつまでも、いくらでも踊れる気がした。
しかし、これ以上同じ相手とばかり踊っては失礼になる。
レオナルドとマリアは、二人で大広間の中央から離れ、休憩を兼ね、壁際のビュッフェのエリアで喉を潤す。
一息つくやいなやで、レオナルドが年配の男性に声をかけられ、マリアは一人、壁の花になった。
レオナルドは、マリアを残してこの場を離れることにかなり葛藤があったようだった。
しかし、レオナルドがすぐに断らないところを見ると、多分行くしかない相手なのだろう。
本日、既にマリアは、レオナルドが何人かに対して断っているのを目にしていたため、さり気なく空気を読んだ。
マリアが、快くレオナルドの背中を押した形だ。
レオナルドは、「一人にするのが心配だ、何かあったら助けを呼ぶんだよ」等と言い残し、物凄く名残惜しそうにその場をあとにした。
先ほどのレオナルドとの夢のような時間を思い出し、どこか夢を見ているような、ふわふわとした気持ちでマリアがソファに座っていると、目の前に影が落ちた。
「君、一人?」
掛けられた声にマリアが顔をあげると、知らない男性が立っていた。
「いいえ、夫と参りました」
「へぇ、既婚者なんだ」
淡々と答えたマリアに、男はニヤニヤとした表情になって、品定めするように上から下までマリアを眺める。
整った顔立ちで清楚な雰囲気だが、小柄な割に成熟した体つきと滑らかな白い肌、ツンとした態度。
そのアンバランスさがどこか危うくて、男の食指が動く。
「向こうに休憩室があるから、疲れたならそこへ行くといい。付き合うよ」
「いいえ、結構です。ご配慮いただきありがとうございます」
「遠慮するなって」
「遠慮はしていません」
「疲れているんだろう?」
「疲れておりません」
「いいだろう、ちょっとくらい。あんたも愛人とか探してるんだろ?」
苛立ったような男の声と共に、マリアは急に手首を掴まれ、グイッと立ち上がらされる。
その拍子によろけ、不本意ながらその男の胸元に体ごと倒れ込むような形になった。
男は、さも紳士であるかのように自然にマリアを支える、と見せかせて、抱きしめるように拘束してきた。
「やめてください。離して」
掴まれた手首も、抱きかかえてくる腕も、痛い。
マリアは顔を歪めた。
しかし、成人男性にガッツリと捕まえられてしまっては、マリアが少々抵抗しようとも無意味に違いなかった。
(どうしよう。旦那様……!)
内心パニックに陥りそうになりつつ、マリアは祈るようにレオナルドのことを思った。
しかし、その時耳に入ってきたのは、レオナルドの声ではなかった。
「もしかしてマリア嬢?」
「ジョシュア様!」
マリアは、見ず知らずの男の腕の中から、縋るような視線を送る。
そこにいたのは、2週間ほど前に知り合ったばかりの伯爵家の次男だった。
マリアは、義母クリスティーヌの「外の世界を知り、他に目を向けてみる」という提案を受け入れ、二人で観劇やお洒落なカフェに始まり、孤児院への慰問や特産品の生産工場等にも出かけた。
その中でたまたまジョシュアに出会い、クリスティーヌの知り合いということで紹介してもらったのは、確か2週間ほど前のこと。
ジョシュアはマリアより3歳年上で、外国との貿易に力を入れている伯爵家の次男だ。
ほとんど赤に近い茶色の髪と、赤ワインのような色の目をした好青年である。
「ジョシュア様、助けてください」
震えそうになる自分を奮い立たせ、マリアは、瞳を潤ませながら声を上げる。
捉えられた小動物状態のマリアを安心させるように、ジョシュアはニコリとする。
無論、その目は笑っていないが。
「彼女を放しなさい。――君は確か男爵家の長男だろう?」
ジョシュアは、ドスの効いた声で、眼光を鋭くして男の身分を言い当てる。
実は小心者だったのか、それとも世間体を気にしたのか、男はチッと舌打ちして早々にマリアを解放した。
そして、足早にその場を後にした。
「ありがとうございます、ジョシュア様」
安堵のあまり泣きそうになりながら、マリアはジョシュアに頭を下げた。
「このくらい気にしないでください。それより、大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
「ジョシュアさま!!」
マリアにジョシュアが一歩近づいた瞬間、淑女としては少々大きめの声がその場に響く。
マリアがビクリとして声の主を確認すると、ふわふわと揺れる豊かな金の巻き毛を高く結い上げ、白いドレスを翻して慌てて駆け寄ってくる女性が一人。
「アイリーン。もういいのかい?」
「はい。もう終わりました」
ジョシュアにアイリーンと呼ばれたその人は、ジョシュアの隣にぴったりと寄り添って微笑んだあと、マリアに向かってその空色の大きな瞳をキッと強くした。
白いドレスということは、彼女は今日がデビュタントなのだろう。
彼女にとって、一生の思い出に残る日に、憂い事は似合わない。
咄嗟にそう思い、マリアはアルカイックスマイルを顔面に貼り付ける。
「お初にお目にかかります。侯爵家レオナルドの妻、マリアでございます」
マリアは、淑女教育で叩き込まれた美しいカーテシーを決めた。